第3話 小さな事件はラベンダーの香り
学校は、決して嫌いなところではない。
それは高校に入学してから3度目の春を迎えた今まで、一貫して変わらない感想だった。
「――――――――」
「――?――――、……!!」
ガヤガヤとうるさい周りのノイズが睡眠不足の脳にじくじくと響き、苦痛にゆがめた顔を隠すようにうつぶせになりながらそんな物思いにふける。
教室に入れば自分だけのテリトリーが存在するし、授業の時間はただそこに座っているだけで1日を消費することができる。
昼の休憩ではこうして夜に足りていない睡眠時間を確保できるし、先生は数字で俺の善し悪しを量ってくれる。
「――――――――!?」
「――――――――、」
そして何より、学校の大人たちは俺の“事情”に深く入ってこられない。
教員としての「規則」もあるのかもしれないが、何より俺が「関わってくるな」という態度を公に取っていれば、触らぬ神に祟りなし、といった風に決して線を踏み越えてこない。
いや、かわいげのない生徒にいちいち構うこともない、のほうが正しいだろうか。
ぶっちゃけどちらでもいい。
ただ、俺のそばにいなくてもいい人間しかここにはいないということだけが重要だった。
――――あの「家族」を連想させるものがなに1つない、ということが重要だった。
『おとおさん、おれ――――』
「………ぅ」
ふと、見ないように意識してきた光景が脳内をフラッシュバックして、かぶりを振った。
落ち着け、と自身に言い聞かせる。ここには何もない。俺が心を乱すような何かは、1つも存在しない。
何もない。……何も、ない。
「―――――、――――――――」
しかし、それはここが自分にとっての安寧の地だという意味ではない。
だってここは、俺だけの場所ではないから。俺が望むような都合のいい平穏は、ここではあり得ない。
だって。どんなにお互いが望んでいなくたって、関わりたくないと思っていたって。こうして同じ場所で同じ時間を過ごしていれば、どうしたって。
「ええええええぇぇぇぇ!?それって絶対、ストーカーってことじゃん!!??」
「――――――――ッッ!?、」
ガタン!と、思わず大袈裟に飛び起きてしまい、いきなり視界に飛び込んでくる光量に顔をゆがめる。
頭痛も相まって険しい顔になったまま声のもとに視線を向けると、5人グループの女の子たちと目が合った。
1人の女の子が席に座り、それを4人の女の子たちが囲んでいる状態だ。
会話を弾ませていたからだろうか。彼女らはそこに水を差した俺に対し白けた顔を向けてくる。
いや、席に座っている整った顔立ちの女の子だけは申し訳なさそうにこちらをのぞき込んでいるようだが、正直それどころではない。
「――――――――なに」
ほかの全員の気持ちを代表するように、不愉快さを隠しもせずにまなじりを決して1人の同級生が声をかけてくる。
名前は確か、――――五十嵐、だっただろうか。
明るい地毛を後ろでまとめ上げ、160センチ後半はあるだろうすらりと長い全身をのばし堂々とたたずんでいる。
そこには高校生らしからぬ気迫が感じられて、ああ面倒くさいことになったな、と頭の隅でどこか他人事のような感想が浮かぶ。
「何か言ってよ。めちゃくちゃ文句ありそうな顔だけど」
「――――別に、何かあるってわけじゃ、」
「嘘、顔に書いてあるじゃん。何かあるなら口にしてくれないとわかんない」
「…………………」
完全に怒らせてしまったようだ。
一触即発。ぴりりと嫌な空気がその場に広がり、1対5の数の暴力にさらされたことで情けないことにひゅ、と小さくのどが鳴った。
追い打ちをかけるように、くらりと一瞬、気が遠のく。
握りこんだ手からひやりとした感触が伝わってきて、自分の手先が冷たくなっていることに気づいた。
「今うちら、大事な話してるんだけど」
「ていうか、他人の話に興味本位で聞き耳立てるってどうなの」
すかさずほかの女子からの援護射撃が入る。
いや、だったら誰でも出入りするような教室で大声で話すなよ――――……。
大体俺は、まだ何も言っていないじゃないか。勝手にお前らの話に興味があるみたいに決めつけないでくれ。
そう口に出そうとした言葉は、喉元でつっかえていつまでたっても出てこない。
自分を信じて疑わない他人の視線は□□い――――……。
そんな自身の言葉が聞こえたような気がして、黙れ、と抑え込む。
それに、口にこそできなかったがこの気持ちは本物だ。言葉では表現できないような静かな怒りが、腹の底でふつふつと湧き上がってくる。
気が付けば、教室にいる全員の視線がこちらに集中していた。
向けられた視線は、ほとんどがおもしろそうなことに関心を寄せている感じで、一部の視線には嫌悪も見て取れた。
握ったこぶしに力がこもる。
なんで俺が、こんな目に合わないといけない?
