第16話 眼の進化は、彼女の為に
瀬鱈奏夢
――
旧校舎へ向かう道中、僕の心の中には少しだけ悩みが生まれてしまっていた。
もし、瀬々木さんとの浮気そのものが無かったとしたら、一体どうなるんだ? 実は全てが千奈の見間違えで、冨樫も瀬々木さんも何もなかったら? その場合、千奈が一人で暴走しただけであって、多分冨樫は千奈の事を許すのだろう。
そして、僕は一人になる。
元々何も無かった関係なのだから、千奈の元を去るのが落とし前としては正しいんだ。
少しだけうずく片目を抑える、僕の心が何かを訴える。
多分……数日は学校を休むだろうな。
失恋の経験はした事があるけど、千奈みたいに進んだ関係じゃなかった。
勝手に片思いして、勝手に告白して、勝手に暴露されて。
当時の僕は心を病んでしまって、感情が見えるぐらいに頭がおかしくなってしまっていたけど。今回の失恋はその比じゃないぐらいの大ダメージに違いない。想像するだけで目がうずく。
でも、それでも良い。好きになった千奈を悲しませる様な事はしたくないんだ。
その時は笑顔で千奈と冨樫を祝福するさ、それが僕の便利屋として成すべきことだから。
「あれれ? 渚砂に一年生君じゃん。二人揃ってどこ行くの?」
旧校舎へと向かう途中、アニメ声みたいな声色で話しかけて来る女の子がいた。こんな子いたっけ? というか校内でこんな派手な化粧やネイルしたら先生に注意されそうだけど。
「……一瞬分からなかった、なに? 澄芽もそんなメイクする様にしたの? それともそれ、私の真似? あはは、ウケる、超似合ってるじゃん」
「うん、好きな人がね、ギャルが好きなんだって」
澄芽? 澄芽って、御堂中澄芽か! カラオケ以来見てなかったから分からなかったけど。っていうか、こんなの分からないよ。今の姿かたちはどう見ても……どう見ても、渚砂さんじゃないか。いや、似すぎてる、遠目に見たら渚砂さんが二人いる様にしか見えない。
「へぇ……その好きな人って、冨樫?」
「えへ、どうでしょ? とにかく今は旧校舎行かない方がいいよ」
「何でさ」
「何故でしょう? 忠告はしたからねぇ~」
ヒラヒラと手を振りながら立ち去る御堂中を尻目に、僕は瀬々木さんを見る。
「瀬々木さん、今の御堂中さんって」
「……冨樫と浮気したのは、多分アイツなんだろうね。しかし、なんでアタシの恰好をしたんだか。とにかく行くよ、千奈が心配だ」
御堂中の忠告は無視して、僕達は旧校舎三階へと足早に向かう。
かび臭い、ほとんどの生徒が近寄らない旧校舎。
でも、密会をするには好都合な場所ではあると、廊下の足跡が物語っている。千奈と冨樫だけの足跡だけじゃない、数千の足跡が埃の上にあるのだから、ここがどれだけの生徒の隠れ蓑になっているのかが想像は容易い。
でも、今は放課後。文化祭の準備で忙しい運動部の人達や、文化系の人達は展示でてんてこまいの今、旧校舎に向かう人なんか一人もいない。だから千奈はここを選んだのだろうけど。
「……いないのかい? 随分と静かだね」
別れ話をしに行っているのだから、話し声ぐらいは聞こえてきそうなものだけど。渚砂さんが言う通り、思った以上の静けさが周囲を包みこんでいる。階段を上り三階まで来ても相変わらず静かで、けど、足跡はある。22センチくらいの小さな足跡、間違いなく千奈はここに来たのだろう。
「千奈、いないの? 冨樫?」
カラカラと音楽室の扉を開けるも、そこには誰もいなくて。
「いない……もう話は終わっちまったのかね」
「……いや、流石にそんな早く終わるとは思わないんですが」
