第14話 救いの枯葉

 二人分の荒い息が、白く色づいては消えていく。

 地面を蹴って進むたび、地吹雪が舞って私たちの姿をおぼろげにした。

 追手の気配はするのに振り返っても目視できなくて、私は振り向くことをやめた。


 言葉を交わすこともままならず、ただひたすら山を下っていく。

 まっすぐ走ると思いきや、何故か葉月さんはジグザグに進むことを指示してきた。

 不思議には思ったが、信頼している師匠の言葉だ。

 私はただ、その指示に従うのみ。


 後ろを走る葉月さんの存在に安心しながら、右に曲がった、そのとき。

 先程まで私たちがいたあたりの木に、なにかが貼り付いた。


(……紙?……いや、お札!?)


 私が横目でお札を認識するのと、そのお札が起爆したのは同時だった。

 派手な爆破音とともに煙が立ち昇り、幹がギシギシと悲鳴を上げる。

 そして乾いた音を立てながら、木は二つに折れてしまった。

 

「……っ!」


 その光景を目にした私は、声にならない悲鳴を漏らした。

 体中に戦慄が走り、冷たいナイフを心臓に突き付けられたような心地になる。

 今になってようやく実感した。

 追手が本気で私たちを殺しに来ているということを。


 もしも今、雪に足を取られて転んでしまったら、何らかの理由で前に進めない状況に陥ったら、私たちは確実に殺されてしまうだろう。

 そう分かっているのに──いや、わかっているからこそ、上手く頭が働かなくなる。


 全身の感覚がおぼろげで、必死に動かしている足は、まるで自分のものではないように思えた。


「やはり術使いか」


 同じ術者として思うところがあるのだろう。

 次々と白煙の上がる木々に目を向け、嫌悪に似た表情を浮かべながら葉月さんが呟く。


 目深にかぶったフードから覗く金の瞳が冷たく光っていて、自分に向けられたものではないと知りつつドキッとした。


 何度目かの爆発音ののち、ふと辺りが静まり返った。

 今までの出来事が全て夢だったとでも言うように、背後の威圧感ですら消える。


「なにが……」

「結奈さん、走り続けて!」


 走りながら振り返る私に、斜め後ろにいた葉月さん鋭い声が飛んできて、慌てて前を向く。


「まだ気配は消えていません! まっすぐ走って、距離をとりましょう」


 呼吸の合間に、葉月さんが言う。

 私は自分の呼吸音で掻き消されそうなそれを、必死に耳をそばだてて聞き取ると、大きく頷いた。


 刹那、背後から風の切れる音がした。

 背中越しに視線をやると、鋭く光る何かが物凄いスピードでこちらに迫っているのが見えた。

 それは氷でできた矢だった。


 ひるむ私の後ろで、葉月さんが二枚のお札を放る。

 お札は両方とも宙に浮き、次の瞬間には勢いよく燃え盛った。

 そして一瞬のうちに盾のような形に変わり、迫ってきていた何かを受け止める。


 炎の盾は数度の攻撃を受けると、呆気なく燃え尽きた。

 すぐさま次のお札を構える葉月さんに、私はもどかしい気持ちになる。

 

(これ以上、葉月さんに神力を使ってほしくないのに……!)


