花火
彼に二つのアイテムを揃えるように言われたのでネットで入手した。金が足らなかったので田口に援助を頼んだところ、引き攣った笑顔で快く承諾してくれた。持つべきものはやっぱりトモダチだ。
二つのアイテムが揃うと、深夜の最上階でコウヤさんにそれを見せた。すると彼はボクにこう言った。
「よし、じゃあ黒っぽい服に着替えてこいよ。5分後出発だ」
「えっ、どこにですか?」
「花火見に行くに決まってんだろ」
「……今からですか?」
「そうだよ。なんか問題あんのかよ!」
眉間に皺を寄せ、鎌の眼がボクを覗き込むので、「わかりました。すぐ戻ります」とだけ言って階段を一気に駆け降りた。花火って……。心拍数が上がっている。田口を刺した時や、銃を構えた時とも違う。高揚感と違う類いの胸の高鳴りだ。
コバルトブルーのパーカーを引っ張り出し急いで着替え慌てて玄関を飛び出すと、ボクは息を呑んだ。
彼が口から煙草の煙を巻き上げながら待っていたのだ。
「どうした。そんな怖い顔して? これからファンタジーワールドにリアルな花火を見に行くんだぞ。もっと愉しくいこーぜ!」
興奮した彼の声がマンションの廊下に響き渡る。頼むから静かにしてくれ。ドア一枚隔てた3LDKのリビングの隣にある6畳の和室で、母さんが寝てるんだぞ。この忌ま忌ましい狂気の声が母さんに聞こえていないか、そわそわしながら彼の後を追った。
マンションの外を彼と一緒に歩くのは初めてだったので、変な違和感を感じる。大分歩いているが、どこに向かっているのかわからない。彼は辺りを見回しながら歩いている。ボクは黙って彼の後をついていった。しばらくすると、大きな駐車場に入った。速度を上げた彼は車の群れの間を縫うようにして、スタスタと歩いていく。ボクは心拍数を上昇させ脚の回転を速めた。
そして彼はどこにでもある国産の乗用車の前で足を止め、車内の様子を覗き込んだ。
「よし、これだな」
そう言った彼はポケットから何かを抜き出した。マイナスドライバーだ。
彼は服の袖を伸ばして右手を覆い隠し、マイナスドライバーを握り、そのまま後部座席の窓に突き刺した。すると瞬時に蜘蛛の巣のようなひび割れが生じた。
彼はひび割れた窓ガラスに対し、ドライバーのグリップの部分でロックアイスを砕くようにして窓を叩き崩し、そこから手を入れてドアロックを解除した。
彼は当たり前のように車に乗り込む。ボクはどうしていいかわからなくて、立ち尽くしていると彼は車の中から、顎で助手席を示した。ボクははっとなり、慌てて助手席に乗り込んだ。
「少し頭下げて、誰か来ないか見張ってろ」
彼はそう言いながら、ハンドルの下辺りのカバーにマイナスドライバーを捩込み剥ぎ取った。配線が剥き出しになった。
「コーチ、ケータイで手元照らしてくれ」
彼は手慣れた様子で配線を選び出しカットした。そして配線の皮をライターで溶かし、色の違う配線同士を合わせた。チッチッと鳴った後、セルモーターが反応し、エンジンがかかると、ケータイの光に青白く照らされた彼の顔が、ゆっくりこちらを向いて、毒々しく笑った。
ボクはヤバイと思った。この『ヤバイ』はボクラの世代が使う『ヤバイ』ではなく、危険を感じた時に出る直感的な『ヤバイ』だ。
「よーし! 出発進行だあ! ひゃっほー!」
彼は興奮していた、と思ったが、運転は乱暴ではない。むしろ丁寧だ。お世辞にも上手いとは言えない母さんの運転とは大違いだ。言動と行動が重ならない。一致しない。この男は深い。闇の中のより暗く深い。強烈な違和感がボクを襲う。
「シートベルト締めとけよ」