誤解が解けて二人仲良く帰ったとか? いや、それなら御堂中さんはきっとあんな事を言わない。行かない方が良いって事は、きっと僕達にとって何か不味い状態になってるって暗に伝えてるに違いないんだ。
けど、実際ここには誰もいない。
奥の方に片付けられた机に、そこに乗せられた椅子。
音楽室らしく、天井付近に飾られた音楽家たちの自画像。
カーテンが外され段ボールが掛けられた窓に、足跡の残る床。
……ん? 足跡、なんだか随分と。
「どうしたのさ? 急にしゃがみ込んで」
「いや、この音楽室ってほとんど使われてないと思うんですよね。他の生徒がサボりに使うとしても、ここまで来る必要は無いと思いますし。その割には足跡、多くありません?」
「……言われてみれば、多いかも」
「千奈の靴は小さいでしょうから、多分これが千奈なんですよね。それが、こんなに動くかなって。ちょっと、気になります」
気にはなるけど、そこから何かが見えてくる訳じゃないし。
なんだろう、千奈は一体どこに行ってしまって――。
「ん? なんでお前等こんなとこにいるんだ? お前等か? ここで暴れてるのは」
突然男の人の声がして振り返る。すると、そこには腕っぷしの良い学年主任の先生が。
「あ、いや……暴れてる?」
「おお、そうだぞ? 今さっき匿名で職員室に連絡が入ってな、旧音楽室で男女が暴れてるって通報が入ったんだよ。でも、お前達が暴れてる様には見えんよな」
僕達が来る前に誰かが連絡した? 暴れてるって、僕達が来るまでずっと静かだったんだぞ?
「その匿名って、男女どっちでしたか?」
「女だよ。お前達もこんなとこにいないで下校しなさい」
女? 可能性としてあるのは、僕達に忠告した御堂中さんだ。でも、なんで? それだけの事を冨樫が計画したって事か? 考えろ、多分、千奈が見たのは変装した御堂中だ。という事は御堂中と冨樫は協力関係にあったという事。けれど、見限りをつける何かを冨樫が提案したんだ。
それは、多分……そうか。冨樫の奴!
でも、いない、いや、いるはずだ! 近くに、絶対に!
「どうしたのさ、急に眼を押さえて」
「多分、千奈は近くにいます! 冨樫と一緒に!」
眼がうずく、探せ、色として見えているのなら、見えるはずだ!
僕の眼には見えないものを映すことが出来るんだろ、千奈は、千奈はどこだ!
眼球の圧が増してる気がする、これは、初めて感情が見えた時に似ている。
ぼんやりとした風景に色が浮かび上がる、先生の色は白、瀬々木さんの色は黄色。
ぐにゃりとした世界で、君を探す。
ただ君を守る、その為だけに。
もっとだ、もっと見える眼をっ!
もっと千奈の笑顔が見たい、もっと千奈と一緒に過ごしたい!
もっと、もっと、ずっと一緒にいて彼女を護りたいんだ!
だから、例え浮気から始まった恋だとしても……始まりが普通じゃなくても!
僕は千奈を心の底から愛してみせる!
『奏夢』
――千奈の声が聞こえてきた気がした……それまで見えていたもの全てが見えなくなって、景色が消えて、空間が消えて。まるでゲームのバグ画面の様にピクセルが浮かび上がり、消える。
音楽室の全てが歪んで、壁が消えて、机が椅子が、何もかもが消えて色だけになる。
感情だけの世界で、僕は千奈を探す。
側にいる白と黄色、そして……少し離れた所に存在する黒と赤!
「ちょ、ちょっと、アンタ眼から血が」
渚砂さんの声と共に、急激に視界が元に戻った。
眼球に針でも刺さったかのような痛みが襲い、僕は右目を必死に抑える。
「ぐっ!」
けど、大丈夫。
動けるし、左目は見える!