 しつこい追っ手と、ただ守られているだけの私。

 嘆いている暇なんてないのに、無力な自分が恨めしい。


 そんな中、追っ手と葉月さんの繰り広げる攻防に動きがあった。


 すべての矢を防ぎ切った葉月さんが、炎の盾をつくり出すとともに、別のお札を数枚投げる。

 盾が不自然に歪み、煙のごとく消えたとき。

 盾の後ろを追尾していたお札が、空中でピタリと止まった。


「うあぁっ!」


 次の瞬間、多数の悲鳴が上がり、お札のあった辺りに人の姿が現れる。

 ひきつけを起こしたように地面を転がるひとびとを横目で確認し、葉月さんは私の手を引いて横道に入った。


 追手のいた場所から十分距離をとると、ようやく葉月さんは足を止めた。

 運動音痴な私はもちろん、葉月さんも肩で大きく息をしている。


 酷使しすぎた肺が張り破けそうなほど痛み、疲れの溜まった足はもう一歩も前に進めなさそうだ。


 呼吸を整えつつも、私たちは背後への警戒を怠らない。

 いつ追手からの攻撃が来てもいいように、今にも座り込んでしまいそうな体に力を入れる。


 やがて呼吸が落ち着くと、葉月さんは後方に目を凝らしながら口を開いた。


「足止めはできましたが、すぐに術は解除されてしまうでしょう。足跡だけ消して、物陰に隠れましょう。簡単な幻術を施せば、休む時間くらいは稼げます」


「でも、それだと葉月さんが休めないじゃないですか」


「私は大丈夫です。それに、集落に身を隠せば、そこに住むひとびとにも危害が及んでしまう。それだけは避けなければ」


 どこまでも思慮深い葉月さんに、歯がゆさを感じる。

 彼のそういうところを非常に好ましく思っているけれど、同時に「もっと自分を大事にして」と言いたくなる。

 しかし、無責任にそれを口にすることはできなかった。

 無力な自分が言える立場ではない。

 

 不意に、進行方向から雪のこすれる音が聞こえ、私たちは息を呑んだ。

 後ろばかりに気を取られすぎた。


 札を構える葉月さんと、懐刀を握り直す私。

 体制が不十分だった私たちは、ただ音のする方向に目を向けることしかできない。

 もう終わりだと絶望する。


 しかし、予想と反し、木陰から出てきたのは背を丸めた老爺ろうやだった。


「おやおや、依代よりしろ様ではありませんか。なるほど、ずいぶん世の中の仕様が変わったようで。して、依代様がかような片田舎の森に何用かね」


 枯れた声が雪山に溶けて消える。

私が『依代様』という耳慣れない言葉に気を取られている間に、前に立った葉月さんが戸惑い気味に顔を上げた。

 

「なぜ、私が偽神……依代であることを……」

「年寄りの目は誤魔化せないよ」


 笑い交じりに言ってから、老爺はふと遠くの方に視線をやった。

 すっと目を細め、素早く提灯の灯りを消すと、そのまま私たちに目を向ける。

 

「追われているのかい」

「……はい」


 一瞬の沈黙ののち、葉月さんがうなずいた。


「ならば私の家に来なさい。そこのおなごも連れて。心配することはない。なにせ、私は老い先短いからね。連絡符を送る神力すら残っていない」


 そう言ってニヤリと笑う老爺に、葉月さんはフードをそっと上げた。

 ふわりと白銀の髪が舞い、三角の狐耳があらわになる。

 それを見て、老爺は初めて驚いた顔をした。


「おや、霊狐一族の末裔まつえいでしたか。それも族長の器ときた。まさか生きているとは。見ての通り、ここは田舎でしてね。情報の回りがどうも悪いのです」


 そこまで言って、老爺は「しかし」と嬉しそうに顔をほころばせた。


「私にその姿をお示しになったということは、信用して下さるのですね。」


「……ご迷惑をおかけしますが、お言葉に甘えさせていただきます」

「よ、よろしくお願いします」


 深く頭を下げる葉月さんに習って、私もぺこりと一礼する。

 老爺は満足そうにうなずくと、ゆっくりと歩きだした。

 そんな彼の背中を追う葉月さんに、私はそっと顔を寄せる。


「あの、葉月さん。どうして大丈夫だってわかるんですか?」


 見ず知らずのひとについていくなど、用心深い葉月さんにしては珍しい。

 葉月さんは浮かべていた険しい表情を崩して、悲しそうに眉を下げた。

 

「あの方から、神力の気配がほとんど無いのです」

「……えっと、人間ではないんですよね?」

「はい。おそらく死期が近いのだと思います」


 予想外の返答に、私は思わず閉口した。

(見た目の割に快活そうなおじいさんなのに……)

 前を歩く細い背中に胸が痛む。


「どうにかして助けることはできないんでしょうか。せっかく親切にしてくれているのに」


 尋ねる私に、葉月さんはゆるく首を振った。


「あそこまで神力が減ってしまうと、もう……。本来ならば、ただの神力不足なので、ラウファンの薬液を服用すれば治るのですが、この雪のせいで薬師の定期往診が滞っているのでしょう」


 悔しそうにうつむく葉月さんは、紛れもなく、薬師の顔をしていた。

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