第8話 義に馳せる
「葉月様ですね。ええ、はい、陛下からご予約を承っております」
フロントの女性が宿泊台帳を差し出しながら頷いた。
葉月さんがそれらに記入している横で、私はロビーをキョロキョロと見回す。
落ち着きのあるオレンジの明かりで包まれた室内は、畳とソファーという組み合わせにより、なんともモダンな印象を与えていた。
自然と背筋が伸びて、なんとなくお上品に装っていると、部屋の鍵の用意をしていた女性がわずかに首を傾げた。
「そういえば、二部屋取るようにとのことですが……」
不思議そうに私たちを見るので、思わず苦笑してしまう。
女性の顔には「恋人同士じゃないの?」という疑問がありありと出ている。
実際に付き合っている仲なのだが、どうやらレオドール様は私たちが同室で寝ることを許可しなかったようだ。
ほっとするような、残念なような。
三人の間に微妙な空気が流れたところで、中居さんがタイミング良く現れた。
「客室の名前は現世の旧暦に基づいて付けられております」
中居さんの指さす方向を追うと、各部屋の入口にさげられた木板が目に入った。
どうやら十二部屋すべてに和風月名が彫られているらしい。
(なるほど、旅館の名前の『月名』からきているのね)
睦月から始まり、如月、弥生と続く。
ぼんやりとそれらを眺めているうちに、私たちの宿泊する部屋に着いた。
「こちらと、お隣のこちらがお客様のお泊りになるお部屋です」
中居さんが鍵に刻まれた名前と部屋の表札を合わせて確認してから、丁寧に部屋の戸を開ける。
「うわっ、一人で泊まるの勿体ない……。葉月さん、やっぱり一部屋にしてもらったほうが良いですよね、これ」
戸の先に広がる景色に、思わず圧倒された。
十畳以上の広々とした本間に立派な掛け軸の掛かった床の間、そして広縁の窓から見える庭園。
明らかに一人で泊まる部屋ではない。
これには族長の息子であった葉月さんも顔面蒼白だ。
「レオドール様のご配慮とはいえ、これはさすがに受け取れませんね……」
そもそも、旅館はお一人様の宿泊を嫌がると聞いたことがある。
私たちは恐縮してしまうし、旅館側も迷惑になる。
しかし、私と葉月さんが口を開く前に、中居さんが営業スマイルのまま割り込んできた。
「陛下直々の命ですから、お受け取りくださいませ。ちなみに、拒否権はないとのことです」
そう言われて、私たちはようやく降参した。
室内のことや大浴場の使用時間、その他諸々の説明を受け終えると、中居さんは一礼して去っていった。
話しながらもお茶をいれてくれる手腕は、さすがとしか言いようがない。
「長月と神無月……。惜しかったですね、葉月さん。もう一部屋前だったら『葉月』に泊まれたのに」
神無月の主室でお茶を啜りながら、私は言った。
二人まとめて説明を受けたため、お茶とお茶菓子も同室に用意してもらったのだ。
同じように湯呑みを手にしていた葉月さんが、なぜか照れくさそうに笑った。
「そういえば『葉月』は八月の別名でしたね。月の光で尾が葉のように見えたから葉月だと、母はそう言っていましたけれど、もしかしたらもっと安易なものだったのかもしれません」
はにかんだ笑みを少し寂しそうに緩め、ごまかすようにお茶を口に含む。
そんな葉月さんの様子に、私はあることに気づいてハッとした。
「もしかして、葉月さんの誕生日って八月だったりします?」
霊狐一族は、常世な中で神様についで二番目に現世に詳しい。
つまり、葉月さんのお母さんが日本の暦について知っていてもおかしくないということだ。
私の問いを受けて、葉月さんは茶目っ気たっぷりに頷いた。
「そうだったりします。初旬なので過ぎていますけれど」
「えっ、初旬!? 知っていたらお祝いできたのに……」
ショックを受けすぎて危うく湯吞みを取り落としそうになった。
そんな私に爆弾を落とした本人が「まあまあ」と宥めてくる。
どこからツッコミを入れるべきだろうか。
「気恥ずかしくてあえて言わなかったのです。ちなみに、贈り物はすでにいただきました」
ニコニコと慰めてくる葉月さんに、私は力なく顔を上げた。
「私、贈った記憶がないですよ。思えばもらってばかり……」
「結奈さんと人生初のショッピングデェトをしました!」
(葉月さんが慣れない横文字をドヤ顔で使っている……可愛い……。じゃなくて!ショッピングしたのっていつだっけ!? 夏休みに入ったのが八月の五日で、その三日後だから……)
「八月八日……」
ぼそりと呟くと、正面に座っていた葉月さんが嬉しそうに頷いた。
「正解です」
八月八日。それが葉月さんの生まれた日。
なんでもないはずのその日が、唐突に特別な日に変わった。
(本当は当日に言いたかったんだけど……)
私は居住まいを正すと改まって彼の名前を呼んだ。
「遅くなりましたけど、お誕生日おめでとうございます。それから、生まれてきてくれてありがとうございます」
もっと他に良い言葉があったのかもしれないが、これが心からの言葉だった。
もしその日に葉月さんが生まれていなかったら、私は彼と出会うことができなかったのだから。
その日に元気な姿で生まれてきてくれた葉月さんに、そして無事に生んでくれた葉月さんのお母さんに、感謝の気持ちでいっぱいになる。
大事に育ててくれた葉月さんのご両親。
そんな二人に直接「ありがとう」と言いたかった。
けれどそれは叶わないことだから、心の中で何度もつぶやく。
ふと葉月さんの方を見ると、
わずかに目を潤ませていて、きちんと気持ちを伝えることができたのだとホッとする。
「ありがとうございます」
様々な感情を飲み込んだような声で感謝の言葉を告げられる。
その声が震えていたことに気づかないふりをして、私は微笑んだ。
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