苛立ちは、今度は明確な言葉になって口からあふれる。
心底うっとうしいと、そういわんばかりの口調で。
「――――わかった、謝るよ。だからいちいち突っかかってこないでくれる?正直ちょっと、面倒くさい」
「――――っ!」
グループの中の1人がかっと顔を赤くする。
今にもこちらに走り寄ってきそうな勢いだったが、異性である俺に正面から睨みつけられたからか、びくりとその場で立ち止まってしまった。
「澤野、あんたは――――」
「――――――――
五十嵐がまた何かを言おうとしたとき、座っていた一人の女の子がそれを静止する。
よく見ると、彼女の手は震えているようだった。
そんな彼女は申し訳なさそうに俺の様子をうかがってくる。
……と思っていたら、なんと彼女はその場から立ち上がりわざわざ部屋の隅にいる俺のもとへ歩み寄ってきた。
グループの誰かが「え、カヤっ?」と裏返った声で彼女の名前(らしい)を呼ぶ。
「みんなもやめてよ。ごめんね、澤野くん…休んでるときに騒いで起こしちゃって」
「――――え、いや、」
彼女の真摯な気持ちが伝わってきて、俺もほかの女子たちも毒気を抜かれてしまう。
一瞬にして場の空気が軽くなったことで、好奇の目を向けていた観衆たちもぽかんと口を開けていた。
「――――――――」
というかこうして近くに寄ってこられたことで気づいたが、同じクラスになったことがないとはいえ、なぜ今まで彼女を認知してこなかったのかと疑問に思うほどカヤと呼ばれたこの女の子はとびきりの美人なようだった。
まつ毛は人形のように長くて、五十嵐には及ばないまでもその身体はすらりと長い。
肩までの長さのウェーブがかった黒髪がパラパラと揺れるたび、女性特有の甘い香りとシャンプーの、ラベンダーの淡い香りが鼻腔をくすぐって、思わず身体を後ろに引いてしまう。
おまけに視線のすぐそばで彼女の女性の部分が揺れるものだから、なるべく自然に顔をそむけた。
きっとこんな状況でもなければ思わず見惚れてしまっていたことだろう。
「というかそもそも、こんな公衆の面前でしたらいけないような話を切り出した私が悪かったの。朱乃たちもごめんね、騒ぎにしちゃって」
そういうと彼女は今度は自分を囲んでいたグループの女子たちに向けて頭を下げた。
謝罪された彼女たちは拍子抜けした表情のまま必死にこくこくと首を縦に振った。
「澤野くん、今回は、これで許してもらえないかな?次からはこんなことないように注意するし、しておくから、ね?」
そういって再び俺の顔をのぞき込んできた彼女は、不安と一抹の恐怖が混じったような表情をしていて、どこか必死さが感じ取れた。
そんな彼女に少々違和感を覚えたが、悪意の類はみじんも感じられず、むしろ何も悪くない彼女にここまでさせてしまった自分に若干の不甲斐なさを覚えた。
「――――いや、別に………俺も、」
「いや、俺は澤野も悪かったと思うぞ!」
――――突如、芯のある野太い声が頭上から降りかかった。
驚いたように振り返るカヤとは対照的に、なんか来た、と俺はまた表情を暗くする。
失礼な態度だとは思うが、今まさに事態が収拾しようとしていたのに、いちいち出てきてほしくなかった類のやつが来たのだから許してほしい。
「詳しいことは分からないが、女の子に対してさっきの態度はどうかと思うぞ!男子的にはな!」
そういって声の主は俺の肩を力強く掴んだかと思うと、人懐っこそうな笑顔を俺に向けてくる。
