第76話 番外編その8・仏大統領エミール・ルーベの戦場

    番外編その8・仏大統領エミール・ルーベの戦場

 1900年

 -パリ-

 この年、フランス万博によってこの国は賑わいを見せて居たが、実はアングラ化して国民からは目立たなくなったパリ・コミューンが軍を牛耳る事で暗躍をして居た。

 フランス産業革命によってさまざまな新技術が確立されて行く中、それでも大日本帝国の益田修一只一人の技術開発の速さに翻弄され負け続けていたコミューンは、何としても彼の技術を盗もうと、当然のように万博への参加を打診していた。

 しかし日本側からの返答は、皆無であった。

 それもその筈である、時折ちょっかいを出して居たフランス海軍のお陰ですっかり日本からの敵認定を受けて居たのである。

 その上、アングラ化して表面上は見えなくなっていたコミューンでは有るが、国際的には未だにフランス政権はコミューン政権と言われて居たのだから此方も仕方の無い事であった。

 そしてこの日本の不参加によって益々コミューン達の日本への敵意は深まるのであった。

 まさに悪循環である。

 そして、史実では確立して居た英仏協商も、技術の日本に勝さる魅力は無く不成立となって居た。

 こうして外貨を稼ぐことも心許ない状況に陥ったコミューンは明らかに苛立ちが隠せる状況では無くなって居たのだ。

 そしてその苛立ちは、反政府運動をして居た団体へと向けられる、完全に内戦状態へと突入していた。

「あの益田と言う奴は一体何者なのだ? 底が知れないぞ、万博に参加して来た英国はどうやら益田の開発した技術の一端を応用した技術を披露して来たようだが、恐らくは日本の技術は既にその領域を完全に飛び越えているだろうと思われる。

 そもそもあの日本の戦艦の船速なんぞを見る限り、高々一握りの技術公開をしても問題ない程度の技術のホンの一端でしか無い事が伺える、どうにかして奴の技術の最先端に触れる事は出来ぬだろうか。」

 これがコミューンを率いる者達の悩みの種であった。

 これまでも常に小競り合いを続けていたドイツに至っても、益田の武器を使用するようになってからと言うもの、その戦力を大幅に増している、奪いあっていた土地を奪還する事が困難になって来て居たのである。

 本来それだけが問題なのでは無く、常々不満であったユダヤ人資本による国家運営が成されて居た為に既に政府は張子の虎でしなかったのだ。

 商売上手なユダヤ人達の資本力は非常に強大であった、そう、益田のその資本力のように。

 しかし、マルクス主義の思想によって突き動かされていた彼らは、ユダヤ人を排除しようと増々その思想を正当化させようと暗躍するのであった、そして、同じように個人にして異常な資本力を持つ益田を強く敵視して居たのである。

 堂々巡りのようである。

 いずれにしてもコミューンには、益田と言う存在は目の上のタンコブであった。

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 1901年

 -パリ-

 当時の国家元首、エミール・ルーベもまた、コミューンの操り人形であったが、その実は、彼はそれをあまり快くは思ってはいなかった。

 史実では無政府主義者などの反政府運動への対応に追われその短い任期を終えた事になって居るコミューンの代表格なのだが、実は彼は、裏で反政府軍と繋がって居たと言われて居る、コミューンと決別したかったのであろう。

 少しだけ緩くした検閲で敢えて密輸武器が通るようにし、アンチコミューンによる武力抗争を加速させた張本人とも言われている。

 事実彼が内閣入りし、大臣に就任した1889年を境にアンチコミューンによる運動が過激化して居るのだ。

 更には大統領に就任した1899年、更にアンチコミューンの活動は活発になった、”にもかかわらず”である。

 穏健共和派に在籍し、大統領として反政府運動の矢面に立ちながらも実はアンチコミューンの急先鋒であったと言える。

 勿論こんな事実は歴史の何処にも書き記されては居ないし彼が墓場まで持って行ったことで一切闇に葬られている。

 彼がコミューンの操り人形になり、元老院に入る事と成ったのは、植民地政策に賛成をしたことが切っ掛けであったが、しかし当時の彼の発言は、ただ単に純粋にの善意での発言で有ったのだ。

