始動

 目覚めた時、母さんは泣いていた。母さん以外の見舞いは滝沢先生が四回と、滝沢先生に連れられてきた学級委員の二人が一回だけ。


 命に別状はなかったが、左足と鼻骨と頬骨と眼底を骨折しただけだった。後遺症としては左目の視力が極端に低下した。あとは顔面に痺れが残っていて、不自然な瞬きや引き攣りをするようになった。


 何日ぶりの学校だろうか……どうでもいいが上履きがない。どうでもいい。本当にどうでもいい。来賓用の緑色のスリッパを足許に投げ捨て、引っ掛ける。


 イン・ザ・クラスルーム!


 フラワー・オン・ザ・マイ・デスク!


 脳内での英文変換は正常だ。正常か? 本間の席にはないのにボクの席に白い菊の花。これ本間のだろう? わざわざ誰か買ったのか? いじめに金を使うなんてナンセンスだ。ボクはペットボトルの菊の花を喰いちぎった。……苦い。当たり前か。飲み込むのは無理だから、前の席に座る田口の足許に吐き捨てた。田口は花の残骸だけを見て、ボクのことを見ようとしない。一気に静まりかえった教室。それは此処にいる全員がボクのことを見ていたことを意味する。


 菊の花は500mlのペットボトルに供えられていた。ボクはそれを飲み干す。ゴクゴクというボクの喉の音が教室を独占。飲む。飲む。飲み干す。濁った水を飲み干した。


 ボクは口端からほろ苦い水を垂らしながら高らかに言ってやった。


「御供物センキュー!」


 あれッ……どうしたの? なにそのリアクション? シーンとしちゃってさあ。反応がないよね。セリフ間違えちゃったかな?


 ボクは気を取り直して、空になったペットボトルを窓の外に投げて、また言ってやった。


「さあ、取ってこいよ! 本間のイヌ共!」


 ピリッという音が聴こえた気がした。空気が張り詰める。田口が身体がヒクヒク反応している。そして後ろの方から怒号が鳴った。


「テメエ舐めてんのかよ!」


 振り返ると『本間の手下1号くん』の藤代がこっちに来る。後ろから髪を掴まれる。


「チョーシこいてんじゃねーよ!」


もう一人は『本間の手下2号くん』の岩屋だ。どいつもこいつもボキャブラリーがないな、まったく。


「別に二人のこと言ったわけじゃないんだけどなあ。でも『本間のイヌ野郎』っていうワードに、いち早く反応したオマエ達二人は……いったい何だ?」


「ウッセーぞ! コラアッ!」


 またまたワードセンスゼロ。笑える。拳を振り上げながら藤代が迫る。岩屋はボクを前へ突き出す。藤代の拳がボクの頬を打ち抜く。岩屋がボクの腹に膝を入れた。


「ざけんなよっ!」


 ボクは膝を付く。震える。震える。笑いを堪えるのに必死。だから震える。ワードセンスゼロにも笑えるが、痛くないんだ。事故で頭を打ったせいなのか?

顔なんて特に痛みがない。本間に轢かれた時の後遺症かも。もっと殴ってもいいよ。だって気持ちいいぐらいだからさ。

  

「なにやってるの!」


 おお、神よ! 退院明けの久しぶりのボクの登校に合わせて早めに教室に来てくれてのだろう。怒った顔も素敵だ。滝沢先生はボクをヤツラから引き離し、ボクを抱き寄せた。滝沢先生の胸がボクの右肘にあたっている。


「ちがうよ! コイツがオレラのことからかうからいけねえんだよ!」


「そうだとしても暴力していいわけじゃないでしょ! 河内くんは退院したばかりなのよ! 後遺症も残ってるの! 昨日ホームルームの時間にあれだけ言ったでしょ? みんなで河内くんを助けてあげようねって!」


 先生が必死になってくれているのに、股間に血液が集中していく。ボクは腰を引いて股間の腫れを誤魔化そうとするのに、柔らかな胸に減り込んでいる右肘を動かそうとはしなかった。


「ニ人とも放課後残りなさい! ちゃんと話し合って河内くんに謝罪してもらうわ!」


 藤代と岩屋はボクを睨んでいた。ボクもヤツラを見ていたが、右肘に全神経が集中していたので、見てないのと一緒だった。

  

