刺し殺せ

「そろそろ起きなさい」


 ドアの向こう側で母さんの声が鳴っている。もう朝か……寒いな……。目を開けると彫刻刀が枕に突き刺さっているではないか。いつもと違う朝の幕開けに全身の毛が逆立った。


「入るわよ」


 ボクは素っ裸だった。


「起きたよ! 起きたから! 入らないで!」


 ドアノブが動いたのでボクは跳び起き、ドアを押さえこんだ。


 「今日はずいぶん寝起きがいいのね……。ご飯冷めちゃうから、早くしなさいね」


 ボクがエロ本でも隠したのだと思ったのかもしれない。でも、穴だらけの枕を見られるよりまだマシだ。言い訳のしようがない。胸を撫で下ろしリビングに行くと、ご飯とみそ汁と卵焼きとおしんこが並んでいた。


 母さんは朝食を作ることを怠らない。食欲のないボクにはこの朝食が辛かった。でも母さんが早起きして、仕事前にわざわざ作ってくれているのに、残すわけにはいかなかった。


給食は食べれない。食べさせてもらえない。踏み潰された煎餅みたいなパンや、和式便器の水を混ぜたスープ。最初は我慢して食べていた。


 それがエスカレートしていくと、虫入りの混ぜご飯や、誰かの小便入り味噌汁に進化していった。それらを口に入れることを拒むと、昼休みに集会が待っている。集会とは奴らが使う隠語だ。その意味はもちろんリンチ。


 そんなことが毎日続けば食欲もなくなるわけだ。そんなボクが「おかわり」と言ったので、母さんは驚いていた。昨夜の出来事がボクのカロリーを必要以上に消費させたのだろうか。

 

 母さんは晩御飯の仕度も朝のうちに済ませ、ボクを見送ってから出勤する。いつも帰りが遅いので、朝ぐらいはせめてボクのことを送り出してやりたいのだそうだ。


 ボクが小学三年生の時に父さんが死んでから、母さんは保険の営業をしている。兄弟はいない。母子家庭というやつだ。二人きりの家族だが特に不満はない。母さんの愛情はこうして毎日感じているし、貧乏なわけでもない。独りにも、もう慣れた。


 母さんはボクが中学に上がると同時に主任になった。ボクには主任というのがなにかわからなかったが、母さんがボクに主任の話を受けるかどうか相談してきた時に、出世ということがわかった。


 母さんは帰りが遅くなってしまうのが悩みの原因だったらしいが、ボクは大丈夫だよと笑った。それから母さんは料理を怠らない。だから母子家庭でもコンビニ弁当とはあまり縁がない。


「いってらっしゃい。あれ? ……顔、少し腫れてない?」母さんは怪訝な表情でボクの顔を覗き込んだ。


「昨日、体育の時間にボールがあったたんだよ……。そう、バレーでさ、スパイク? アタック? トスが上がって打ち込むヤツ……それをよけきれなかったんだ。いってきます」


 階段を降りるまで背中に母さんの視線を感じていた。うまくごまかせたか心配だ。顔に触れてみると少し腫れていて痛かった。


 下からマンションの最上階を見上げる。あんなところで宙吊りになったのかと思うと股間がキュッと縮まった。


 アスファルトを踏み込む足の裏の感覚が鈍い。きっとブレザーの右ポケットに潜ませた彫刻刀のせいだ。いつもと違う違和感が尖っているせいなのか、神経が刃先に集中しているのだ。


 学校に近づくにつれ、ボクと同じブレザー達が目につく。ブレザーの上にある顔はどれものっぺらぼうだ。ポケットの中の彫刻刀を強く握りしめると、のっぺらぼう達に表情が浮かび上がった。


 ポケットの中で彫刻刀の尖り具合を確認する。痛い。刺さる。これは間違いなく刺さる。ボクは絶対無敵だ。


 下駄箱で他の上履きより明らかに茶色い上履きに履き替える。茶色なのは泥水に浸けられたり、花壇に埋められたりされているからだ。


 毎回、履き替える前に一応上履きの中を覗く。泥や石や虫やその他が入れられていないかチェックしているのだ。


 ご丁寧にセロハンテープで画鋲が靴底に貼り付けられていたこともあったが、もう奴らの間でこの手のいじめは流行っていない。ボクのリアクションが薄くなったからだと思う。


 三年生になった時のクラス替えで、本間という暴力的な人間と同じクラスになってからというもの、集会という名のリンチが大流行。

 

 今日も廊下に机は出されていない。いつもボクが淡々と机を戻すので、これもまた簡単に飽きられたのだ。


 教室に入ると腐敗の臭い。吐き気がする。嗅覚が感じ取っているのではなく、ボクの神経が感じている。人間ではない。悪魔の臭い。殺せ……。


 机には落書きが書かれている。いつもなら消しゴムで消すが、こういうことをする奴らは、集会に参加しない奴らの仕業だ。暴力は好まないが、ボクの反応を見て楽しんでいるのだ。手軽で簡単にできるいじめとして毎日行われている。