ドライブでもないのに以外な発言だった。これは盗んだ車だ。行儀よく乗る必要があるのだろうか。
次にすべてのパワーウインドウが下りた。確かに少しだけ暑い気はするが、エアコンを使えば済むはずだ。不思議に思っていたら、ボクの心を見透かしたように彼は言った。
「右の後部座席の窓だけ開いてるのおかしいだろ。マッポはちょっとした違和感さえ嗅ぎ取りやがる。花火を打ち上げる前に邪魔されるわけにはいかねえからな」
彼は軽く笑ってみせるが、ボクには不気味に映る。シートベルト着用もそのためか。
しかし、なんだ、なんなんだ、この人は……。いったい何者なんだ。普通じゃない。
しばらくすると、人気のない通りにある電話ボックスの前に車を停めた。
「電話してくるから待っとけ」
彼はそう言って電話ボックスへ入った。ケータイをもっていないのだろうか。それとも、これから起こる出来事に関係があるのか。本間を殺すんだよな? 殺せるんだよな? 念願が叶うんだぞ。怖がるな。もっと喜べ。
つい何日か前、ボクは悪を撃った。あの時のボクは行動はクレーバーで頭の中はクールだった。
顔は見られていないし、声も出していない。シロと同じように、しっかり目を潰してやった。しばらくサイレンの音が聞こえていたけど、ボクはシャワーを浴びて汗を流していた。……だからどうした? 気持ちを切り換えろ。どう切り換えればいい……。気持ちの整理もつかないうちに、彼は電話ボックスから出てきた。
ガードレールを飛び越える彼の身のこなしが凶暴な野生動物のようで、ボクはこのまま食い殺されるのかもしれないと思った。もう、きっとなるようになるしかならい。車に乗り込んだ彼は目をギラギラと輝かせて言った。
「よし! 時間あんまりねえから急ぐぞ!」
「何をですか?」
「花火に決まってんだろ!」
彼はそれ以上言おうとはしなかった。ギアをドライブに放り込んだ瞬間、キキッ! とスキール音を上げ、ボクの背中は座席に減り込んだ。エンジンが唸りを上げる。どこにでもある国産の乗用車が、こんなにも凄まじい加速をすることをボクは初めて知った。
さっきまでの運転とは打って変わって、鋭くて乱暴だ。急ぐにしても異常だ。さっきまでの言動は何処へいってしまったのだろうか。彼はハンドルを片手で捌きながら、煙草に火を着けようとするが、走行風で火が着かない。100円ライターが火花を散らすだけ。小さな花火のようだ。これで花火はもう十分だ。
もうやめにしませんか? と言おうとしたら、割れていない三枚のパワーウインドウが上がり窓が閉まった。するとライターから炎が上がり、彼の顔を赤く染める。一瞬、地獄の底かと錯覚してしまった。現実に引き戻されるようにボクは煙に巻かれ、むせ返りそうになり咳を我慢すると、もうやめにしませんか? とは、とても言えない状況にあることを認識した。
この状況を例えるなら、真っ暗闇のなかを目隠しをして、走らされているようなものだ。何処に何があるのかわからない。もしかして何かに躓いて転倒するかもしれないし、もしかして一寸先は谷底かもしれない。そして止まることは決して赦されない。背後に彼がいるからだ。
しばらくすると工業団地に繋がる産業道路に入った。街灯の数も少なく、午前0時をまわった今では、交通量は皆無で薄暗く、人っ子ひとりいない見通しのいい長い長い一直線。この先には工場しかないはずだが……。
そんなことを思っていた矢先、工業団地にたどり着く前に車は停車した。そうして彼はさっきまでとは違った冷静な様子で、ボクにある作業を命じた。
