白か黒か
8時27分が過ぎた。あの忌ま忌ましい声が聞こえてこない。
8時28分が過ぎた。もうすぐ来るはずだ。アイツはきっと来る。
8時29分が過ぎてしまった。もうチャイムが鳴ってしまう。アイツは不良のくせに、ほとんど遅刻はしない。なのに来ない。今日は何故来ない。
時計の秒針は真下を向いた。僕は下を向いて祈った。早く来てくれ。早く来い!
始業のチャイムが鳴る。鳴ってしまった。
8時32分滝沢先生が来ない。いつもチャイムと同時に教室に入ってくるのに……。何故いつもと違う。秒針が上を向いて下を向いてまた上を向いて……その度に教室のざわめきがボリュームを増す。学級委員が先生を呼びに行こうかと、席を立ったその時、教室のドアが弱々しく開いた。滝沢先生が俯いたまま教壇に上がる。起立、礼、着席、の最中も滝沢先生はフリーズしたままだ。
「……おはようございます。えーと……みんな落ち着いて聞いてね。……昨夜未明、本間くんが……本間くんが交通事故で……亡くなりました……」
どよめきが起きる。
「先生、なに冗談言ってんだよ」
茶化すように言ったのは本間の手下だ。滝沢先生は否定も肯定もせず、緊急全校朝礼がありますので今すぐ体育館に移動してください、と言った。
反応の鈍い生徒たちを煽ることもなく、そそくさと廊下に出る滝沢先生に、ただならぬ雰囲気を感じとった学級委員は、冷静というよりも冷徹な感じで、廊下に出るように促す。
ボクも席を立ち上がる。足は動いているが、まるで自分の足じゃないみたいにボクの重たい頭と上半身を体育館へ運んでいく。
体育館は今までにない異様な雰囲気だった。校長は神妙な面持ちで本間が死んだことを告げた。ただバイクで事故をしたという事実を伏せていた。受験を控えているボクらのためにも、学校の評判を悪くしたくないのだろう。
そういった点から考えると、警察がボクら一人一人に事情聴取することはないはずだ。きっと。
なんだか以外と冷静だ。こんなにも心は震えているのに、脳が逃避しようとするボクを、消せ、と司令する。白のボクと黒のボクがいて、さっきまでネズミ色だったんだ。だからボクは黒を足したんだ。ネズミ色を呑み込むような大量の黒を。でもすぐに黒い沼に白い泡が湧いてく、そこだけネズミ色になる。
焦る。掻き回せ! ダメだ、混ざらない! 黒と白のマーブルになる。帰りたい。早退したい。でも帰ったら、怪しまれるんじゃないだろうか。そうやってボクは黒色を注ぎながら、毎分をやり過ごした。
さすがに昼休み恒例の『集会』はなかった。ホームルームの時間が設けられた。クラスメイトだから、通夜、告別式と出席せねばならないようだ。
黒を足せ、もっと足せ、ありったけの黒をフル動員だ。普通にしてればいいんだよ、それで済む話さ、と脳が心の首を絞める。
●
お焼香をするのに列に並ぶ。泣いている女子がいる。それは本当の涙か? 悲しんでいる自分に酔ってるだけだろ? ボクの心を何度も何度も殺してるヤツラが、本間が死んだくらいで悲しむはずがない。
今日塾なんだよな、と愚痴るアイツや、参列しながら髪やリップを気にしてるコイツラの方がよっぽど健全だ。そうやってボクは人間観察をしたり、前のヤツの肩に落ちたフケの数を根気よく数えたりして、平静を装った。
ようやくボクの番が近くなる。えらく長く感じた。2時間ちかく並んでいるような気分だったけど、実際は10分くらいしか経っていなかった。帰ったら、人間が感じる時間のメカニズムをネットで調べてみよう。
そして最前列に立ち、顔を上げると本間がボクを見ていた。ボクの全身の毛が逆立ち、少しだけのけ反ってしまった。それと同時にアスファルトにぶちまけられた脳みそを思い出し、口許を押さえてもう一度本間を見た。そんなボクを嘲笑うかのように、四角い額縁の中の本間はふわふわした表情で真っ直ぐボクを見る。どちらかというと笑っているような、そんな表情でボクを何発も殴っていたよな。一度でいいから殴りたかった……。殺したかった……。
突然、怒りが込み上げてきて、悔しくて気持ち悪くて、頭が変になりそうで頭を掻きむしった。
「大丈夫ですか? 」
ハッとなり、顔を上げるとハンカチで口許を押さえた涙目の喪服姿の中年女性がいた。きっと本間の母親だ。
「こんなに悲しんでくれて、あの子も天国で喜んでると思います。今まで仲良くしてくれて、どうもありがとう」
ボクの背中にそっと添えられ手から厭味な程、ボクの母さんに似た優しい温もりが染み込んでくる。
こんなにも優しそうな親に限って何故、本間のようなヤツに育つのだろうか。本間の家は母子家庭だ。でもボクだってそうだ。
あんなヤツが天国に逝けるわけないだろ。涙が溢れてきた。なんで……なんで泣いてるんだ。拭っても拭っても次々と溢れ出る。訳の解らない涙。何処へ逝ったボクの感情。違う違う違う! 本間のために泣いているんじゃないんだ!
死ね死ね本間……死ね。とにかく死ね。額縁の中の本間を睨みつける。くそっ、見下しやがって。
殴りたい。殴れない。刺したい。刺せない。殺せない。ならば言ってやろう。せめてこの母親に言ってやろう。この腐れ外道がボクに何をしてきたのかを。
「あ、あの……」
母親の涙目が云いかけたボクの目を捉える。そんな目で見られるとなかなか言葉が出てこないじゃないか。泣いている小学生くらいの男の子と小さな女の子。本間の弟と妹か。こんなクソみたいな、ゴキブリ以下の人間に流す涙は嘘じゃないのだろう。
「……悔しいんです。……悔し過ぎる。……とにかく世界で一番悔しいんだよおおおお!」
ボクはそれだけしか云えず、焼香もせずにその場を飛び出した。なんだよ……何なんだよ。絞り出した言葉が、悔しいって。毎日毎日、暴力という暴力を、受け続けてきたのに……。クソオオオオオオオオオ!
斎場を飛び出すと、車がボクに向かって走ってきていた。まるでボクのことを待ち受けていたかのように。
「本間ああああああああ!」
ボクは叫んだ。運転手は本間だったのだ。笑っているのか何なのか、相変わらずのフワフワした表情だ。死ね。死ぬ……?
ボクは回転しながらは舞い上がり、重力が身体から吐き出され、スローモーションで景色がぐるぐる廻り、アスファルトが近づいてきて、頬にアスファルトが触れた瞬間、クチャッ、グシャッ、バキッ、ドンッ、ドバッ、それらの擬音が混ざり合ったような今まで聴いたこともないような音が、ボクの中で鐘のように鳴り響いた。
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