 案の定、昼休みに本間のいない集会でボコボコにされた。最初は退院したてのボクを伺いながらのつねったり、叩いたりの優しめの攻撃だったが、ボクがあまり痛がらないと、手数が倍増。ザコばかりでも、さすがに堪える。


「テメエ、チョーシのりやがって! 放課後、滝沢に余計なことぜってぇ(絶対)言うんじゃねえぞ!」


 そう言い捨て立ち去る藤代と岩屋。余計なことってなんだよ。具体的なことも言えないカス野郎共。多勢に無勢。オマエラは一人じゃ何もできないくせに。


 放課後、滝沢先生の前で、ボクは藤代と岩屋に全面的に謝罪した。滝沢先生は呆気にとられていた。藤代と岩屋はニヤリと笑い合ってはボクを見下していた。

 

 次の日の朝はいつもより早く家を出て、自転車を駆り出し、後遺症が残る脚でペダルを漕ぎ、自転車を停めると、じっとり汗が滲み出る。ここはヤツの通学路。


 呼吸を整えろ。ダメだ。心拍数が下がらない。これは自転車を漕いできたからではないと思う。落ち着け……落ち着け……深呼吸しよう。


 大きく息を吸い込んで、すべてを吐き出す、吐き出す、吐き出す……。


 ボクはアイツに何をされてきた? よーく考えろ、思い出せ……。昨日は何された?


 腹パン(ボディーブロウ)三発、太股とふくらはぎにトーキック一発と四発、倒れ込むボクを引き起こすために、耳を引きちぎれんばかりに上に引っ張り上げ、本間の専売特許の肩パン(肩にパンチ七発)。しかも肩は他の部位に比べ頑丈なので手加減なし。本間の肩パンに比べれば、多少は痛くないはずなのだが、入院生活が長すぎたせいなのか、痛みの違いが分からなかった。痛かった。


 肩に触れる。


「痛っ……」


 イテエエエエエエエエエエッ! 痛いじゃないか、クソッ!


 何を恐れる? ボクは悪に裁きを与える天使だ。本間を殺ったのは誰だ? 本間にくらべれば藤代はカスだ。岩屋よりもカスだ。本間の金魚の糞野郎だ。


 藤代は喧嘩も強くない。身体の線も細い。アイツは本間がバックにいることに意気がっていたクズだ。悪知恵がはたらき、本間が喜ぶような提案してきただけ。そんなヤツだ。薄っぺらいヤツだ。ボクはアイツより弱くない。決して弱くはない。


 藤代が来るのを待つこと数分……ついにヤツがやって来た。藤代が進んで来るのは、民家と民家の隙間だ。そのため人がすれ違う時は体を斜めにしなければならないほどの細い路地。両サイドはボクラの身長よりも高いブロック塀。


 腰パンをした藤代が近づいて来る。ボクと目が合った藤代は足を止めて面食らった様子だ。そりゃあそうだ。オマエとボクの家の方向は真逆だもんな。


「……なっ、なんで、オマ、オマエがこんなとこに……」


 ボクはヨタヨタと歩を進める。


「テメエ、そんなもん使いやがって大袈裟なんだよ。昨日はちゃんと歩いてただろうが」


 そう、ボクは松葉杖をついている。この時のために、病院へ返却しなかったんだよ。


 そしてボクはわざとヨタついて見せる。すると藤代は小馬鹿にしたように笑う。


「ハハッ、だせえな。痛くもねえのにそんなもん使うからだよ、バーカ! 邪魔だ、退けよ!」


 藤代が近づいて来る。ヤツの爪先からボクの爪先の距離を計る。あと三歩……二歩……一歩……今だ!


 地面に突き立てていた松葉杖の先端を真っ直ぐ上に振り上げた。空気を切り裂き唸りを上げた松葉杖は藤代の顎をカチ上げた。赤い血を飛び散らしながら後ずさる藤代。


 ボクは退院してからずっと、この時のために練習してきたんだ。松葉杖のリーチを計算し、猫背の藤代の顎にヒットするように何回も何回も右腋が擦り切れるほど素振りしてきたんだ。だから松葉杖を使ったこの動作に関して言えば、ボクの右にでる者はいない。つまり松葉杖世界一だ。どうだ藤代、世界一の松葉杖アッパーを喰らった気分は?


