蝉と黄色いワンピース

黒豆子

第1話

夏の暑い朝、ミンミン蝉の鳴き声で目が覚めた。窓辺の柿の木から生気あふれる声が鼓膜を強く刺激してくる。

高校に入学してから早4か月。あっという間に3年間終わっちゃうんだろうなぁ。天井を見ながら思う。そして相変わらず蝉がうるさい。

蝉は土の中で過ごす時間は7年もあるのに、地上で生きられるのはたったの一週間らしい。寂しい人生だろうな、土の中での記憶ってあるのかなぁ。


1階のリビングから電話の音がした。腰をあげようとして、すぐに戻した。起きたくなかった。電話の主はわかっている。隣に住んでいる父方の祖母だ。祖母はお嬢様育ちで、家事が好きではなかったが、祖父の母つまり姑がとても厳しい人だったので、我慢してこなしていたらしい。結果、姑が他界してからは家事に手を抜くことが多くなったという。

電話は鳴り続けたままだ。

父は仕事でいない。母はまだ寝ているのだろう。

「‥うるっさい!」仰向けの状態から枕を膝に投げつけた。

フラフラと階段を降りて、やっと受話器まで着いたと同時に音は止んだ。どうせ大した用ではないはず。なんだよ、まだ眠れたじゃん。再び電話が鳴りだした。今度は勢いよく受話器を取った。

「なに」

「‥佳奈子さん?あのねぇ買い物を‥」

「違う、美奈だけど」佳奈子は母親だ。

「あっ美奈ちゃん‥お母さんに変わってくれる?」

「今寝てるからあとで‥」

「じゃ起こして」祖母は遠慮がない。

「いや、お母さん昨日すごく疲れてたから寝かせてあげてよ」敢えて少し迷惑そうに言う。

「あのねえ、買い物を頼みたいの。あ、美奈ちゃんでもいいけどね。えーっと豆腐と‥」

「ごめん。無理」

「あらそう。じゃ、広幸を‥」

「お父さんは仕事」

昨日父に買い物を頼んで、父が日用品やら食料品やらが入った大きなビニール袋をいくつも運んでいるのを見ている。その上まだ買い物しろとは全く勝手すぎる。仕方ない、私が行くしかないか‥眩しすぎる太陽を見て気が沈んだ。

「じゃあおばあちゃん、私が自転車で‥」言い終わらないうちに一方的に切れた。乱暴に受話器を戻した。


着信音が鳴った。今度は受話器からではない。マリンバの軽やかな音色。

あー‥ほんとウザイ。祖母は母の携帯に電話をかけているのだ。

うんざりしながらスマホの音量を下げた。

「ちょっと何してるの?」

振り向くと母が寝ぐせをなでながら階段から降りてきた。


「あ、おばあちゃんから‥」と言う間もなく私の手から携帯をとった。

「はい、佳奈子です。お母さんどうかしました?」優しいトーンで、さっき寝ていたとは思えない声だった。

「はい‥仕事終わったら‥はい」

やりとりから祖母に一方的に口を挟まれている様子が伝わってくる。人の話は聞かないくせに、自分の言うことは主張したがるんだよなー

「ええ、わかりました。じゃあ今日の午後‥あっはい、はい」

母は何事もなかったようにスマホを置いて、

「なに食べるー?」呑気な声でケトルに水を入れている。

「ねえ、おばあちゃんそろそろやばくない?」

母は私とは目を合わせずに「え?なにが」とほうじ茶パックをケトルに入れて火をかけた。

「なにがって気づいてるでしょ?おばあちゃん、病気が進んでいること。認知症ではないけど、体が重くて腕が上がらないだの、自己中心的な性格になっちゃってるってこと!」

「別に、私は困ってないわよ」

嘘だ。嘘をつけー!と心の中で叫んだ。最近母と父は自分の時間を持てていない。

余暇は全て祖母に使っているのだから。この間、お風呂上りに、父が母にそろそろ俺たちの生活にも負担が増えてきたと言っているのを聞いてしまった。

朝食は、二人とも黙って食べた。

「じゃあ、仕事行ってくるね。帰りはちょっと遅くなる」

「おばあちゃんの買い物のせいで遅くなるんだよねー?」と聞こえよがしに言ってみるも、母は無反応だった。


その日の深夜3時半、階下からドンドンドンと音がして、

「ひろゆきー、起きてくれー、和子が、体動かなくなっちゃって。便所にも行けないんだよぉ‥チャイム鳴らしても深夜だから気づかないって言ったら、和子に合鍵で入れって言われてよぉ、ドア開けたけどチェーンが引っかかってて‥‥」祖父はパニック状態だった。

「とりあえず、今行くから」父はそう言って出て行った。

0時過ぎにやっと寝られたばかりの父の疲労を思い、枕が濡れた。


「病気が悪化してて今までの薬じゃ抑えられなくなってる。心配症はもともとだけど、言うことがネガティブで、もう親父の方が参ちゃってるよ」母に話す声が聞こえた。母と父の時間だけじゃない、祖母のことで私の夏休みも奪われている‥そう思ったら無意識に口が動いていた。