聞き終えたボクは車から降りようとするが、指先が震えてシートベルトが上手く外れず身体にベルトが食い込む。機械である車でさえも、彼を拒絶しているのだろうか。ボクはこのままシートベルトが壊れて外れなくなればいいと思った。車の窃盗犯で捕まるほうが、まだマシだ。
「早くしろ! 時間ねえんだよ!」
彼の怒号が、ボクの心臓を強く叩く。するとシートベルトはボクの身体をスルスルと上がって外れてしまった。やはりボクはこの車を降りなければならないようだ。そして彼の指示に従い二人である作業を実行した。
「よし、オッケーだ。コーチ、ケータイの番号教えろ」
「は、はい」
ケータイの番号を教えると、彼は車に乗り込んだ。ボクも乗り込もうとするが助手席のドアが開かない。戸惑っていると、スルスルとパワーウインドウが下がり、鎌の眼がボクを覗き見た。
「コーチは此処で待機だ。後で電話するから、ここから動くなよ」
ボクの反応も待たずに彼は車をUターンさせて、走り去ってしまった。
こんな所に置き去りされてしまった。ボクはどうしたらいい。……待て。待てよ。落ち着け。落ち着くんだ。冷静になれ。深い深呼吸をして、気を落ち着けた。
逃げるチャンスじゃないか。ボクははっとなり、狂ったように走りだした。だけど運動が苦手なボクの脚は、あっという間に動きが鈍くなり、すぐに止まってしまった。心臓が拡がって縮まるを高速で繰り返している。脇腹が痛い。喉がゼェゼェ鳴っている。後ろを振り返ってみると、100メートルも進んでいないことがわかった。
げんなりして、地べたに腰を落とした瞬間、静まり返る闇夜をつんざくようなケータイの呼び出し音が鳴った。非通知だ。ボクは恐る恐る通話ボタンを押した。
「コーチ、もうそろそろだぞ! 準備はいいか?」
尖った彼の声がボクの鼓膜に突き刺さる。準備? なんの準備だよ。そんなのできてないよ。何も知らされないままボクは此処にいるんだぞ。ふざけるな。もうヤダよ。ヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダ……。
「もしもし……モシモシ……。オイ、コーチ! テメエ聞いてんのかよ! まさか怖じけづいたんじゃねえだろうな!」
彼は声を荒らげまくし立てるが、ボクはこの状況に適切な言葉を見つけ出せない。
「なんとか言えよこらああああ!」
「……ゴ、ゴメンナサイ」
「ああっ! 何がゴメンナサイだ! 何に対しての、誰に対しての謝罪だよ。言ってみやがれコラアッ!」
「……ワカリマセン」
「ほら、すぐそうやってワカラナイで済ますんだろ! オマエは今までそうやって生きてきたんだ! 情けねえ! 地べたに掃いつくばって生ていきてけよ。死ぬまで背中丸めて頭垂れて朽ち果てろ! そんでボクはダメな奴だったって、笑いながら逝きやがれ! この味噌ッカス野郎が! 死ね! オマエみたいなキング・オブ・カスはこの世から消え去りやがれ!」
「……チガウ。違う違う違う違う違う違う! そんなんじゃない! ボクは……ボクは……」
「なんだよ! 言ってみろ!」
「……ボクは神に謝ったんです。イ、イノチを……命を奪うことに対して……」
