第77話 番外編その9・清皇帝と孫文
番外編その9・清皇帝と孫文
1904年 4月
清国皇帝は今回のロシアによる宮廷占拠の一連の事態に対し、苦言を呈し非難した、そして、清国には既に現代戦争に対応出来る戦闘力は皆無である事を認め、正式に日本国に対し感謝と謝罪の意を示した、これはかつて無かった事であり、清国皇帝がこれまで属国と言う認識しか持って居なかった大日本帝国を、”独立した、清国の同盟国家である。”と認めた事と同義であった。
更に皇帝はこう続けた。
皇帝としての地位を返上し、次代へとその地位を繋ぐものである。
そして、その指名された者の名は、今回の戦争を回避すべく日本国へと亡命をして居た孫文であった。
これには、日本の明治天皇の意向が強く働いたと思われる。
これによって、清国は国名を、中華民国とするとしていた。
それを面白く思わなかったのは、上海、南京、香港等の北京にも匹敵しようかと言う大都市達である。
そして各々に独立を提唱し始める。
しかし、大方の予想に反し、大日本帝国、並びに現皇帝、次期皇帝は独立をあっさりと認める。
何故このような形になったかと言うと、北京市を中心にしたエリアは日本の支配下になってしまったと誰しもが思って居たのである、もしも逆らえばロシアの国力を持ってしても敵わない程の戦闘力を持つこの強国に蹂躙され尽くすのみであると思ったのである、それならば独立を宣言し日本の支配を避け、自分達の尊厳を守りつつも日本との同盟関係を築いて行くのが最善であると考えたらしい、しかし独立は容易に認められないであろう事から、戦わず政治的解決で独立を、例え何年掛かろうとも、と考えて居たようである。
しかしその実、日本には丸っきり支配する気は無かったので、この様に肩透かしを食らう結果を生んだのだった。
しかしそのお陰で無駄に国力を消耗する事無く独立はスムーズに行われて行った。
が、所謂香港を含む南部沿岸エリアはこの時すでに大半が英国領であったが為に、香港だけは概ね史実通り英国領となる。
100年後、中国へと返還される事で起こる悲劇、100年と言う期間は長すぎたのだ、実際に100年経って返還された香港では様々な悲劇が起こってしまうので、期間の限定は無い方が良い。
修一の意見からここに横槍を入れ英国に意見をした天皇陛下はむしろ100年後に独立出来る様に取り計らう事にしたようである。
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1904年 6月
孫文は又も海を渡り、すでに北京の宮殿へと至って居た。
当然の如く年端も行かない後の蒋介石、瑞元を連れ立っていた。
本来、年端も行かぬ皇帝の血筋の子供が最後の皇帝となる筈であったのだが、ここにも横暴を繰り返したロシアより皇帝を救い出した日本を重く見て、明治天皇の意見が強く反映される事と成り、次代皇帝へと推挙され、現皇帝及び清国上層部の承認を経た孫文は、事実上の新たな皇帝となったのである。
確実に、清国上層部において日本は存在感を強めて居たのだ、そして孫文自身も2回に及ぶ日本への渡航亡命により学んだ日本の真意を汲み取り、この後、清は日本を模した王制民主主義国家となり、中華民国とその国名を変える。
皇帝及び貴族制度を設け、国、国民の為に尽力を尽くす気概を認められた者は授爵する事が出来、貴族と言う肩書がある方がその者の行う事業は名声のお陰で繁盛、逆にいかに大きな企業を運営して居ようとも国や国民を蔑ろにするような了見の狭い者は、貴族議会によってその爵位をはく奪され、その企業自体も解体され他の貴族の持つ会社に合併吸収されてしまう事になる為に、持てる者の義務は常に行使しなければ成らない。
逆に言うとすべての国民には名声を高めビッグビジネスを成功させる権利が与えられる訳である。
そして爵位を持つ者は必ず何らかの方法で政治、もしくは国家運営に関与し国に奉仕する事が義務付けられるのだ。
そして、孫文が何よりも重要視したのが教育である。
日本滞在中に、瑞元に連れられるままに様々な場所を訪れていた彼は、内陸の山村部ですら学校を建設して平等に教育が行き届くようにした益田修一に大いに感銘を受け、”全ての国民は教育を受ける権利があり、教育こそが国家を、文化を、そして経済を強くする。”と提唱、そして教育は王族や上流貴族の使命であるとしたのだ。
これによって金に余裕のある貴族達は挙って学校運営に出資をする事になるであろう。
そこには正に益田修一の理想とする教育環境が構築される事と成る。
そしてこの教育理念は、後の日本と中国の関係性を大きく変える事になるのだが、それはこの時よりずっと先の話である。
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1904年 7月
主都近辺の混乱を治め復興を始めた孫文は、大日本帝国との戦後処理の為に東京市へと赴いて居た。
「ようこそお越し頂きました、孫文殿、久し振りの帝都でしょう、ゆっくり楽しんで行って下さい。」
時の総理大臣、桂太郎氏が直々に出迎える。
「いえ、久し振りと言っても未だ2か月そこそこしか経って居りません故、すぐにでも睦仁大帝(むつひとたいてい)にお会いしたいと思う。」孫文がそう流暢な日本語で言うと、隣に控えていた瑞元が、ツッコミを入れる。
「陛下、あなたは既に中華民国皇帝なのですからもっと威厳のある喋り方をして下さい、何故遜った様に敬語が混じるのですか?」
「ああ、すまぬ、まだ慣れぬのだ、そうであったな。」と言って笑い飛ばす孫文。
ある意味良いコンビである。
この時の会談で決まった戦後処理はこのようなものであった。
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1、清国(現在中華民国)は、ロシアの口車に乗せられたとは言え、大日本帝国を戦時に巻き込むことになった事を正式に謝罪するものとする。
2、朝鮮半島全域から旅順港迄を大日本帝国に譲渡する。
3、上記以外の清国(中華民国)全土を大日本帝国より返還される代償とし、向こう80年間の資源採掘の権限を大日本帝国へ認める。(資源採掘権なので、中国民も採掘する為、万一トラブルになりそうな場合、大日本帝国優先とする。)
4、ロシアに対しての戦後処理交渉を大日本帝国へ全面委任し、委任料としてロシアよりの保証の1割を支払う。(この項目は国内治安維持に現在手いっぱいである中華民国よりの提案である。)
5、日本企業の中華民国進出を全面的に許可する。
細かい取り決めも多々あるが概ね大きな項目はこんな具合であった。
そして、皇帝の座を孫文に明け渡した前皇帝は・・・
-1905年4月上旬—
「うむ、素晴らしいな、一度来てみたかったのだ、益田修一と言うとんでもない大きな男を生み、育んだ日本と言う国を。
孫文殿の勧めもあったのでね。
しかも、僅か数時間で到着してしまうとは。
航空機か、素晴らしい、国交を確立した暁には、観光客を乗せた航空機が往来するのだろう。
是非そんな未来をこの目で見て見たいものだが、私も後幾歳生きて居られるのだろう、それにしてもこの桜と言う木は、何よりも素晴らしい、心の垢が全て洗い流される思いだ。」
「はっはっは、お気に召しましたかな? もし宜しければ、桜を植えた庭を携えた屋敷を用意させましょうかな?」
時の総理大臣、桂太郎が、直々にお相手を買って出ていた。
昨日の敵は今日の友と言う、日本独特の文化がここにもあった。
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