 今日はこの落書きを消さずにいよう。そんなボクにどんな反応をするか逆に楽しんでやる。殺せ……。


 『死ね』という文字が目に入る。女子の丸っこい文字だ。いつもと違うボクに注がれる視線。昨日までのボクはすでに死んだ。いや、殺した、が適切か。


 時計を見る。8時27分だ。もうすぐ奴が来る。ボクは全身を硬くした。


「おいーす!」バカ丸出しの声が廊下から聞こえてくる。奴だ。本間が来る。ボクは机の両端を握りしめ、歯を食いしばった。


「おいーす!」今度は教室に鳴り響く。……くる。


「うっ!」


背中に走る衝撃とともに、机ごとボクは吹っ飛ぶ。今日はドロップキックだった。ドロップキックは見た目ほど痛くない。だが、それは身構えていたらの話しであって、身体と机の間に隙間があった場合、脇腹を机の角に打ち付けられた時は悶絶モノだ。


本間は朝の挨拶と称して、ボクにだけ最高のスキンシップを行う。殺せ……。


ボクは何事もなかったように机を元の位置に戻す。そんなボクの顔を本間が覗き込んだ。


「誰だよ。こいつの顔殴ったの?」


本間がそう言って周りを見まわすと、子分どもが首を横に振る。


「誰がやったか知んねえけど、コイツの顔が腫れてると、オレが滝沢に言われんだからな! テメエも顔殴らしてんじゃねえよ!」


本間がボクの頭を叩く。ペシンと鳴るボクの頭。ギリリと擦れるボクの奥歯。殺せ……。


ポケットに手を突っ込み、彫刻刀を握りしめると無限の殺意が湧わき上がってくる。


本間が自分の席へと向う。殺せ……。本間の後ろ姿を見る。殺せ……。首を刺せ……。『刺し殺せ』


彫刻刀を握りしめた拳をブレザーのポケットから引き抜こうとするが、彫刻刀が引っかかってしまいうまくポケットから手が出ない。


どうやらポケットの中の生地にに刃先が刺さってしまい、ブレザーごと持ち上がってしまう。焦れば焦るほど取れない。何度も右肘を上下させる。


「コイツ、何してんだよ」と誰かが笑う。


ボクの妙な動きが笑いを誘っているようだ。ケラケラと吐き出される声はボクの怒りを増幅させた。もういい、ポケットから出さずにこのまま刺してやる。大きく足を踏み出したその時、始業チャイムが鳴った。


「河内君どうしたの?」


教室に入ってきた滝沢先生が驚いてしまうのは当たり前だと思う。普段おとなしいはずのボクが、クラス全体の笑いを誘っているのだから。


滝沢先生の驚いた顔に冷静さを取り戻したボクは右腕の動きを止め、起立、礼、着席、の号令に従った。燃え上がるような殺意は、水をかけられたように鎮火していく。


 滝沢先生の声は木漏れ日が差す森林の中の川のせせらぎのようだ。単純に滝沢先生が清楚な美人だからそう思うのかもしれない。


 滝沢先生は唯一のボクの味方だ。本間に殴られボクが顔を腫らしていた時に、クラス内のいじめを徹底的に追及してくれた。


 何もしてくれなかった二年生の時の担任とは大違いで、ボクは滝沢先生の行動に感動したのを覚えている。神だ。


 過去に本間は滝沢先生に問い詰められたことがある。絵に書いたような不良の本間ですら、滝沢先生にはとことん弱い。滝沢先生の前で本間は口を尖らせてボクに謝った。


 でもそれはその場限りの謝罪であって、次の日から顔を殴ってはならないという取り決めがつくられ、本間を中心とした暴力的ないじめは加速度を増した。


 ボクは滝沢先生に言いたい。コイツラには心がないのです。骨に肉を纏わせ皮膚を被せただけの人の形をしたドス黒い塊りなのです。

 

 コイツラはボクの心を何度も殺しました。心に生命はないので『殺す』という表現は正しくないのかもしれませんが、『殺す』という表現以外は思いつきません。しつこいようですが、コイツラはボクの心を何度も何度も何度も何度も殺しました。酷いですよね? コイツラ無期懲役です。いや、極刑です。


 例えば『心』が血肉のある生物だとします。ボクの心は切り刻まれ続けて、揚句の果てに細切れ状態です。


 それでもコイツラは、細切れになったボクの心をさらに細かく刻みます。そしてすり潰してミンチにして、ハンバーグの生肉のようにこねくりまわします。そして、熱々のフライパンで焼きをいれ、フォークとナイフで切り刻んだ後、口許に運び唾を吐きかけ、胃酸で溶かして、臭い臭いウンコにしてから便所に流すのです。


 でも、でも、でもボクが死なない限り、ボクの心は死にません。殺すならボク自身を殺せよ。いつも、そう思っています。でも殺してくれないから、昨晩、自らを殺そうと思いました。