ニッという効果音が聞こえてきそうな感じで、俺は背後に太陽やらなんやらを幻視した。
そんな表情を見せられると、詳しく知らないのに入ってこないでくれという気も失せてしまった。
「あっ、でもね蒼くん、さっきのは私たちからアクションを取った形だったし、澤野くんもそこまでひどいことを言ったわけじゃないし、」
「だけどここでお開きにしたら伊東と澤野の関係に亀裂が入ったままになるだろ?俺的にはそうなる前に澤野が折れたらいいと思うんだが」
入ったままでいいわ。
ちなみに伊東とは、さっき俺がにらみつけた女子のことだろう。多分。
「あ、今お前入ったままでいいとか思っただろ。澤野、女の子には優しくしとかないとモテんぞ」
「も」
「次にお前が言う言葉は、モテんでもいいわ、だな!モテたくなくても、男子は女子に優しくしといたほうがいいと思うぞ!」
――――心を読みやがった。こいつ究極生命体と心理戦でもするのだろうか。
野球部のエースになれば相手の心を読めるのか知らないが、やや感情論に近い正論かまされた上に心まで読まれた。
――――
いいやつだとは思うのだが、どうしても個人的には好きになれない部類の人間だった。
いつも楽しそうにしていて、たまに話しかけてきたかと思えば向こうが満足するまで会話をやめてくれない。
いい意味でも悪い意味でも、空気を読めないタイプだった。
そんな彼だが、わざわざこんな修羅場に乗り込んでくるほど無茶苦茶な奴でもないのに…と不思議に思った。が、しかしその疑念はすぐ解消される。
まあその、彼がチラチラと見ているわけだ。カヤを。
(いや、分かりやすすぎだろ……)
若干ダシに使われている感が否めずイラっとしたが、言っていることもきっと本心で決して悪気があるわけではないことぐらいは分かるのでぐっと堪える。
「あの…澤野くん、別に無理しなくてもいいからね?」
カヤが再び申し訳なさそうにこちらをのぞき込んでくる。
無理しなくてもいい、とは、無理に謝罪しなくてもいい、という意味だろう。
確かに伊東に対しての不快感は未だ拭えていないし、村田に対しても正直面倒だと思っている。出てきてほしくなかった。
ただ、言っていることは本心だと思うし、波風立てない選択をした方が今後教室に入りやすい。
ここでしっかり謝っておけば、後々突っかかってくるような連中もいないだろう。
……それにここで謝罪をしないと、むしろ俺がまた悪人になりそうな雰囲気だった。
「……………悪かったよ」
「別に、あたしも、ごめん」
伊東が俺を許したように自身からも謝罪の言葉を口にする。
しかし彼女の視線は村田一点を捉えてうっとりしている感じで、心ここにあらずといった様子だ。
村田、射止める相手を間違えてるぞ、と心の中で突っ込んだ。
教室中の視線が今度こそ俺たちから外れる。
ようやく一件落着といった風で、俺ははぁ、とため息をついた。
「それじゃあ澤野くん、本当にごめんね。蒼くんも、ありがとう」
「おう、何かあったらまた頼れよ、カヤ!」
そう言うと、あろうことか村田は彼女の頭の上に手を置いてくしゃくしゃと撫でまわし始めた。
「…………村田、ちょっと間違えてると思うぞ」
「え、なにが?」
「…………………別に」
距離感が、とまで言うのはなんだか藪蛇な気がした。
ここで昼休み終了のチャイムが鳴り、皆が各々の席についていく。
俺も、と机の中から古典の教材を取り出した時点で、ぴたりと手を止めた。
(そういえばさっきのことですっかり忘れてたけど、“ストーカー”?)