「フハッ……フハハハハハハ! オマエ何言ってんだ? イカれちまったか? でもよ、さすがコーチだ。カッケエよ。でもな、そんなこと気にすんな。鶏や豚や牛やその他もろもろの生物たちを、毎日毎日、人間が大量に殺してんだよ。酷えと思わねえか? 腹を満たすためだけに命を造り、そしてその命を奪う。焼鳥喰ったり、生姜焼き喰ったり、牛丼喰ったりするためだけにな。そうやって人間は食欲を満たし、そして次の朝には糞になって便所に流しちまう。喰われた方からしたら、堪ったもんじゃねえよな。……おっと、話がそれちまったなあ。つまり、本間なんて生きててもコーチを殴るだけだ。不幸にするだけだ。でもな、鶏や豚や牛のように、死ぬことで人を幸せにできる命がある。消えるべく命がある。わかるよな。本間が死ねば、幸せになれるのは誰だ? コーチ! お前だ! 逃げんじゃねえ! 現実から目を反らすな! やらなきゃいけない時が来たんだ! やるぞ! ここで変わるんだ! 生まれ変わるんだ! 自分の行動に信念を持て! 新しい人生の門出に、激しい花火打ち上げようぜ!」
「……ボクは神の遣い。……この世界ため。……消えるべく命。やればいいんでしょ。やりますよ。やってやりますよおおおおおお!」
「おう! そうだ! そうだよコーチ! やるしかねえんだよ! オマエは今日生まれ変わるんだ。オマエが神になるんだよ。フハハハハ! よし、一旦電話切るぞ。多分またすぐ電話することになるけどな。さっき言った通り確実にな! あとは所定の位置で、その時を待て! ハハハハッ!」
電話を切るとケータイを閉じてポケットに捩込み、ボクは叫びながら元居た場所へと走った。猛烈に走った。
「ボクは神になるううおおおおおおおおおおおお!」
元の位置に戻ると、喉がカラカラで唾を絞り出すが、ネバネバしていて喉に絡む。うまく呼吸ができない。心臓がピストンして全身の血液を熱くしている。呼吸が整わないまま再び着信音が鳴った。ケータイを耳に当てる前から、彼の声が噴き出てきた。
「来るぞ! ついに奴が来たぞ! 本間だ! 本間が来やがった!」
……あれ? でも彼はどうして本間の顔を知っているんだ? 田口のレポートには顔写真は載っていなかったはずだ。そうかそういうことか。さっき公衆電話で話していた相手は本間だったのか。でも、知り合いでもない彼が、どうやって本間を呼び出したのだろうか。
「……オイ、オイ! 聞いてんのかよ!」
「……あ、……は、はい、聞いてます!」
「もうコーチにも聞こえてんだろ?」
「えっ、何がですか?」
「耳を澄ませてみろよ」
ケータイを耳から離してみると、確かに聞こえる。闇空に鳴る荒々しい咆哮が。嫌な音だ。
「バイクの排気音が聞こえます」
「そうだ。その音こそが本間だよ。コーチ、いよいよだぞ。落ち着いて俺の言うとおりにしろ。いいな?」
この状況で「いいえ」と言えたら、本当にボクは変われるかもしれない。
自分の意思を通したことで、田口を刺したことで、ボクの世界は変わった。それは難しいことのようで簡単なことだった。
でもボクは偉大な革命家でも何でもない。ただの人間。一般人。俗にいうパンピー。じゃあイジメられていたボクはパンピー以下か。じゃあボクは何なんだ。
そんなボクが……こんなボクが意思を通すこと。それは簡単なようで難しいとことを、今、震えながら実感している。人はそんなに簡単には変われないのだろうか。……神になるんだろ? ……なるんだっけ?
「……はい、わかりました」
「いいか、よく聞けよ。やることは至ってシンプルだ。恐らく、1分もしないうちに本間がコーチのところに行くことになる。そしたら俺が合図するから、さっき仕掛けたアレをやれ! このまま電話は切らなくて……あっ……おいっ、来たっ、来たああああ! 本間が見えたぞおおおおお」
ケータイが壊れたのかと思うほど、彼の声が音割れする。けたたましい排気音が、クリアに聞こえる。ボクは一直線の道路のずっと先に目を凝らすと、音と光が同時に迫って来ているではないか。