「前から思ってたけど、施設に入れたほうがいいよ!私たちの時間が奪われるのはおかしい!おばあちゃんのせいで人生が無駄にされてる。そんなの嫌だよ」

父は黙っていた。母もじっと見つめているだけだった。

「子供は黙ってろってこと?‥」台所に行き、水を飲んだ。

父は私を無視したように話に戻った。

「明日には介護用ベッドが届くから、あとお風呂の椅子も変えて、トイレにも手すりをつけてもらうことになってる…」

そろそろと自分の部屋に戻ろうとしたとき、

「美奈も83歳になったらわかるよ。いきなり施設に入れられたらどう?冷酷だと思わないかい。おばあちゃんだけじゃない、自分も傷つくよね。それをわかってほしい」父はそれだけ言った。


介護が本格化し始めた。父と母は起き上がれない祖母の腰を支えて、食事とおむつの交換‥私は見ているだけだった。四六時中祖母のことばかり‥。


「ねえ、美奈洋服買いに行かない?」久しぶりの母の誘いに、「行く行く!」と乗り気で応えた。洋品店に着くと、私の服を選んでくれると思いきや、母は祖母の服を探していた。

「ねえ、これどう?おばあちゃんに似合いそうじゃない?」

私は呆れて返事もしなかった。母は動ぜず鼻歌を歌いながら服を選んでいる。

「人のために服を選ぶって、とっても楽しいことじゃない?それも感謝があるからできることなのよね」

「なに綺麗ごと言ってんの」

結局、私は祖母の洋服を一着だけ選んであげた。黄色いワンピース‥とても似合いそうだったからだ。


「ただいま~お母さん、買ってきましたよ」母は満面の笑みで祖母の部屋に入った。

「あらまあ、かなこさん。ありがとうね。でもね、腰が上がらないのよ‥うっ‥はあ無理ね」

介護ベットから起き上がろうとする祖母の腰とシーツの間に手を挟み、ゆっくりと持ち上げていく。

「ちょっと佳奈子さん‥そこ痛いのよぉ‥もう、もっと下のほうよ。下手ねぇ‥」

「あら痛かった?ごめんなさい。もっと勉強しなくちゃ」

手の位置を変え、何とか支えられた。母は意外に力持ちだ。祖母はけっこう太っているのだ。

「タグ切ってあげるね。おばあちゃん」

「あら、ありがとう。美奈ちゃん、背が伸びたわね~ ちょっと佳奈子さん、また痛くなってるわよ。もっと下を支えてちょうだい」祖母の声が冷たく聴こえて腹が立った。母と父がどれだけあなたに時間をかけているのか、そんなことにも気づかずわがままばっかり!

腰がおさまった祖母は口角を上げて、

「はい。洋服見せてちょうだい」と言った。

私は一着一着広げながら、これは刺繡が凝ってておしゃれだよとか、綿100%だから触り心地が良いとか、前開きだから着やすいよなどできるだけ丁寧に説明した。

「これは私が選んだ黄色いワンピース。おばあちゃんに合うサイズだし、何よりこの黄色い明るさがとても素敵じゃん?ロングだから涼しいし…」

「それは無理ね」祖母は躊躇なく言い放った。母の眼が少し揺れる。

「あたしには若すぎるわ。しかもこんなに長いと着るのが大変よぉ。もう体が動かないから、長いスカートは履けないわ」

私は祖母をじっと見つめた。怒りを通り越して、もういらないこんな人、家族にいらないという感情が沸き上がってきた。母がその様子を察し

「私たちが着せてあげますよ~この生地、柔らかくて伸びるから着させやすいと思います。みなが本当に考えて選んでくれたんですよ~」

「それは嬉しいのよぉ。嬉しいのだけどね、ちょっと恥ずかしいじゃない」

バンっ!!気づくと床を思い切り両手で叩いていた。

「恥ずかしいって何?おばあちゃんのことなんて誰も見ないよ。そんなボロボロの体じゃ‥体じゃ‥」

言った瞬間、心に激痛が走った。祖母はとても悲しい目をして胸の左に両手をあてていた。ああ、命を抱きしめているんだ。私から傷つけられても大丈夫なように‥命に手をあてているんだ。



気づくと病室にいた。隣には目をつぶったままの祖母が見える。

腕には点滴がついている。

「美奈、聞こえてるの?」という母に「へ?」とまぬけな声が出た。

「ただの貧血ですって。良かったわね」

「うん‥あのさ」

「なあに?」

「覚えてないんだけど‥」

「え?ふふっ‥美奈が泣きながらおばあちゃんにごめんなさい、ごめんなさいって言いながら、二人して気を失っちゃってびっくりしたわよ。」

祖母は私が起きる10分前に目覚めて、水を一口飲んでまた寝ちゃったらしい。

「その時、おばあちゃん言ってたわよ。もうすぐ土にかえるから、今は優しくしていてねって」

言葉が出なかった。その時、思い出したのはミンミン蝉だ。

土の中にいる時間はとても長いのに、外に出ている時間は1週間、寂しい人生だなんて思ったけど、人も同じかもしれない。誰かと共有できる時間は蝉が外に出ている時間と同様、とても短いのかもしれない。長いようで短い。私たち家族にとって祖母といられる時間は、それぞれの人生のほんのひとときなのだ。おばあちゃんが死んでしまったらもう二度と話すことはできない。死んでしまったら、一緒にいた時間よりもずっと長い年月を、土の中のおばあちゃんを思うことになるのだろう。

わたしは横で寝ている祖母の頬を、優しくなでた。


                 了




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蝉と黄色いワンピース 黒豆子 @kuromameko1357

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