気まぐれな風に吹かれて

 三月の終わり、都心で桜の開花が各地で告げられると、そろそろあおのいるキャンパスでも桜の芽が少し赤く見えはじめる。

「卒業式にはさくらは咲きますかね?」

 あおはみどりのそんな言葉を思い出していた。あお自身が普段の生活を淡々たんたんと過ぎていればどうとも思わないことのように思われた。

「さあ? ごめん、あんまり気にしたことないや」

「毎年卒業式の日にはかないんですよ。咲くとしたら入学式のとき」

「そうなんだ」

「キャンパスが森の中にありますから」

 あおはこういう時に、みどりのような女の人に憧れた。それは何故だかわからない。ただ、心豊かな気分になるのだ。花の咲く時期に去りたく思うのは、どこかしら詩的な感慨かんがいの上にある。そんな彼女がいるとき、あおは手の触れられぬものを目にしたような感動を覚えた。そしてこうした些細ささいなことに気がつくのはみどりの感性かんせいによるところがあることもあおには分かった。


 あの日、最後のゲラりを見た日である。みどりはきまり悪そうにあおを罵った。出来上がった文芸誌が届いて、刈安のいいつけで地元の駅付近の数件の本屋に、おいてもらうことになった。あおはみどりがやんでいたヴィジュアルの一件を気にかけていた。刈安にしてみれば中身の確保が充分だったためにそれだけで満足していたが、みどりは装丁そうていが最後まで気に入らなかったし、色校いろこうの段階で表紙の図案が変色していたことに彼女は悲観ひかん的になっていた。それはPDFで入稿にゅうこうせず、インデザインで入稿にゅうこうすると仕上がりが変わる場合があるためだった。仕上げまでみどりは印刷会社と交渉を進めた。杜若かきつばたはひととおり編集作業が済んだ頃にまた、文学ゼミを訪れてみどりのそのありさまを見て、あきれたという感じで、口だけ出すことばかりをした。というのも、既に杜若かきつばたのなかでこの文芸誌の制作に関しては放棄した感があったためにあった。刈安は杜若かきつばたについてのイッサイに触れることを拒んだ。あおもそれと同じだった。しかしみどりからしてみればそんな杜若かきつばたの態度は到底とうてい許せるものではなかった。みどりの研究した分野について、ことごとくないがしろに扱っただけではなく、半端な介入に関しては、謝りのメールを一通よこしただけで、あとはことなかれに事態を終わらせてしまおうとしたためだった。あおは二度と彼女とは話したくないと考えた。そのうちあおにとって彼女は、生きていることさえどうでもいいように思えたのだ。そしてしかしみどりについても同情があるものの、いささか疑念を抱いていた。


 卒業式の日にあおはみどりと会った。

「先輩たち卒業するんですね」

「僕はまだあと一年あるけどね。――みどりさんもでしょう?」

「――はい」

 みどりは何かをいつも言いたげにしていた。でも彼女の口からは何も出てこないだろう。

 あおはそのじれったさがどうにも我慢できなくなっていた。

「みどりさん」

「――はい」

「もしよかったら僕とお付き合いしてみませんか」

「……」

 みどりはしばらく考え込むようにして沈黙した。

「少し考える時間をください――……」


 しばらくあおはぼんやり過ごしていた。あの日別れてからなんにもなくなってしまったように思えた。体には痛みだけが残った。どのような感情が湧きあがっても、みんなみどりが持ち去ってしまったのだから――。しばらくはヌケガラだけだった。生きているものなのか何だろうか、地に足もつかずに過ごし、どれだけ多感になるにしてもすぐに奪い去られてしまう。しかしそれは長い間あおが避けてきたことだった。あおは何かしらみどりに望み過ぎたのかもしれない。

 数日の後、みどりからはこんなメールが届いていた。

「あおさん、こんにちは。

 この間のお話、ありがとうございました。

 けど、今回はやっぱりお付き合いまではできません。

 私があまり上手く話せないし、口下手だからなんと言ったらいいか分からなくて、こんなことになってしまってすみません

              みどり」


 花はどうせ咲かないのだ。あおはみどりに夢を返そうと考えた。それはもう要らなくなったから――。そのうち考えることばかりになった。何を考えていたかと言えばそれはみどりのことだけれど、みどりのことをどう言ったらいいのかということだった。言葉を探してもそれはなかった。どうして見つけられないのかとも考えた。あおは思った。本当は自分はみどりのことを何も知らない。あおにはみどりについて何か言うべきことも見あたらない。しかしもう時間もない。だからあおは夢を返すことでみどりに会うことにした。

 春は近い、桜の開花より先に周辺の木々の色がくすんだ黄褐色から若い緑色を少しずつ表していく。

 部屋を片付けていた。引っ越し屋にあおは挨拶をした。この街を誰にも告げず出ていこうと思ったのだ。


 年度初めのあの日、あおはみどりと会うことができた。

「あ、こんにちは。」

「こんにちは、元気にしてましたか」

「ええ、まぁ」

「みどりさんも今年で終わりだね」

「そうですねえ、あ、あのあおさん、文芸誌のデザインもう一度やり直して卒制にしたいと思います」

 ――やっぱり。

 最初からデザインはみどりがするものと思っていたのに……。

最後にあおはそうおもいながら頷いてこう言った。

「それじゃあ、さよなら」

 みどりは「え?」と返した。みどりはまだあおにたいして何かしらの期待をしていたのかもしれない。けれど、そうした未練はあおにとって厄介なことだった。あおはすでにこの先でみどりとはもう会えないだろうと思っていたのだ。

 そして、それが確かにふたりの最後だった。

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