ボクはこめかみの辺りの血管が脈打つのを感じている。ライトのハイビームにやられて、目の奥がギッとなり、よろけて倒れそうになる。このまま倒れ、頭の打ち所が悪くて、昏睡状態に陥ればいい。そして二度と目覚めないことを切実に願う。神様、助けてください。
そんなふわっとしたボクの意識のど真ん中を、彼の声がぶち抜く。
「おい、コーチ! もうそっから見えるだろ? 物凄えスピードだ! 打ち上げ花火だあああ! 準備はいいかあああ! カウントダウン始めっぞ!」
何のカウントダウン? おい、ちょっと待ってくれ。やめてよ。
「ぐぅおおおおおお!」
猛スピードで迫り来る光と排気音。完全にバイクを目視した。
「いよおおおおおおん!」
バイクの後ろには赤色灯を廻した覆面パトカーを引き連れている。その覆面パトカーが本間を追い込んでいる。
「すぅああああああん!」
覆面パトカーのハイビームが眩しい。バイクに乗っているのは本当に本間なのか? 彼は本間の顔を知らない。本間ではないという可能性もある。もう嫌だ。本当に嫌だ。死にたい。殺してくれ。ボクをこの世から消してくれ。
「ぬぅいいいいいいい!」
ボクの汗ばんで震える手には、十メートル以上あるロープが握られている。そのロープはこちら側の電柱と、道路を跨いで向こう側の電柱とを強固に繋いでいる。
「ういいいいいいいち!」
この仕掛けは単純明解だった。それは徒競走のゴールテープを連想させる。全速力で走り抜けようとした人間に対して、そのゴールテープが切れずに固定されていたなら、どうなるか想像するのは容易だ。
「ずぅえろおおおおお! ヤれえええええええ!」
彼の絶叫にちかい肉声にボクはビクッと反応し、右手にあったロープは蛇のように、にょろりと宙を走った。
覆面パトカーは急ブレーキ。そして切れることのないゴールテープにバイクが突っ込んだ。
バイクが唸りをあげて宙を舞う。およそ200kgあろうかというバイクが、空中で逆さまになっている。そして放り投げられた玩具のように縦に回転し、バイクがアスファルトに突き刺ささり、大きく跳ね返った後、プラスチックのオモチャのように転がる。激しい火花と音と共にライトやウィンカーやミラーが弾け飛び、街灯にキラキラと反射する。
バイクは激しく跳ねながら火花を飛ばし転がり続ける。ガソリンタンクが外れ、液体を撒き散らしながら甲高い音を起てて、投げ捨てられた空き缶のように転がっていく。何度か跳ね上がった後、横になった状態で火花を散らしながらアスファルトの上を滑走し、ガードレールにぶつかって止まった。
覆面パトカーがボクの前に停まる。覆面パトカーというよりも、さっき盗んだ車のルーフに、彼に指示され用意したパトライトをマグネット装着しただけの車。すなわち、二つのアイテムとは『パトライト』と『ロープ』だ。
車の窓から彼は身を乗り出して、興奮した感情を剥き出しにして言った。
「見たかよ! 予想以上にド派手だったなあ!」
なんて答えればいい? ……わからない。でも何か言わないとマズい気がする。
「……さ、最高でした……最高の花火でした……」
「ハハッ、そうだろ! 最高の花火だったよな!」
すると彼は思い出したように何かを取り出し、ボクにそれを放り投げた。ボクは胸元でそれをキャッチする。小さいがズシリと重みがある。それは折りたたみ式のナイフだった。
何故、これを? わからない。……わかりません。これで誰かを刺すんですか? 例えばアナタを、ブスリと……ね。ボクはいつからこんなにもバカになったのだろうか。そんな度胸も勇気も行動力もないくせに。いったいボクの中で何が起こっているんだ。……どれがボク? どこにボク? いつがボク?