「……っ、いました! この先です!」
旧音楽室から出て隣の部屋、旧音楽準備室。
開き戸になっている扉には鍵がかかっていて、押しても引いてもびくともしない。
「先生この部屋の鍵は!」
「鍵? 職員室までいけばあるかもしれんが」
「そんなの待てません! 今すぐ! 中で千奈が!」
「壊せばいいんだよ」そう言いながら、瀬々木さんが扉に強烈な一撃を加えるも、壊す事は出来なくて。それを見た先生が止めようとしたが、僕もそれに加担すると「ま、取り壊しだからな」と諦めたのか先生も協力してくれた。
三人掛かりで破壊した扉の先、厚いガラスで阻まれた防音室と書かれた小さな部屋。その中で四つん這いになっていたワイシャツ姿の冨樫が僕達に気付き、しばらく硬直した。次の瞬間、防音室の扉を開け放ち、被服を整えたりはせずに脱兎の如く逃走を図る。
「なんだ貴様は! どこのクラスだ!」
さすがは学年主任の先生だ、破壊した入り口を塞ぐようにして両手を広げ、走ってきた冨樫をラグビーのボールの様にしてる捕まえる。上はワイシャツで、下は何も穿いていない冨樫を見て、僕は彼が何をしようとしていたのかを理解した。
「なんだよ手前ら! 離せよ糞が!」
悪びれる事もなく先生の手を抜け出そうとする冨樫に対し、僕は猛烈な勢いで剥き出しになっている彼の金的目掛けて蹴りを放つ。上履きを通して伝わってくるギニャリとした感触。
あ、これ、潰れたかもしれない。
冨樫は僕の一撃を受けると、そのまま悶絶し必死に股間を押さえる。
「千奈! 千奈! 大丈夫!? やだ、千奈ぁ!」
奥から瀬々木さんが悲鳴を上げていて、僕は冨樫を先生に任せ、奥へと向かう。そこには、頭にかけられていたであろうボロ布を外され、制服を乱暴に脱がされた千奈が、目を閉じて横たわっていて。
僕はそれを見て、心の奥底が冷たくなっていくのを感じた。
「千奈! 千奈! 目を覚まして、千奈!」
一緒に行くべきだった、何よりも彼女を優先すべきだった。
助けるって決めてたのに、好きだって伝えたのに。なんで僕は彼女を一人にしたんだ。
乱暴された跡は、彼女の身体に痣として残る。心の傷も、とても深いに違いない。
僕は冨樫のしたことが許せなくて、先生が押さえつけている奴がとても許せなくて。
でも、それ以上に千奈を守れなかった自分が許せなくて、千奈が可哀想で。
「千奈……ごめん……っ!」
後悔が涙となって溢れてくる。今もなお痛む右目からも、血が混じった赤い涙が。
視界が、赤に染まる。
死ぬほど悩んだのに、死ぬほど頑張ったのに。
千奈はずっと悩んできたに違いないのに。
「…………っ」
泣きながら千奈を抱き締めていると、彼女は身体を少しだけ震わせた。
そして、ゆっくりと重そうな瞼を開き、うつろな目を僕に向ける。
「千奈! 大丈夫!? どこか痛いところない!?」
目を覚ました千奈に気付き、僕から奪う様にして瀬々木さんが彼女を抱き締めた。
「渚砂……うん、平気……だよ」
「千奈……千奈ぁ!」
千奈は優しく微笑むと、泣きじゃくる瀬々木さんの頭をゆっくりと撫でる。そして僕の方を見て、捕まっている冨樫を見て。全てを思い出した千奈は、瞳一杯の涙を溜めながら僕を呼ぶ。
入れ替わる様に千奈を抱き締めると、彼女は泣きながら僕の事を抱き締め返した。
その華奢で薄い身体を、僕はしっかと抱き締めながら、千奈の頭を優しく撫でる。
「……怖かった、怖かったよ、奏夢」
「うん、うん……ごめん、側に居てやれなくて」
誰かが呼んだであろうパトカーのサイレンの音が聞こえてくる。
きっと呼んだのはあの女だ。……でも、今は千奈の事を抱き締めたい。
僕が守るはずだった、最愛の彼女の事を。
――
次話「色々と大変な後処理」
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