 彼は元老院に入った事で、一時と比べ鎮静化したと思われていたコミューンが根強く残ってアングラ化してる事を初めて知ったのであった。

 社会主義体制を否定したい彼の心中は、こうであったのだろう。”腐った政治だ、これならば王制政治の方が未だ良心的だ。”

 ここ迄考えた彼はコミューン派であるかのように振舞いながら裏ではアンチコミューンとの繋がりを持って居た。

 史実として、実際に彼の国家元首就任中、のである。

 全ての責任を背負い、コミューンを潰す為に自らの命をも掛けた彼もまた、覚悟を持って事に当たって居たのだ。

 しかし彼もまた、益田の存在に影響を受けてこうなったのかも知れないとも言える。

 コミューン共の思想は極端過ぎて容認出来るものでは無かった、持ち上げられ、コミューンの傀儡と化して居るのかが彼の中では耐え難い事であった、そして彼は彼なりにあがいたのだ。

 そして彼は、個人として何とか明治天皇、もしくは益田修一とコンタクトを取るべくして、外遊では無く、休暇と称し、ロシアへ観光旅行と言う名目で海外渡航を企て、秘密裏にドイツへと入国していた。

 史実ではそのような行動をとったと言う記録は無いので、やはり益田修一と言うイレギュラーの存在感が彼を導いて居たとしか言いようがない。

 本人も何故そう思ったのかは判らぬものの、益田に当たりさえ付ける事が出来れば、いや、益田によって動いて居ると言える日本に縋る事が出来れば、自分の本当の立ち位置を確立出来そうなそんな気がして居たのかもしれない、恐らくは直感のようなものであったのだろう。

 そして、まさに今現在戦争中の敵国であるドイツへ敢えて入国する事に成功した彼は、時の皇帝、ヴィルヘイム2世へと何とかコンタクトを取る事に成功して居た、と言うか逮捕され、謁見したい旨を強く進言し、すると運よく皇帝へと突き出されたのである。


「コミューンの広告塔が私に謁見したいと聞いたが、敵国の王に何の御用かね?」

「これは手痛い、しかしまぁ、すぐに信用してくれと言うのも都合が良すぎる話ではある、だが、信じて貰うしか無いのですが、私はコミューン側では無いのです。」

「どうだか、しかしまぁ、護衛も無し護身用武器も無しで単身で乗り込んで来た事には評価しよう。」

「有り難きお言葉、助かりますな、休暇を利用して強行渡航した甲斐があった。」

「何だと、何と言う無茶をするのだこの酔狂は。」

「休暇でロシアへ観光旅行と銘打って監視の目を欺きました、こうでもしないとコミューンの監視下を潜り抜けるのが難しかったのです。」

「はっはっは、そうか、中々肝の座った事だ、気に入った、良かろう、儂に出来る事ならば助力してやろう。」

「本当ですか? では、一枚噛んでは貰えませんかな? 例えば自動小銃の横流しをしてアンチコミューンの肩を持って貰えるとか・・・日本の天皇陛下や、益田とのコンタクトを取る為の伝手を作って頂くとか。」

「アンチ側にそれはちゃんと渡るのかね? 保証が有るならば条件次第ではそれも吝かでは無いぞ。」

「その条件とは何でしょう? 何処から見ても私に出来る事は少ないと思うのですが。」

「そうだな、ビスマルクを追い落とし、ロシアとの同盟を破棄した我々としては、貴公らの国とロシアの両面からのコミューンの板挟みは、いかに益田の技術力を駆使した我が軍とて楽では無い、休戦協定でも結んで貰おうか? むしろこの停戦は貴公等にしても都合が良いのでは無いかね? 内戦が少々厳しくなって来て居るのだろう?」