「コーチ! おいっ、コーチ! ボケッとしてねえで、それでロープ切って回収してこいよ!」
「……そういうことですか」
「他にどういう意味があんだよ!」
怒鳴られたボクの身体は自動的に動き、頑丈なロープを切り落とす。このナイフで刺したら、簡単に内臓まで届きそうだ。切れ味抜群だ……。そんなことをふわふわと考えながら、ボクの細い腕が長い長いロープを軽快に巻き取る。
「なあ、コーチ」
ボクはギクリとした。彼はボクの背後にいた。
「そのナイフ、めっちゃ切れるだろ。俺さ、そのナイフで耳切り落としたことあるんだよね。喰ったことねえけどさ、沖縄料理のミミガーってあるじゃん。それみたいだっからさ。そいつの口の中に突っ込んでやったらさ。泣いて叫びながら吐いてやんの。ありゃ傑作だったぜ。キャハハハハハ!」
心の中が読めるのか? 彼が笑っているから、ボクも笑っておいた方がよさそうだ。
ボクは手汗でべとついたナイフを彼に返した。彼は笑って受け取ったが、鎌の眼が、ボクの内側を引っ掻き、嫌な音がボクの中に蠢く。
「ついて来いよ」
……なんで? ……どこに? 頭が混乱している。ボクはついさっき、何か重大なことをした。ナイフを持っていた。……いや、その前のことだ。数分前の出来事が完全に欠落している。
「そこら辺のモノ踏まないように端っこ歩けよ」
ガラスやプラスチックの破片が散乱している。指示に従い彼の後ろを歩いていくと、原形を留めていないバイク横たわっている。
「見ろよ! グシャグシャだぜ!」
彼は無邪気に笑っている。あはは、と愛想笑いをしてみるが、急に足取りが重たくなる。全身から汗が吹き出し呼吸がしづらくなってしまった。
彼は小走りになって、さらに先に進んだ。
「うわっ! すげえ事になってるぞ! 早く来いよ!」
彼は振り返り、立ち止まっているボクを見つけると、興奮した様子で早く来いと言わんばかりに手招きをした。彼の足下に何かがある。それが何かはわからない。ボクはそれを見てはいけない事を何故か理解していたので、全身が拒んでいるかのように動かなかった。彼はそれを察したのだろうか。何かを叫んだ。言葉ではない獰猛な野獣の威嚇に似ていた。気圧されたボクは全力で彼の元へ走っていた。
ボクは彼だけを見ていた。彼は不快感を露わにしたまましゃがみ込んだ。自動的に目で追う。彼の見つめる先には……血まみれの踵だ。裸足だ。逆の方に折れ曲がった足。背筋を冷たい汗が流れ落ちる。
汚れた白いジャージが所々赤く染まっている。その背中にプリントされている骨をくわえて笑っているイヌのキャラクターが、陽気な表情でボクを見ている。
さらに上に視線を移すと、血に混じった何かを、頭から飛び散らせた血みどろの本間と目が合った。
「吐くなよ!」
彼の怒鳴り声はボクの両手を口元へ動かした。臓物がせり上がってくるようにゲロが口いっぱいになって鼻の穴から少し吹き出したが慌てて拭い、口の中のゲロを飲み込んだ。
それを見た彼は何やらケータイをいじりながら言った。
「ゲロとか残しちゃったら、第三者が此処に居たっていう証拠になっちまうだろ。血も踏んじゃダメだぞ。靴跡が残っちまうからな」
何か光った気がしたが、今のボクにはどうでもよかった。彼は血の流れていない方から本間に歩み寄り、ポケットに手をいれながら腰を折り曲げた。まるで小さな子供が蟻の行列を覗き込むように。
「人間の脳みそって、こんなふうになってんだな。白子みてえだ。茹でたら喰えそうだ~!」
本間の首は詰まったようにひしゃげていて、その顎が背中越しの肩にのっている。顔の右半分は潰れているが、左目は見開いていてしっかりとボクを見ている。ボクが目を反らした途端に本間が起き上がってくるかもしれない。街灯に反射して濡れた黒目は光っていて、今にも目玉がギョロリと動くかもしれない。ボクは腰を抜かしていまい動けない。天地がひっくり返ってしまったかのように重力の方向を失った。
「コーチ、コーチ! 起きろ!」