 そうだ、そうだ、しかも、この松葉杖の先端のゴム、藤代くんのために剥ぎ取っておいたよ。だから切れ味抜群みたいだね。


 藤代は尻をついて顎を押さえ悶えている。


「結局こんなもんだろ? 一人になっちゃえばこんなもんだろ? 一人じゃ何もできないカスだね。いや、キング オブ カスだ!」


 藤代は何も言わない。何も言えないのか? でもオマエの発する言葉を聞かせてくれよ。オマエが何を思ってるのかを……。


「何か言ってくれよ」


 ねえ! ねえ! ねえ! と言いながら、藤代の肩を松葉杖で突く、突く、突く……。昨日の肩パンのお返しだ。


 うう、ああ、と呻き声を漏らす藤代は泣いていた。それはもう顔をグシャグシャにして口元から血を垂らし鼻水を垂らしながら、幼児のように大粒の涙をボロボロと零している。さらに肩を突き続けると、ヤメッ、ヤメッ、ヤメレ、と藤代は懇願する。


「集会の時、ボクが止めてって言った時、キミはどうした?」


 また何も言わない藤代。


「訊いてるんだよ、なにか言ってくれよ……」


 オマエ、いつも止めなかったよなあああ! ボクは肩を突き続ける。藤代は肩を手で庇うため小指を突いてしまった。


「ギャアアアアアアアアア!」


 逆方向に曲がった藤代の小指。叫ぶ藤代の口を慌てて塞ぐ。


「声を出すな。これで終わりだと思うな。この事を誰かに言ったら、またやってやる。今度は殺してやる。いや、やっぱり殺さないで、目玉を突く……両目を突く。そして暗闇の世界で生き続けてもらう。何もしなければ見逃してやるよ。わかったかい?」


 まだ呻いている藤代に苛立ちを覚えたボクは、髪を掴んでボクの眼を強引に見させた。泣いてる。ボクに怯えている。


「返事は?」


「……ワカッ、ワカッラ」


「返事はハイだろ?」


「……ハヒ」


 ボクは藤代の頭を地面に叩きつけ、松葉杖を担いでその場を後にし、近くの公園に自転車を停め、松葉杖を茂みに隠し、何食わぬ顔でボクは登校する。だけど何故か奮えが止まらない。右手の奮えが止まらない。藤代の華奢な顎を砕いたからか? そうなのか? 違うのか? もしや……?


「本間あああああああああ!」


 振り返り鞄を振り回す。あの雲が、道路の染みが、ガードレールの凹みが……あらゆるものがヤツに見えてくる。通りすがりの通行人と目が合いボクは我にかえる。


 落ち着け……落ち着け……次は岩屋だろ。もしかして岩屋にビビってるのか? 本間もよりも背が高く、本間のように武道の経験はないが、体操部だから筋骨隆々、ただ意気がってるだけの藤代とは違い、学年でトップ10に入る学力で頭がキレる。部活をやっているので、学校以外では不良グループとはつるまないので、内申に響くような問題は起こしたことがない。さらには部活の成績も優秀で進学校に推薦してもらえるらしい。憎たらしいヤツだ。


 顔を殴るのは御法度にも関わらず、昨日、藤代はボクの顔を殴ったが、岩屋は腹に膝蹴りだった。藤代とは違い挑発されて怒っても、冷静さを見失わないヤツだと思う。どうなる? アイツだけはまったく読めない。

 

 今日も来賓用の濃いグリーンのスリッパを引っ掛けて教室に入る。昨日、滝沢先生が今度から上履きは持ち帰った方がいい、と言っていたが、もうボクは上履きを買いません、と言った。どうして? って……。何足買ったと思ってるんですか? お小遣の大半は上履きや体操着に消えていったんですよ、なんて言える訳もなく、ボクは従順に返事した。


 大概のヤツラは周りと違うことを恐れ嫌がるが、一人だけスリッパなんて気持ちいいじゃないか。オンリーワンだぞ。


 ボクはそれだけでプレミアムだ。独りや孤独は悪いことじゃない。ボクは唯一だ。この学校で唯一の存在なんだ。唯我独尊。


 オマエラが殺しても殺しても湧いて出てくるゴキブリなら、ボクは絶滅危惧種のトキだ。ボクは崇高な存在なんだ。オマエラせめてゴキブリホイホイの中で死ぬまでベトベトしてろ。ボクには誰も手を出せない。崇高なる命だから。


 今日はいつもより早い到着となった。嫌がらせはされていない。藤代が来ないうちは岩屋も動かないってことか? 馬鹿臭い提案はいつも藤代がしてるんだろうな。


 指揮をとっていたのは藤代だったということか? っていうことは藤代が消えたから、集会はなくなる可能性があるな。

  

 その前に……その前にだ。藤代はボクのことをチクらないだろうか。アイツは馬鹿だ。馬鹿故に読めない。あれ? さっき、岩屋のことも読めない、って……。本当の馬鹿はボクか? ボクなのか? ヤバい。不安になってきた。バカは所詮バカだ。故に絶大なる恐怖と痛みに屈すると踏んでいるのだが……。


 今日はやけに静かだ。藤代が来ないだけで、こんな感じになるのか?