「成程、表向きは休戦協定で反政府軍に重点的に軍を差し向けられるようにする牽制を入れたと見える訳ですな、しかし実の所はコミューン側とあなた方の交わした協定では無く、である我々アンチコミューンとあなた方の契約と言う事ですか、それならば願っても有りません、後日調印式でも行わせてください。

 うまく行った暁には、アンチの現在の代表に私から連絡を入れて此方へ謁見に出向いてもらう事に致しましょう。」

「今、我々もフランス側に国境を広げようとは思わない、何故ならば清国側やロシア方面へ広げられそうなのだ、それにしても貴公は、一人で悪者にでもなるつもりか? アンチなのにコミューン側の様に振舞いつつアンチを陰で支えるなど、正気とは思えん。」

「そうですね、私自身もそう思いますよ、コミューンの思想が間違って居ると思っては居たのに、国家の財政を鑑みてたったの一言、植民地政策に賛成の意を表明しただけで元老院入りする羽目になった時に、既にこうなる様な気がして居ました、覚悟は出来て居ります。」

 史実ではこの時点でのドイツよりもフランスの方が産業革命のお陰で国力、技術力共に勝って居た為に、ドイツは、ロシアやオーストリア等と手を組んでフランスを牽制するしか無かったのだが、この時点でドイツは日本からの輸入で技術革新が進み、すでに輸入品だけでは無くオリジナルの自動小銃や、重砲等のライフル砲弾を確立して居たのだ。

 国力では下回っては居たが、技術的には世代が違うと言っても過言では無い程に上回って居たのである。

 その上日本へ融資までして居たので日露戦争の終結後はその返済によって如何様にも国力向上も可能であった。

 なのでヴィルヘイム2世としてはビスマルクを追い落とした直後、早々にロシアとの同盟を破棄して居たのだ。

 そこにこのフランス大統領の申し入れである、有利に話が進められるだけで無くフランス側から攻め込まれさえしなければ清国側に攻め込む事もやぶさかでは無かったのだ。

 むしろ日本の圧倒的戦果を見てしまった以上、ロシアですら攻め入る対象として見据えて居た。

 益田修一による歴史の改変は思わぬ余波を世界にもたらして居た、既にこの時点でかのビスマルク外交は完全に意味を失って居たと言えよう。

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 直後、何事も無かったかのようにロシア入りし、観光及び視察を済ませたエミール・ルーベ大統領は、戻るなり直ぐに10年間のドイツとの停戦協定を政策として打ち出す。

 一部の議員の反対も当然あったものの、内乱を早期に治めなければ成らないとの部分で概ね合意に至り、仏独停戦協定が成される事と成った。

 明らかに史実には無いこの停戦は、後に大きなうねりとなって未来に影響を及ぼす事になる。

 エミールは、この協定による国力の温存を評価されはしたものの、コミューンからは少し目を付けられる事と成った。

 しかし、既に覚悟の出来ている彼にとってそれは想定内であった。

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 1903年 8月

 エミールの思惑はまんまとコミューンを嵌めていた。

 一層戦力を増す反政府軍、そして苛立ちを隠せなくなり徐々に表へと姿を現し始めたコミューンの幹部達。

 そして遂に軍のトップ達、上級将校達がコミューンの温床であると突き止める事に成功したのである。

 勿論政府内にもコミューンは存在して居たが、政治に携わっていたコミューン達は実は、ほとんどが自分と同じ只の傀儡でしか無い事を突き止めたのである。

 そんなさ中、軍部、特に海軍は遂にロシア軍と手を組んで日本海軍への大攻勢を打ち出したのである。

 その攻勢を、エミールは承認しつつも腹の中ではこれで海軍は自滅してくれるだろうと安堵して居た。

 だがしかし、いかに軍がコミューンの温床で支配されて居るとは言え、アンチ派の兵士の方が多い位で、彼らも上官命令には逆らえないと言うだけであったが為、アンチ派の兵士の中でも最も階級の高い者に、無駄に命を散らさぬようにと警告をしておく必要が有った。

