プロローグ
男がドアに寄りかかり、寝息を立てている。揺れる車内でなお熟睡している。
男の乗っている車(黒いコンパクトSUV)は郊外の幹線道路を進んでいる。平日の昼過ぎという事もあり、車も少ない。
眠る男を中心に4人の男が車内に雪隠詰めになっている。4人、全員が地味な服装をしている。特徴と言えば、リバーシブルの上着を着て、帽子を被り、眼鏡をかけていた。つまり、彼らは一瞬で別人に成り代わることができる。
「マーブ、頼む」中年の黒人―ダリウス・クルーガー―が言った。
マーブと呼ばれた白人の男は頷くと、感染症対策に使う防護服を着始めた。服を着終えると、「それでは、ガワを外します」
マーブは眠る男の頬をぐっと押し、何かを探すように頬をこすった。すると、男の顔が仮面のように剥がれ、中から別の顔が現れる。
ガワ(諜報機関が使う、体表を覆う偽装工作)から現れた男は意識がなく、表情は苦しげだ。
「後ろのセダン、ずっと付いてますね」後ろを監視していた若い男―サム―が言い、ダリウスが振り返る。
ダリウスはスマートフォンのアプリを起動、SUVの後ろについている小型カメラの映像を呼び出す。後ろのセダンが煽り運転を繰り返し、それでいて車線変更はしないという行為を行い始めて7分が経っていた。
ダリウスは短く切られた髪を撫で、呼吸を整える。そして、焦りが現れないよう表情を整える。そして、マーブに視線を送る。
マーブは、視線の意味を一瞬で悟り、防護服を脱ぎ、髭に包まれた細面を晒した。
「尾行にしては露骨ですね」
尾行、という言葉に車内に緊張が走る。
ダリウスは、眠る男を一瞥した。この男が本物ならば、敵との取引で使える。だが、本物ならば必ず敵が奪還を試みてくるだろう。
SUVは、前後数百メートルをドローンで監視し、信号が黄色のタイミングで通過できるように計算し、移動している。
本当は停車し、煽りセダンと距離を開けたかった。しかし、停車すれば、数秒で敵の接近を許し、運が悪ければ囲まれてしまう。
「ですが……ナンバープレートからは怪しい点は見られません」サムが震える声で言った。
サムが言うように、もし怪しいナンバープレートであれば、後部カメラが自動的に監視を行い、かつ上空のドローンが数分前の映像を解析し、どこから来たかをおおよそ把握し、報告しているはずだった。
ダリウスの額からじっとりと汗が出る。
「仮に良くできた偽装を施しているとして、挑発でしょうか」マーブが呟く。
「可能性はある。追い越し車線に移動しろ」
車線変更したが、セダンはスピードを上げず、斜め後ろにぴったりと付いてくる状態になってしまう。
ドローンで前の車がかなり遠くにあること、合流がかなり先にあることを確認する。
「停車しない限りは挟まれることはない」
ダリウスの言葉に部下は微かに息をつく。
ルートは変更したくなかったし、スピードを下げ、距離をとるにも、間隔が微妙だった。
「交戦の準備をしたほうが良いのでは?」マーブが言う。
マーブの青い瞳がすぼめられる。遠くを眺めているような、とらえどころのない目をしている。しかし、それこそが、人を殺すスイッチを入れた合図だと、ダリウスには分かった。
「撃てば警察の介入を許すことになる。それだけは避けなければならない」強い口調でダリウスは言った。
もし、警察の介入を許し、男が警察の手に落ちれば、敵との取引に使えなくなる可能性が高い。ダリウスたちにとって敵との交戦も避けなければならなかった。
サムが拳銃に指を当て、浅い呼吸を単発的に行った。
「サム」ダリウスは、できるだけ穏やかに呼び、甘いガムを渡す。
「食うか?」
サムは唖然とし、困惑しながら微笑み、ガムを受け取る。
「うまいな」ダリウスもガムを噛み、微笑む。
サムもそれに倣い、微笑む。
「撃ち合いが始まったら抜いてくれ。お前なら、それで間に合う」ダリウスは拳銃を指出す。
サムは真顔になり、口に空気をため、一気に吐き出す。
ダリウスは、マーブにサブマシンガンを渡す。マーブは慣れた手つきで動作を確認する。そして、静かに息を吐き、サンルーフを見つめた。
「マーブ、スモークグレネードを用意しろ」
マーブは微かに目を開き、歯を見せて笑った。緊張もしていないし、殺気立ってもいませんよ、と言っているのがわかった。
「少しセダンを調べてみよう、スピードは落とすな」
ダリウスはスマートフォンを操作し、小型カメラとは別のアプリケーションを起動する。そこには、蚊のような虫が映っている。それは、蟲と呼ばれる盗聴、盗撮を行う超小型の無人偵察機である。
数分、蟲の検査が行われ、クラッキングや物理的な問題がないことを確認する。そして、SUVの下部についている特注の箱から蟲を放った。
スマートフォンの画面が、蟲からの映像に切り替わる。揺れる画面の中に、煽りセダンが見えた。
蟲は位置を細かく調整しながら、セダンに自作の糸を貼り付け、滑空状態に入る。
「対蟲装備があるか確認」
蟲は自分がこれから貼りつく地点を走査。蟲を検知するセンサー類がないことを確認。そのまま、窓に張り付き、車内の写真を撮る。
セダンの運転手は、まだニキビが顔に残る茶髪の白人。スーツを着ているが、着られている感じがある。首からぶら下げたカードを見て、個人情報を確認。
「ジョシュ・ブラウン、大手食品加工企業の営業か。一人のようだな」
表情、網膜、運転からは緊張は計測されない。
「よし、蟲で車内に虫が入ったように見せかけよう」
もし、ジョシュが蟲の存在を知る諜報機関関係者なら、虫を見ても絶対に窓を開けるようなことはしない。開けたが最後、蟲は様々な情報を盗み出していくからだ。
太陽の位置を計算し、蟲を移動させる。そうすると、フロントガラスの端に虫がいるような影ができた。
ジョシュは影を見て、無防備に窓を開けた。
車内に、微かに安堵が広がる。
ジョシュはSUVを追い越し、遠ざかっていく。皆の緊張感が薄れていく。
「さて」ダリウスの声に皆の表情が強張る。
「やりましょう」マーブが力強く言い、男を横にした。
ダリウスは手術機材を準備する。その指は微かに震えた。
準備が整い、ダリウスがメスをマーブに渡す。マーブの指が止まる。
「大丈夫か?」
「少し、信じられなくなりまして……データを解析しても、完全に生身の人間です」
ダリウスは額の脂汗を無視し、自分の考えが誤っていないか再度確認する。
拘束されている男が二重スパイではない可能性も十分ある。しかし、初めから勝負が決まっていたゲームをひっくり返すには、この方法しかなかった。
「確証はある」ダリウスはマーブと目を合わせ、言った。
マーブはボールペンを取り出し、口にくわえた。そして、震える手でメスを握る。
「確認作業をはじめます」
ブラック・シープ ~特殊軍事作戦部門~ 賢川侑威 @kawaibabu
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