「藤代遅くね?」


「なんか聞いてる?」


「知らね」


 8時30分。チャイムが鳴る。教室に入ってきた滝沢先生の表情に曇りはない。出席を取りはじめた。


「藤代くん」


 返事が返ってこない。滝沢先生は藤代の席を見た。


「誰か藤代くんのこと聞いてないかしら?」


 この様子からすると、まだ学校に連絡していないようだ。ヤツの顎を砕いたのは、およそ30分前のことだから、連絡できないとしても不思議ではない。救急車で運ばれたのだろうか。ボクは奮える手を机の下に押し込んだ。

  

 一時間、二時間と時間は刻々と進んでいく。だがボクへの呼び出しはなく、給食の時間になり、滝沢先生がいつもより早く教室に入ってくる。いつもは教壇に向かうのだが今日は違った。


「ちょっと訊きたいことがあるんだけど」


 そう言って滝沢先生が廊下に連れ出したのは、ボクではなく岩屋だった。


 助かった……。藤代はボクの名前をださなかったんだ。だから岩屋に心当たりがないか訊いているのだろう。ボクはホッとして嬉しさを堪えるのが困難になり、トイレの個室に飛び込んだ。


 ヨシッ! ヨシッ! ヨシッ! 強く拳を握り天に何度も突き上げた。落ち着いたところで教室へ戻ると、給食に厭なトッピングが加わっている。


「いただきます」


 細かく砕かれたチョークがゴロゴロ入っている白米をバリバリと異様な音を起てながら平然と飲み込むボクに周りの視線が突き刺さった。


 黒板消しクリーナーから取り出したであろう大量のチョークの粉が加わった苦い苦い濁ったスープを一気に飲み干す。


 底に残った粉をスプーンでキレイにかき集め、牛乳でそれを流し込んだ。一滴も、一粒も残さぬように丁寧に皿、一枚一枚、舐め取った。


 うおおおお! センキュー! デリシャス! ごちそうさま!


 何だよ、この視線は? オマエラが善かれと思って、ボクのだけトッピングしてくれたんだろ?


「ああ、美味しかった。……オエッ!」


 ボクは喉まで込み上げてきたものを、また飲み込んで、涙目で微笑んでみた。


 給食の時間が終わる。さあ、どう来る。食器を片付けると……キタアアアアアアアアア! ボクはいつもの場所に連行される。集会決行だ。藤代がいないからどうなるかと思っていたが、藤代がいない今、ボスは岩屋だ。おいおい……他のクラスのヤツまでいるじゃないか。想定外だ。岩屋が声をかけたのだろう。


 暴力を振るいたいニンゲンが……リンチをしたい悪魔が……この世界にもっといるのだろうか。もっともっといるのだろうか。恐ろしくて笑えてくるよ。


 ああ……おお……イッ……うぐっ……ぐえっ……新参者は加減を知らない。爪先を立てて蹴ったら骨が折れるぞ。コイツラ、ついこの間までボクが入院していたこと知ってるのか?


 よく見たらボクよりチビでガリなヤツまでいるじゃないか。テメエ、ボクとタイマン張れ! 負けないぞ。オマエなんか一発で終わりだよ。ハウアッ! ソイツに顔面を踏まれる。顔は骨折して後遺症が残っているのに。