ふと思い出したが、さっきの喧嘩?の会話のきっかけに、恐ろしい単語が混じっていたような気がする。
今までの会話の内容を掘り起こしてみるに、被害者はカヤ、彼女だろうか。
私が公然でしたらいけない話を切り出した、とカヤは言っていた。つまりそういうことだろう。
変に物事を誇張するようなタイプには見えなかったし、なによりあの見た目だ。そういったこともあるのかもしれない。
(大変そうだけど、俺が口をはさむことでもないか……)
それこそさっきのように突っかかられてはたまったものではない。
彼女の境遇を憂いながらも、どこか他人事のように感じながら授業の内容に聞き入る(実際他人事だ)。
しかし授業が後半に差し掛かってくる頃には、俺の頭の中からそのことはすっかり抜け落ちてしまっていた。
「ねえ朱乃」
「なに?」
「さっきのアレ、その、大丈夫だったかな」
「さっきのって、喧嘩のこと?あんたは澤野のこと庇ってたし、あんたに感謝こそしても嫌いになることないんじゃない」
「でも、第一印象最悪……。なんであんな風に突っかかったの?私、話しかけづらくなっちゃったでしょ…………」
「別に……あいつの態度が気に入らなかっただけ。それに、あいつひねくれてるけどいくらなんでもあれだけであんたのこと悪く思うほど嫌味な性格してないでしょ。授業に集中したら?」
「もう……………!」
カヤが半ばやけになって黒板に書かれた内容をうつし始める。
それを横目に見ながら、私は先ほどの出来事を反芻した。
絵面だけ見ればひとりの人間を集団でいじめたようにしか見えなかった場面だったが、普段の彼の在り方やこちら側にカヤがいたことを思うと、カヤには澤野に反発する意思がなかったとはいえあんな風になるのは目に見えていた。
男女問わず人気者のカヤと、そんな彼女と180度反対側の生き方をする澤野 想。
彼は誰かに歩み寄ろうとしない。理解しようとする意思がない。
だから相手がどんな気持ちで自分のことを見ているかなんて、彼には知るすべもない。
ちらりと後ろの窓際の方でノートをとっている彼に目をやる。
そんな彼は、ムカつくくらいに澄ました顔をしていた。
私は隣のカヤにさえ聞こえないような小さな声でぼそりとつぶやいた。
「…………………意気地なし」
……………と、これが俺の体験した春先のとある一日の出来事だ。
俗にいう“陰キャ”と呼ばれる一人ぼっちの俺にとっては重大な事件であり、その他大勢にとっては暇つぶしにもならないちょっとした一幕。
いろいろ大変な目にあったし、これ以上ここ数日でこうも忘れられない事件も起こらないだろうとその時の俺は高をくくっていた。
しかしそれがどうだ。
次の日の昼休み。
ちょうど、あの事件からきっかり2週間後。
「さわの、くん……………」
俺は、誰も近づかない屋上入り口の扉の前、涙で瞳をガラス玉のようにキラキラと反射させる一人の女の子、カヤと遭遇した。
どきん、どきんと胸が鳴る。
これは、今から始まる俺たちの長い物語への警鐘。
忘れられない彼女との出会いの
いや、もっと簡単な言い方をするならば。
……………俺が少しだけ大人になる、俺の初恋の物語だ。
「目を、閉じて」 @freegamer
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