金春色の瓶と夢

しがな

金春色の瓶と夢

 夕暮れ、学校からの帰り道、私たちは二人で歩いていた。大人たちはそれでも、懐かしいと感嘆するだろうか。高校生活は幼い頃夢見たような華々しいものではなかった。今だって、昔ドラマやアニメで見た通りなら、私は友達と土手の上で自転車を引いているはずだった。それが、鉄道駅に向かって歩き、ヒートアイランド現象で風は薫る間もなく熱を帯び、私たちの襟を僅かに濡らした。人が植えた木などでは、この熱を冷ましきれるはずもない。

 私の横にいる人間も、友達などではなく国語教師だった。担任でなければ顧問でもない、私のクラスの現代文を担当しているだけだ。先生と関わることと言えば、授業後や放課後、時たま質問という名の雑談をしに行く程度だった。

 今日は用事があるので、珍しくこんな早い時間に帰るのだと言う。先週し損ねた質問をしていたら、いつの間にかこうなっていた。

「今、明治時代の小説やってるじゃないですか」

「うん」

「それで、明治は『国』とか『家』とかを大事にする時代から『個人』を大事にする時代への過渡期だっていうお話があったと思うんですけど」

「うん」

「じゃあなんで今まで個人を大切にしてこなかったんだろうなって。なんでそういう考えに至らなかったんだろうって」

 そうだねえ、と先生は小さく呟いた。先生の答えは概ね次のようだった。まず、それには宗教が大きく関わっているのではないかと。例えばキリスト教は、一人の人間が絶対的な神と契約を交わすから、「個人」という考えが根付いている。逆に日本は、キリスト教のような人格神とは違い、山とか川とか動物とか、自然に八百万の神が宿っている。その中でいろんな人たちと協力して農業をしていくから、あまり「個人」という考えは起こらなかったのではないか。

 一頻り喋ってから一瞬間を置いて、こんな感じでどう?という風にちらりとこちらを見やったので、私はひとまず礼を述べた。

「ここら辺倫理とかでやらない?」

「あー、昨日モーセが海割って終わっちゃったのでまだやってないかもしれないです」

「そっかそっか」先生はくすりと笑った。

「まあこういうのは倫理の先生の方が詳しいかもね。今度聞いてみたら?」

「えー、あの人怖いから嫌です」

先生は苦笑した。

 その倫理の先生というのは、私のクラスの担任である森田先生だった。暗めの茶髪を一つに束ねており、恐らく新卒で、眼力とやる気だけはあった。明るく元気な人だから、「怖い」という言葉に先生は訝しがった。

「私、美術部に入ってるんですけど、森田先生も美術部の顧問で、私結構色々な賞とか取ってるので、それで、この前の二者面談で美術系の大学を勧められたんです」

「へえ。いいじゃん」

「でも私総合大学に行きたいんですよ」

「あー、じゃあそれでいいんじゃない?」

「それが、全然聞いてくれないです。好きなことやればいいじゃん!の一点張りで。親から反対されてることを言ったらますます火が点いちゃったみたいで、私が説得してあげるからね!で、終わっちゃいました」

仕方ないような、仕方なくないような、微妙な表情で先生は唸っていた。

 私が絵を描き始めたきっかけは、小さい頃、両親に連れて行ってもらった美術展だった。そこで私は、ひとつの日本画を見た。画家も題名も覚えていない。髪の一本一本、肌の質感まで伝わってくる繊細な筆致に、妖艶さまでも感じる年頃ではまだなかったが、私はどうしようもなくその絵に引きこまれた。金箔を貼られた扇の奥に潜む花顔を子どもながらに想像していた。

 両親ともに絵画は好きだったから、私が頼めばすぐに絵画教室に通わせてくれた。私が絵を描く度に褒めてくれた。賞など取れば尚更だった。でも、だからといって、それを易々と仕事にしていいかと問われれば、違う。それは私も、歳を重ねるごとに理解していった。

 そんな考えも、専門高校に入れていたら少しは変わっていたのだろうか。受験に失敗した時点で、私は私の才能にある程度見切りを付けていた。というのも、私には美術しかないわけではなかった。学校でやる勉強だって、そりゃ毎日やるものだから面倒な日もあるが、それなりに楽しかったのだ。音楽や映画鑑賞も好きだ。逆に言えば、特に秀でたものがあるわけではない、ということなのだが。