「顔はやめたほうがいいぞ」


 岩屋が制止する。


「もっと顔を蹴ってくれよ。キミらにその勇気があるならね」


 ボクがそう言うと、着火した。火に油を注ぐとは正にこの事だ。もう止まらない。頭がガンガンして気持ち良くなってきた。 


「そろそろ行こうぜ」



 やり過ぎな雰囲気にびびった岩屋が言うと、初めて集会に参加したヤツラは不満げな表情を浮かべるヤツが多い。岩屋の支配力は薄いようだ。


「もう終わり? 本間が居ないから大した事なかったね」ボクは満面の笑みを放った。


 静まり返る。当たり前か。こんなこと言ったの初めてだもんな。ボクは立ち上がって言った。


「来いよ、ほら、どうした? 本間のイヌ……」



キタアアアアアアアアア! 岩谷がキレた。 腹蹴りが飛んでくる。吐きそうだ。まだだ……まだだ……。来い来い来い来い、もっと来い! 熱くなれよ、もっともっとボクを痛めつけろ……。ボクはずっと笑顔を崩さなかった。


 他のヤツラも加わり攻撃は長い間続いた。ほんの数分のはずだが、もう放課後なのかと錯覚した。


 予鈴が鳴ると自然と攻撃が止み、引き上げようとボクに背を向ける岩屋。


 ボクは死力を尽くして立ち上がり、自らの喉に右手の人差し指と中指を差し込んだ。そして岩屋の肩に左手をかけた。振り向いた岩屋に、ボクはぶちまけた。口一杯に溜まったチョーク入りのゲロを、岩屋の顔面目掛けて噴射してやった。顔面パンチを喰らったかの如く、後ろにのけ反る岩屋。此処は三階と屋上を繋ぐ階段の踊り場。


 グッナイ! ……岩屋、安らかに眠れ……。


 はい、そしてボクは倒れまーす。でも意識はちゃんとありまーす。悲鳴が鳴り出す。そして、すぐにセンセイ共がやってきた。


「何があったんだ!」


 男性教師の怒号に怖じけづく集会参加者達。コイツラは大人という、教師という生き物にめっぽう弱い、受験を控えた普通の中学三年生。だけど普通を装って、ボクにだけ暴力を奮うのだから恐い。どうかしてる。


 コイツラはゴキブリよりも要らない生物。要らないというより、こんなヤツラが何故産まれてきた?


 いつ、どこで、なにで、誰から、聞いたのか忘れたけど、『人は皆、生まれた理由がある』と言っていた。


 じゃあ、訊きたい。コイツラの生まれた理由は何ですか? ボクを苦しめる為ですか? 遠い将来、コイツラが改心して聖人君子のような有り難い人物になれたとしても、十五歳の時にコイツラから受けた傷や記憶はボクに一生残るんだぞ。ボクはコイツラの踏み台か? ボクはコイツラが悔い改めるための尊い少年時代の過去の過ちになるためなのか?


 人殺しに生まれた理由はあるんですか? 人は殺さなくても、心を殺すコイツラにも生まれた理由はあるんですか?


 ボクは認めない。『人は皆、生まれた理由がある』なんて、絶対に認めない。


 オー、マイ、ゴッド! ファック、オン!

 

 煽りまくって頭を蹴られたせいなのか。気持ち良くなってきた。女子の甲高い悲鳴や、救急車を促す声が絶え間なく鳴っている。もうダメだ。眠ろう……。


 真っ白か、真っ暗か、どちらかわからない世界でボクを呼ぶ声。お迎えが来たのだろうか。いや、違う。


『殺す』の文字を拭い去った白く細い指先が、ボクの口についた吐瀉物を拭い取っている。


 背中の温もり。後頭部を包み込む柔らかさ。そしてボクを包み込む甘い香り。現実なのか夢なのか……呼びかける声はボクの意識を徐々に呼び戻す。


「河内くん! しっかりして河内くん!」


 薄目を開けると、そこには神がいた。紛れもない神。


 滝沢先生がボクを背後から抱き寄せている。そして枕のようにボクの後頭部を包み込んでいるのは、滝沢先生の胸だった。


 ボクは目を閉じた。目を開けてしまえば、この天国が終わってしまうだろうから。怒りと衝動を一瞬で鎮めてしまった、この香りと柔らかさは、まさに神だ。


 そして、徐々に股間が不快になっていく。というよりも実感していく。パンツの中が生暖かい。思わず股間を抑えようとするが、グッと堪える。なんだこれは、身体がビクンビクンと強張って、排泄が止まらない。でも14階から落とされかけた時のように、尻まで濡れてはいない。一気に羞恥心と背徳感が押し寄せてくる。


 痙攣と勘違いした滝沢先生が叫ぶ。ボクの顔に落ちる暖かい雨に不思議と不快感は無かった。そして口の中に落ちた雫のしょっぱさで、それは滝沢先生の哀しみなのかもしれないと思った。


 

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