第2話 清潔な病室に、純粋な笑顔を添えて
「今日はもう、行きますね」
江藤さん、だっただろうか。
いつもお世話になっている(そのくせ名前はまだはっきりと覚えていない)看護師の一人である彼女に浅めのお辞儀をした後、俺は学生カバンをひょいと肩に担いだ。
「そう、いつもお疲れ様ね。あ、そういえば、バイトはうまくいってる?」
早々に会話を切り上げて出ていこうとした俺を呼び止め、江藤さんは人のよさそうな笑顔を向けてそんなことを聞く。
「…………………………、」
おそらく、孤独な俺の身を案じて会話を弾ませようとしている……のだろうか。
それともそういった患者の親族のケアも仕事のうちに含まれるとか。
……どっちにしろ、そんなことしてほしいだなんて頼んだ記憶はない。
むしろこんな場所、早々に立ち去りたいというのに。
「はぁ、まぁ、ぼちぼちです」
気の抜けた返事をした。
ずいぶんと失礼だったかなと小さな罪悪感が胸の内をよぎったが、それ以上に隠し切れない不快感が身体を支配して、顔に不機嫌だという感情がにじみ出てくる。
そんな俺の様子を見て察したのか、江藤さんは薄めの化粧で着飾った自身の顔をくしゃりとゆがめ、微苦笑を浮かべた。
「いろいろと大変ねぇ、あなたも」
「今更ですよ」
そう、本当に今更だ。
俺の今の境遇も、何回繰り返したかわからないこの会話も。
この病室特有の消毒のにおいが鼻腔を刺激するたび膨らむ失望感と、わずかにせりあがってくる吐き気も。
……窓の外を見つめたまま動かない、この人も。
「じゃあ母さん、俺はもう行くから」
そうやっていつまでたってもこちらを見ようともしない彼女に声をかけると、今自分以外の存在を認識したかのように振り返り、屈託のない笑みをこちらに向けてきた。
「あら、どこかへ行ってしまうの?」
「学校だよ。俺、高校生なんだし」
「高校生、高校生ねえ。そういえば、もうそんなに大きくなったのねえ」
言って彼女は、焦点のあっていない瞳をこちらに向けてくる。
しかしそこには、俺は映っていない。
いや、自分に都合のいいもの以外、何も映っていないといった方が正しいだろうか。
「それじゃあ早く行かないと遅刻してしまうわ。ネクタイがほどけているようだけど、結んであげましょうか?」
「いらない。自分でできるから、母さんはちゃんと休んでて」
そういって母親の手を振り払う。
思わず『触らないで』と口にしなかった自分を、自身の胸中だけでほめたたえた。
すると彼女は心底残念そうに、「そう」とだけ言って肩を落とす。
「あなたは昔からいつも無茶をするんだから、私が一緒にいないと不安になってしまうわ」
……あなた、か。
頭の中に『あのひと』の顔がふと浮かんで、それを振り払うようにしてかぶりを振った。
「学校に行くだけだよ。別に心配することなんか何もない」
俺が投げやりに言うと、さっきの態度がまるで嘘のように、彼女はぱっと表情を輝かせた。
本当に、感情に一貫性がない人だ。
そもそも表に出しているこの態度が、彼女の本心そのものかなんて分からないけれど。
「そう、それなら大丈夫ね」
「ああ、大丈夫だよ」
今度こそ限界だと思って踵を返し病室を後にしようとする俺に、母は声をかけてくる。
「いってらっしゃい、あなた」
「……ああ、行ってくるよ、母さん」
俺はその言葉に耳を貸さぬフリをして、その場を立ち去った。
じわりじわりと言葉では表せない不快感が胸の内を支配してくる。
そして何よりも、視界の隅をよぎった江藤さんの可哀そうだと言わんばかりにこちらを見つめてくる表情が、何にも耐えがたいくらいに気持ち悪かった。
澤野 想(さわの そう)、18歳。
彼女なし、友人なし、将来の目標、なし。
――――物心ついてから今に至るまで、母親との親子としての会話、なし。
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