 総合大学に入りたいこと、恐らく画家にはならないこと、担任の四白眼が、それらを蔑んでいるようにさえ見て取れた。あんたに何がわかる。何も知らないくせに、私を挑戦もせず逃げたと決めつけて。

 実のところ、私にもよくわかっていなかった。この頃ずっと、自分が自分でない他の誰かであるような気すらしていた。二者面談の時点で担任にきちんと言い返せていれば、今こうして友達でもない人間に愚痴を言う必要もなかったのだ。今の私は、何者にもなりたくなかった。何も欲していないから、何も言葉が出てこなかった。あの頃の「ママ、お絵描き習いたい」も、私が欲しない限りこの世には生まれてこなかっただろう。

「そうだねえ。まあ、その人にも色々あるんじゃないかな。学校の方針もあるし、全部を先生のやりたいようにできるわけじゃないでしょ」

聞こうとした言葉が詰まった。空気がじっとりと体にまとわりついた。

「やっぱり、思うようにはいかないですか、大人って」

そりゃそうだ、と心の中の私も言っている。上手く言葉にできなくて、幼稚な聞き方をしてしまった。先生も、「そりゃあ、まあ」と笑っている。

「でも、それは大人に限った話じゃないでしょ」

「それは、そうですけど。でもよく言うじゃないですか、『高校生に戻りたい』とか『青春って、若いっていいなあ』とかって」

「ああ、それね」

 そもそも、青春とは何だ。膨大な課題の量、部活での蟠り、会話の通じない担任、他学年の教師の怒鳴り声、動物園のような教室、プリントで切った指先、雨の日の廊下、塵、塵、塵。そんな生活を、多くの大人たちは、口を揃えて「楽しかった」「あの頃に戻りたい」「羨ましい」と言う。私にも、そう思える時が来るのだろうか。いや、そう思えたとしても、私が感じた苦しみが、なかったことになるわけじゃない。

「僕はそういう風には思わないけど。というか、僕もまだ、大人になれちゃいないよ」

謙遜するのが上手いな、なんて思って、先生の先にある木を見ながら笑ってみせた。

「一人前なふりして生徒の前に立って、偉そうなこと言ってるけどさあ。何年経っても毎日緊張するし、授業して、受験対策して、それくらい誰にもできるでしょう?」

そんなことない、とは言えなかった。そういうのは、とりあえず表面上だけでも相手を擁護したいときの言葉だ。尤も、言葉とは元々薄っぺらいものではない。世間体を重視したがる日本人が、美しい日本語をすり減らしている。そんな節もある。

「僕でもできるんだから」

そんな私の気持ちを汲み取るように──お世辞にも的確に汲み取れたとは言えないが──そう付け足した。

「それに僕、学校はあんまり好きじゃないし」

「え」

見上げると、そこには先生の横顔があった。特別醜くも美しくもない。ただ、人間の形をしていた。

「どうしてですか」

先生の学校を嫌う理由などは、正直どうでもよかった。私が問うているのは、もっと先のことだった。先生は、それを見抜いていたのか、いないのか、うーんと少し悩んでみせて、おもむろにかばんから瓶を取り出した。

 これ、あげるよ。

 柔らかい声に振り向き、反射的にその右手を差し出した。声の主である先生が持っていた青緑色の瓶から二粒、真っ白な錠剤のようなものが私の掌中に転がり落ちた。

「なんですかこれ」

「ラムネだよ」

「ふーん」

 ラムネは元来あまり好きではなかった。尤も、幼稚園生の頃に、袋に入った小さな粒を食べたっきりだが。私はとにかく、あの酸っぱさがネチネチといつまでも舌に蔓延る感覚が、なんとなく気に食わなかったのだ。

 私は暫くその二粒を見つめてから、口に放り込んだ。一度噛むと、その瞬間、口の中に爽やかな夏の香りが広がって溶けた。一切蔓延ることなく、潔く消えて、私の心を浄化した。先生が持っていた瓶を思い出す。私は、あの類のラムネを食べたことがなかった。今まで密かに恋焦がれていた、涼しげな顔をした瓶に詰まったそれは、たとえこの場所が何の趣もないアスファルトの上だったとしても、私の廃れた青春を潤した。

 青。晴れた日の空。生い茂る若葉。生命の喜び。そんな輝かしい思い出はない。荒んだ「春」は色を失い、瓶の中身は空っぽになった。そこに突然、金春色が流れ込んできた。爽やかな、夏の香り。瓶の中身は、いささか静かな輝きをもった。

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