第15話 結果、眠れない
寒空の下、数人の追っ手が迫ってくる。
荒々しい足音と、氷の矢が風を切る音。
闇夜にうごめく影がこちらに向かって手を伸ばす。
私は葉月さんに手を引かれて、森の中を必死に駆けていた。
隠れる暇もなく、呼吸すらままならない。
いつ届くか分からない敵の刃に怯え、逃げ場のない道のりに絶望する。
ふと、葉月さんの手が離れた。
驚いて顔を上げると、昼間見た壊れかけの五芒星の門が目に入った。
大きなヒビが四方に走り、扉の先に広がる闇からは、数え切れないほど多くの腕が生えている。
大量の腕で
そして瞳に諦めの色を滲ませ、悲しそうな笑顔を私に向ける。
「結奈さん、逃げてください。私はもう――」
意識の浮上する感覚とともに、私は勢いよく飛び起きた。
やけにリアルな夢を見て、荒い呼吸を繰り返す。
汗で冷えたせいか、それとも恐怖のせいか、体が小刻みに震えている。
乱れた呼吸の中に嗚咽が漏れた。
(今の、夢、だよね……?)
バクバクとうるさい心臓に手を当てて、呆然と下を向く。
うつむいた拍子にポタポタと数滴の雫がこぼれ、布団にシミをつくった。
自分を落ち着かせるように目を閉じても、先程の情景が瞼の裏にこびりついていて不安は増す一方だ。
涙を拭うと、私は布団から這い出た。
そのまま錠前を外して
私は両腕を抱くようにして廊下に出た。
ここは森の中で出会った老爺の家だ。
「大家族だったので部屋はたくさんあります。どうぞ、お好きな部屋をお使いください」
老爺はそう言って快く部屋を貸し、温かい夕食を出してくれた。
寝支度を整えて布団に入ったのがおよそ一時間前。
そのときは平気だったのに、今は一人でいることが恐ろしくて仕方ない。
後ろ手で襖を閉めると、ふと正面のガラス戸越しに情けない顔をした自分と目が合った。
シンとした縁側に不安が助長されて、振り払うように隣の部屋に向き直る。
薄い扉一枚。その先には葉月さんがいる。
名前を呼ぼうと口を開いた私は、しかし寸前で飲み込んだ。
(……何しているんだろ、私。こんな時間に来たら迷惑でしょ)
夢であることを確認したい。でも迷惑をかけるわけにはいかない。
そんな葛藤に板挟みされて、私は立ち尽くしたまま目を伏せる。そのとき。
「結奈さん?」
スっと襖が開いて、葉月さんが顔を出した。
起こしてしまったのかと罪悪感を抱きつつ、顔を上げる。
次の瞬間、見慣れた葉月さんの姿を目にし、止まっていたはずの涙が溢れてきた。
そんな私に驚くことも無く、葉月さんはそっと手を伸ばす。
「悪い夢でも見ましたか?」
子供に話しかけるような口調で尋ねつつ、涙を拭われる。
小さくうなずく私に、葉月さんは柔らかく微笑んだ。
「そうでしたか。結奈さんが心細くなるくらいですから、相当恐ろしい夢だったのでしょう。何か温かい飲み物でも入れましょうか。台所は勝手に使って良いとおっしゃっていましたし」
私は葉月さんの心遣いにありがたいと思いつつ、首を横に振って彼を見上げた。
「ぎゅってしてください」
そうお願いすると、ぎこちなくも優しく抱きしめられた。
すっぽり腕の中に収まって、ふわりと香ったのは、嗅ぎ慣れない石鹸の匂い。
香を焚く余裕がないのだろう。
それを寂しく思うと同時に、自分も同じ匂いを纏っているのだと気づいて少し嬉しくなる。
「落ち着きましたか?」
しばらくして、頭上から優しい声が降ってきた。
「……はい。すみません。葉月さん、休まないといけないのに」
「それは結奈さんも同じですよ。ゆっくり休んでください」
「はい。ありがとうございます」
名残惜しく思いながらも体を離し、自分の泊まっている部屋の前に立つ。
引き戸に手をかけた私は、けれどなかなか「おやすみ」を口に出来なかった。
あの冷たい布団の中に戻ることが恐ろしくてたまらない。
そんな私の様子に、見かねた葉月さんがちょいちょいと手招きした。
「一緒に寝ましょうか」
「えっ、でも迷惑じゃ……」
伺うように顔を上げる。
