ファンタジー


 昨日と同じように、エレベーターは使わず、階段で最上階までたどり着いた。足取りは軽かった。


 昨日と全く変わらない夜景だが、昨日と今日とではまるで違って見える。この夜景のひとつひとつの明かりは、人間が作り出している。この夜景は人間そのものだ。明かりの下で人は営んでいて、誰もが闇に呑まれないように明かりを燈している。


 ボクは下を覗き込んだ。あまりの高さに身が竦む。昨日のボクはここに足を掛けて飛び降りようとしていた。今日のボクでは、そんなこと絶対にできない。ありえない。


 あれだけ『死』に憧れていたのに、今は拒絶している。まるで大好きなアイドルが、グロテスクな化物になってしまったかのようだ。


 それにしても、彼は来ないのだろうか。もうかなり待っている。そろそろ帰ろうか。そう思い、覗き込んだ頭を上げたその時だった。


 いきなり背中に強い衝撃が走り、ボクの上半身は闇夜に突き出た。


「さっそく来たな、コーチ!」


 襟首を掴まれて引き戻され、首が絞まる。


「ゲホッ、ゲホッ、殺す気ですか!」


「だいぶ前から居たのに、全然気付いてくれないから、肩叩いただけじゃねえかよ」


 完全に突き飛ばされた気がする。


「また死のうとしてるのかと思ったけど、違ったみてえだな。さっそく女とヤったのか?」


「女とはヤってないですけど、彫刻刀で刺しました」


 彼は目を丸くして驚いた。


「マジかよ! やるじゃねえか! で、どうなったんだよ!」


 ボクは今日あった出来事を彼に話した。ただし公園で両目を潰した話はしなかった。


 田口を刺して膝蹴りをいれてゲロを吐かせたこと。変態ムービーも一緒に見て笑った。


 そして、本間を殺そうと決めたことも全て言った。


「俺も手伝ってやるよ」


「……え!」


 そう言った彼の言葉にボクはハッとなった。何かとんでもない事を言ってしまった気がした。シロの報復が呆気なく成功した事にボクは異常な興奮状態にあったのかもしれない。ボクは簡単に『殺す』と言った。何処の誰だか知らない、このコウヤという男に。


「え、じゃねえよ。一緒にやらせろよ。そのホンマって奴を一緒に殺そうじゃねえか」


 ボクには彼の言っている意味が全くわからなかった。冗談を言っているのだろうか。


 『殺す』ということを、殴ったり蹴ったりして『半殺し』にするという風に、捉えているのではなかろうか。ボクの『殺す』は、『殺す』の意味は……?


 どういうことだ。後から金を要求してくるかもしれない。こういう話には決まって裏がある。


「せっかくですけど、コウヤさんにご迷惑かけるわけにはいきませんよ」


「バ~カ、勘ぐってんじゃねえよ」と彼は軽く笑った。「俺はただお前と楽しみたいだけだよ。それによ、どうやって殺すつもりだよ。刺し殺すつもりか? 殺した後、自首するか? それとも此処から飛び降りるか? 今のお前にはどっちも現実味ねえはずだ。せっかく憎きホンマが居なくなった世界から、お前が消える必要はねえよ。俺がお前に完全犯罪という名の最高のファンタジーを描いてやるよ」


 そう捲し立てた彼はボクに手を差し延べた。鎌の眼がボクの眼球を縛り付ける。逸らしたらいけない気がした。彼の掌はボクの右手にゆっくりと近づいていた。ボクの指が少し動いた瞬間。彼の掌がボクの手を覆い尽くした。ゴツゴツして分厚い手だった。人生で初めて感じる感覚に圧倒されてしまった。


 そして何故かワクワクしていた。この男についていけば、見たこともないような世界があるような気がする。すでにボクの手は考えるより先に、彼の手を強く握り返していた。


 彼はボクの肩を掴みボクの眼を覗き見る。ボクも瞬きせずに必死に彼の眼を見る。


「お前、かっけえよ」


 ボクは何故そう思われたのかわからなかったが、カッコイイと言われたのは生まれて初めてだったので、うれしくて仕方がなかった。


「あっ、ボク、缶コーヒー持ってきたんですよ。これ飲んでください!」


「フッ、じゃあ、俺が持ってきたのと交換しようぜ」


 ボク等は同じ銘柄の缶コーヒーを交換した。


「俺とコーチのファンタジーワールドの幕開けに乾杯!」


「乾杯」


 コツリと缶をぶつけあったコーヒーは昨日と同じはずなのに、不思議とまずくなかった。ボクの中で確実に何か変わりだしている。何かが動きだしている。


 ボクは一気に飲み干してマンションの14階から空き缶を思いきり放り投げた。回転しながら放物線を描く。数秒後、静寂な夜景を切り裂くような甲高い音が鳴り響いた。


「ひゃっはっ! お前最高だよ!」


 そう言って彼も空き缶を投げた。ブンッという風切り音がボクの髪を揺らした。


 ボクは飛んでいった空き缶を見失ってしまった。闇に溶けて消えてしまったのだろうか。いつまでたっても音は鳴らなかった。ボクは少しだけ不思議に思って彼を見た。すると彼は口端だけ吊り上げて、ニヤリと笑ってみせた。


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