第28話 北里柴三郎の帰国

          北里柴三郎の帰国

 ハワイより帰った小官は、早速ある準備に動き始める。

 後数か月もすると、北里柴三郎殿が留学から帰って来るのだ。

 史実だと今年留学し5年後に帰って来るのだが、たまたま訪ねてきた北里氏を小官が強引に留学資金を捻出しコレラワクチンの開発と医学博士号の取得の為に旅立たせたのだ。

 帰って見たら届いていた彼からの手紙では、ワクチンの完成と共に博士号を取得する事が出来たらしいので、就学式を終え次第帰国するとの事だったのだ。

 これは素晴らしい成果だと言う事で、脱亜論の一件以来友人となっている一時ご迷惑をお掛けした福沢氏の元に、スクープとして話を持って行くと、彼も是非に出資させて欲しいと言う事だった。

 共同出資と言う形で私立伝染病研究所を設立する為に奔走し始めた。

 北里氏の母校は東京医学校(現東大医学部)であったが、教育方針等が合わず対立をしていたようなので、敢えて此処は慶應義塾に医学部を設立させようと言う動きを仕掛けるも、義塾側からはあまり良い返答が帰って来なかった。

 やむなく完全に私立扱いになってしまったのだが、其処は仕方が無いので全面的に支援しようと言う事で福沢殿とは合意し、土地を見つけ建物を建てて行く方向に相成ったのだった。

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 一方、何処から情報を仕入れたのか、アメリカが是非に艦船の技術を欲しいと使者を寄越して来た。

 どうやら三〇物産が日本の新造船で石油と鉱石などの買い付けに行った際に、外輪の無いスリムな超大型貨物が入港したと聞き入って居たそうだ。

 そこで陛下が乗り出して来て、技術の流出は余り好ましくないと大国の合衆国を相手に平等以上の条件の同盟約定を突きつけたらしいのだが、すぐさま取って返して大統領からの承諾を取り付けて来たらしい。

 それだけ、外輪の無い足の速い船は魅力的だったのだろう。

 取り敢えずライセンス生産は認めず日本で造船した物を納品する事で合意したらしい。

 これによって、建造力アップの為に合わせて、呉のドックも増設、それ以外にも大型造船施設が作られ、新たな雇用も募る事となった。

 其処で小官からも東京湾に関しての提案をさせて頂いた。

 東京港は、令和の世では、埋め立てをし過ぎてしまった為に浅くなってしまって居り、大型貨物船や大型タンカーが入れないのだ。

 どう言う事かと言うと、令和に東京湾内のどの港に接岸し、荷下ろしをして居る貨物船やタンカーは、世界的に見てしまうと、中型なのだ。

 ちなみにこの時代の大型船舶は平成令和の船の規格に当てはめると中型の中でも小さい部類に当てはまる。

 一見でっかい船だなと思うんだけどこれは事実である。

 その上、芝沖や浅草まで埋め立てたので、其れ迄は名産であったアサクサノリや芝海老が絶滅してしまって居る、アサクサノリと芝海老はそれこそセットな存在なのである。

 アサクサノリと芝海老は江戸前の絶品グルメ食材なのだ。

 そんな事態も避けたかった小官は、東京湾大海溝を利用した航路を有した埋め立て島を湾中央に大きく作り、小官の設計の大橋を掛けると言う方式を提案した。

 当然ながら夢物語だと言う意見も出たのだが、小官の発明を無くてはならない物として家庭で利用している貴族院議員も少なくは無いので、信頼性が高かったようで10年計画と言う急ピッチで東京湾中央埋め立て計画が立案するのだった。この為に浅草寺の正面は海のままとなるだろう。

 雷門は海の上に成るのでもっと後ろになってしまうと思うが、固有種の貴重なアサクサノリが取れなくなってしまうよりはよっぽど良い事と思って居る。

 芝沖にしてもそうだ、芝浦柴又の埋め立て地になってしまう浅瀬で芝海老は獲れたのだ。こちらの時代に転生したおかげで食した事は有るが令和に時代に頂いた中国産の所謂史実では令和で食されて居る芝海老(小官は偽物と心の中で呼んで居る)と比べてもずっと美味い海老だったのだ。

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 とうとう、北里柴三郎殿の帰国が叶う日だ。

 乗せた船が間もなく到着するとの連絡を受けた小官は、福沢殿を誘い合わせて急ぎ横須賀港へと向かった。

 福沢氏が同行させたカメラスタッフに、北里殿と小官の握手シーン、福沢殿と北里殿の握手シーンの写真を撮らせて新聞の写真掲載記事となった。

 その後、迎え入れた北里氏を連れ、既に完成して居て落成を待つばかりの研究所施設へと向かった。

 必要な設備はまだ搬入されて居ないが、北里殿の好きに機材を選んで頂く方向でお任せして、欲しい物が有ったら小官へと言うと、福沢氏が、いやいや私がと出資に非常に前向きであったので、建物施設は小官が多く出資して居るのでここは譲る事にして、足りなければ何時でも小官も出資しようと言う事で落ち着いたのだった。

 落成の様子も福沢氏の新聞で掲載しつつ、序でに研究員も募集した所、割とすぐに問い合わせが有ったようで、幸先は良さそうである。

 此処でコレラワクチンを作り、他の細菌の研究もしつつ新薬の臨床試験も行う。

 量産するに当たって、未だ大きな製薬会社が無かったので、老舗の薬師に声を掛けた所、有名な宇津の秘薬と言う薬を作って居る者が名乗りを上げ、大々的に製造する事となり、宇津製薬となった。

 宇津の秘薬とは後の救命丸の事である。

 宇津薬は発祥が安土桃山時代の非常に長い歴史のある薬だった。

 こうして、世界初の予防接種が東京府で行われる事となったのだった。

 お陰でこの翌年、1886年の、十万人規模で病死したコレラ大流行は未然に防がれ、死者数は僅か3桁にとどまったのだった。

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