すると、葉月さんは朗らかに笑って、くるりと
「ちょうど寒くて眠れなかったのです。結奈さんは温かいから、いい湯たんぽになりそうですね」
少しのあいだ呆気に取られていた私は、慌てて彼の後を追った。
部屋に入ると、布団のそばに置いてある
しかし、落ち着く雰囲気とは裏腹に、私の心臓はドキドキとうるさく跳ねている。
「し、失礼します……」
先に布団の中に入っていた葉月さんに一声かけて、私ももぐりこむ。
先ほどまで寝ていたのだろう。
じんわりとした温もりに包まれて、私はようやく体の力を抜いた。
そうして緊張の糸が解けると、今度は罪悪感に襲われた。
「ごめんなさい。葉月さん、疲れているのに。勝手に付いてきて、迷惑かけて」
再びじわりと涙が滲む。
そんな私の目元を拭いながら、葉月さんが小さく笑った。
「今日の結奈さんは、珍しく泣き虫ですね」
私の謝罪を軽く受け流す彼に、ムッとして顔を上げる。
すると、からかうような口調と反対に、優しげな瞳とかち合った。
「私は嬉しかったのですよ。結奈さんが一緒に来て下さったこと。今はもう、一人で旅をすることなど考えられません。結奈さんがいなかったら、きっとここまで辿り着けなかったでしょうから。生きることを諦めて、そしてそのまま……。生きたいと思えるようになったのは、戦おうと思えたのは、間違いなく結奈さんのお陰です」
静かに語る葉月さんの声が、心地よく鼓膜を揺らす。
適当な慰めとは違う誠実な声に、私は心が救われたような気持ちになった。
優しい行灯の光に包まれながら、私たちはポツポツと他愛ない会話を続けていく。
いつの間にか不安は消えていた。
それから少しして、どちらともなく会話の速度がゆっくりになり、やがてロウソクの火が消えるようにふっと途切れた。
寝返りを打った葉月さんの、大きな背中がゆっくり上下する。
(寝た……のかな?)
しばらく様子を伺ってから、目の前の背中にそっと身を寄せてみる。
背中に額をつけてみると、じんわり温かくてほうっと息を吐いた。
(安心する……)
わずかに身を捩って落ち着ける場所を見つけると、本格的に私は目を閉じた。
よく眠れそうな予感に安堵する。
意識がぼやけてきて、まどろみ始める。
──刹那、体に大きな衝撃を受けた。
「わっ!?」
驚いて目を見開くと、思いのほか葉月さんの顔が近くて、一気に緊張が体内を駆け巡った。
覆いかぶさる葉月さんの、細められた目が妖しく光っている。
「結奈さん、
いつもと違う雰囲気にドギマギして、彼の金の瞳から目が離せない。
「えっと、あの……」
「私だって男です。お忘れですか?」
ブンブンと首を横に振ると、葉月さんはあっさり手の力を緩めて離れていく。
そして、目を瞬かせている私に向けて、すこし拗ねたような顔をした。
「結奈さんはずるいです。私は色々と我慢しているのに」
一瞬の空白ののち、言葉の真意に気づいて顔が熱くなった。
うろたえながらも、私は懸命に言葉を探す。
すでに頭の中は大混乱だ。
「わ、私は、その、嫌じゃないので……我慢しなくても……」
「私が嫌なのです。大事にしたいから」
間髪入れずに言われて、思わず私は口をとがらせた。
「……それじゃあ、お預けですか? キスもだめ?」
迫られるとパニックになるくせに、止められると悲しくなるのは何故だろう。
つい意地になって言葉を返す。
そんな私を宥めるように、葉月さんはそっと私の頬を撫でた。
「もう寝てください。そろそろ薬草の知識がつきそうなので」
「えっ、薬草……? なんの話ですか?」
「いえ、こちらの話です」
話は終わりとばかりに背を向けられて、私はしょんぼりと目を伏せる。
(私、魅力ないのかなぁ)
ドキドキ、モヤモヤ、胸が騒めいて落ち着かない。
悪夢を見た直後の言い知れぬ不安は無くなったが、どうやら今夜は別の意味で眠れなさそうだ。
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