 そしてその伝文が艦隊第三席に伝わったのは、ぎりぎり出航直前であった。

「第三席! 君に手紙が届いて居る、良かった、間に合ったな、出航ギリギリだったようだな。」

 港湾管理部より郵便物担当官が大急ぎで出航直前の旗艦へと飛び込んで来ていた。

「私にですか? 何方からだろう? 後で確認しましょう、有難う。」

 この時彼は、差出人も確認せず、ポケットに仕舞い込み、そのまま出航作業に追われ、忘れて居たのだ。

 そしてそのまま艦内の自室のデスクに置きっぱなしのまま、地獄へと飛び込んで行く事になるのであった。

 この時に滞在していた場所が悪かった、フランス艦隊は西アフリカエリアのフランス植民地に滞在して居たのである。

 そしてこの時、船員の中に複数名、疫病を持ち込んでしまった者達が居たのである。

 ロシア軍に後れを取る訳には行かなかった為に、それをひた隠しにしつつ航海を続ける艦隊、そして少しづつ感染は広がる。

 この時艦隊内部に広がる複数の疫病は、実に4種、寄港中に女を抱いて梅毒に感染した者、之だけならまだ良かったのだが、マラリア、黄熱病、そして天然痘、こうして第三席である彼はその対応に追われ続け、手紙を最後の最後まで開封する事は無かったのだ。

 10月に接敵し、死を覚悟したその瞬間、死ぬ前に見ておかねばならない気がし、慌てて部屋に戻った彼は、その差出人に愕然とした。

 アンチコミューンの間で噂として囁かれていた、最大の協力者である大統領の使って居る偽名で差し出されて居たのだ。

 そしてその内容を見た彼は、艦隊司令と副司令、つまり自分の上官二名の殺害を決め、艦橋へと戻ったのだ。

 しかし、彼は指揮官と自責指揮官の余りにも情けない茫然自失の姿を見せられ、呆れたが、お陰で都合よく射殺する事に成功する。

 偶然にも、ロシア旗艦、フランス旗艦で、概ね同じ事が行われて居たのだった。

「貴方達は間違った! この場で指揮を私に代わって頂きます!

 御二方とも、お許しを!」

 そう叫んだ彼は、持って居たワルサーを司令官の額に向け引き金を引く。

 吹き飛んだ司令官に目もくれず副司令へとその銃口を振るとやはり躊躇わずに引き金を引いた。

 副司令官も吹き飛ぶ。

 そして彼は、呆然とその様子を見て居た部下達に向け、命令を飛ばしたのである。

「司令官殿と次席司令官殿は殉職された!次次席司令官たる吾輩が指揮を継いだ! 今すぐ白旗を上げよ! 全艦に手旗で指示を出せ!急げ!全滅するぞ!」この彼の決断は、ある意味遅すぎたのだが、それでも多くの兵士の命を救う事と成ったのであった。

 この戦闘によってロシア第三艦隊並びに、フランス艦隊は、全体の3割程度の艦を残し轟沈するも、日本第二艦隊に同行していた医療船により、その兵士の大多数が命を繋ぎ止めたのである。

 後に、この時の第三席が勇気の要る決断をして多くの兵士の人命を守ったとし、英雄としてフランス艦隊を率いて行く事と成る。

 史実には名を残して居ない人物であった為にその名を知る者は居ない、が、ナポレオン・ボナパルト一世の分家の子孫であったらしい。

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 1905年 6月

 アンチコミューンの大攻勢に寄って、パリ・コミューンはほぼ壊滅に至る。

 そしてアンチの指導者は、本来自分達の指導者として相応しい貢献を果たしたと言える最大の協力者、エミール・ルーベ大統領を処刑しなければならなかった。

 しかも、公開処刑が望ましかった、何故ならば、国民の大半は、大統領こそがコミューンの筆頭であると言う認識が出来ていたからである。

 そして数か月後、エミール・ルーベ大統領は、史実よりおよそ半年早く、その生涯を公開処刑と言う形で閉じた、真の英雄は彼であった事はその歴史の何処にも残っては居ない。

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