頬を何度も叩かれたようだ。無理矢理引き起こされ引き摺られるようにして車の助手席に詰め込まれ、何事もなかったように発進する。
本間の死体から遠ざかっているはずなのに、まだ見られている気がする。本間の濡れた瞳が忘れられない。気持ち悪い。奥歯にも喉にもゲロが残っていて気持ち悪い。そんななか彼は意気揚々と喋り始めた。
「いやあ~、しかしうまくいったな。気持ち悪いくらいだったぜ!」
何がだよ……ボクは心の中で毒づいた。喉が渇いた。何か飲ませてくれ。アンタの好きなコーヒー以外ならなんでもいい。自販機をいくつも通り過ぎ、車は止まらない。時間も止まらない。戻らない。彼は喋り続ける。
「しかし何で族やってるヤツってのは単純なんだ? 本間を呼び出すのはチョー簡単だったぜ。アイツのチームのOBを装ってさ、『総長がやられたから、やり返すぞ。貢献したら幹部にしてやる』って言ったらすっ飛んできやがった。馬鹿だよなあ、覇権争いして武功を上げたら昇格? 今は戦国時代じゃねえんだぜ。マジくだらねえよな。社会に出たら暴力なんて何の役にもたたねえ。むしろ、暴力は社会から排除される。それに暴走族って何なんだよ。一人じゃ何もできないヤツラが群れてるだけだろ。バイクは爆音出すための道具じゃねえ、ガソリン無駄遣いしやがって。そんなに五月蠅くしてえなら、チャリンコに乗って拡声器で叫んでりゃあいいんだよ。あんなヤツラ死んじまってもかまわねえんだよ。なあ、そうだろ? コーチもそう思わねえか?」
ボクは彼が日本語以外の言葉で流暢に話しているような感覚だったが、とりあえず気力を振り絞って、精一杯微笑んでみた。うまく笑えているだろか。
どうでもいいから、早くボクを開放してくれ。シャワーを浴びたい。火傷するぐらい熱いシャワーを浴びたい。ボクに纏わりつく本間の視線を一刻も早く洗い流したい。
「車は刑事ドラマに出てくるようなどこにでもある国産車を選んだわけよ。そんでコーチが持ってきたパトライトをルーフにのっけたら、覆面パトカーの出来上がりってわけだ」
この人は馬鹿か? 何がそんなにも楽しいんだ。もううんざり。煩いよ。でも彼は喋り続ける。
「長い一直線で脇道のない幹線道路で、覆面パトカーに張りつかれたらどうだよ? そうなるとスピード上げるしかねえわけだ。バイクに不慣れ中坊が130キロを超える速度域。恐怖で判断力は鈍る。本間は自分でも気付かぬうちに空を飛んでたんだろうな! ギャハハハハハハ!」
彼はまた煙草を吸い始めた。煙りを吐くと、さっきまで大笑いしていた余韻を白く染め、陽気な雰囲気を脱ぎ捨てた。
「コーチはこの辺で降りてもらう。近くまでいってこの車から降りるコーチが誰かに目撃されたら面倒だ。二、三十分ぐらいかかるけど、歩いて帰れるだろ?」
「……はい」
「よし、帰ったら、すぐにベッドに入って寝ろ。母ちゃんに気付かれんなよ。今日のこの時刻は部屋を出てないことにしろ。玄関の靴も元通りにしろよ。コーチの靴が乱れてたら、母ちゃんに気付かれる可能性もあるからな」
何言ってやがる。母さんが眠る部屋の前で大声だしていたのはアンタだろ。バカなのか何なのかわからなくなる。
「大丈夫だよ、コーチ! ぜってーバレねえから。本間が乗ってたバイクのシートの脇に木刀差してあったしよ。誰がどう見たって族の抗争だよ。あんなバイク事故、どう考えたってコーチには結び付かねえよ。この車だって数時間後にはスクラップだ。だから安心しろって」
得意げにそう言って口端を吊り上げほくそ笑む。それを見たボクは、もう気分が悪くて悪くて堪らなくなって、此処でいいです、と言った。そうか、と言って彼はソロリと路肩に車を停めた。
「明日から楽しみだな! じゃあ、またな!」
「……はい」
ボクは車を降り、少し強めにドアを閉めた。またな……って、言ってたな。もう逃げられないのだと、ボクは悟った。そして歩きだす。それと同時にボクはゲロを吐いた。
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