 そして、さっきボクは本間を刺し殺そうとしていました。でも滝沢先生の声に踏み留まる結果となりました。助かりました。ありがとうございました。


 冷静に考えてみたら、本間を殺せたとしても、ボクは捕まってしまうでしょう。そうなればボクをいじめていた他のヤツラは『自分は殺されなくよかった』と胸を撫で下ろすのでしょう。そして数年後の同窓会で「あんなこともあったよね」と肩を組んでワッハッハ、ワッハッハと笑い合うのでしょうね。……そんなことはあってはなりません。


 ボクはコイツラの心を殺します。コイツラがボクにそうしたように、死にたいと思うほど殺して殺して殺しまくります。でも本間だけには消えてもらいます。

 

「テストが近いので、気を引き締めて授業に取り組むように」


 滝沢先生は少し身を乗り出して言った。すると滝沢先生のファンが小学一年生のような返事をする。バカ丸出しだなと思った矢先「河内くんちょっと来て」と滝沢先生が言ったのでドキリとした。


 教室の外。長い廊下に滝沢先生と二人きり。ボクは喉を鳴らして唾を飲んだ。ゴクリという音が廊下中に響き渡った気がして、とても気恥ずかしくなった。


「河内くん、顔、少し腫れてない? もしかして……」


 ボクは先生の言葉を遮った。「先生、誤解ですよ。昨日、階段で躓いて、ぶつけたんですよ」


「そうなの? それならいいんだけど、また何かされたら先生に言ってね」


「大丈夫です。あれ以来、いじめはなくなりました」と笑顔で真逆のことを言ってみると、先生は「そう、よかった」と微笑んだ。


 長い睫毛と大きな瞳に、細く小ぶりな鼻、ぷっくりとしたピンクの唇から覗く真っ白な歯。滝沢先生、あなたは何故にそんなにも美しく、何故にそんなにも優しいのですか?


 まるで、あなたは染みひとつない真っ白なパリパリのシーツのようだ。眩しいです。聖人です。


そんな滝沢先生に訊いてみたくなった。


「ゴキブリってどう思いますか?」


「なに、突然?」と滝沢先生は怪訝そうな顔でボクを見て、戸惑いながらも真剣に答えてくれた。「ゴキブリは気持ち悪いから大嫌い。見つけたら殺すまで安心して眠れないの。だから殺虫剤であぶり出して、出てきたところを雑誌を丸めたので叩くわ。でもどうして今そんなこと聞くの?」

 

「教室にゴキブリがうじゃうじゃいるから、滝沢先生だったらどうするのかなと思って」


「えっ、そうなの! それは大変。放課後にバルサン焚こうかしら」


先生、あなたはなんて純粋で無垢なんだ。ゴキブリはあなたの生徒達ですよ。と口から吐き出しそうになる。


「うじゃうじゃは大袈裟だったかもしれません。とりあえずデッカイのが一匹いるんでボクが必ず殺しておきますよ」


「そ、そう……じゃあ教室に戻っていいわよ」


「はい、ありがとうございました」深々とボクは頭を下げた。


 おお、神よ。と崇めたくなる。先生の口から出た「殺す」は神秘的で崇高でありがたみすら感じる。ボクは導かれたのだ。


 あの美しい女神ですらゴキブリを殺すのだ。ゴキブリなら殺してもかまわないのだ。ゴキブリにだって生命があるのに、それを気持ち悪いという理由だけで殺してまうのだ。

  


教室に入ると視線が集まる。ボクからすればこいつらはゴキブリ以下だ。醜悪だ。席に着くと、本間がボクの細い首に太い腕をまわした。


「なんか変なこと滝沢に言ってねえだろうなあ」


 そんなに滝沢先生に嫌われたくないのなら、中途半端な不良なんてやめてしまえばいいのに、と言ってやろうかと思った。


「この顔の腫れは君らとは無関係だよ。名誉の勲章みたいなものさ」


「はああ? なに言ってんだ。とうとう頭までイカれちまったか?」


 本間はヘッドロックをしながら尖らせた拳をボクのこめかみにグリグリと減り込ませる。痛い痛い痛い痛い…… 。


「痛いよっ!」ボクは強く意思表示した。


すると本間はヘッドロックを解除した。いつも声を上げないボクに驚いたのだ。


「こらっ! 何してんだ!」


 一時間目の数学の教師が入ってきた。ボクは本間を睨んでいる。本間はボクを見下ろしている。


「本間、席に戻りなさい」数学教師が言うと、本間は舌打ちをして席に戻った。


 改めて思う。ゴキブリは姿形が醜い。こいつらの心はゴキブリ以上に醜い。コイツラはボクの心を殺すが、ゴキブリはボクの心を殺しはしない。


 もしもゴキブリと本間が溺れかけていて、どちらかしか救えないという状況があったとする。


 ボクは迷うことなくゴキブリを救い上げ、沈んでいく本間を横目に、歓喜してゴキブリと抱き合うことだろう。そしてキスをしてしまうかもしれない。


 オマエラは人間の姿をした醜悪な生き物だ。命あるゴキブリを殺していいのなら、本間をはじめとするゴキブリ以下の生物たち、オマエラを必ず殺してやるからな。

 

 授業中、ボクは机の落書きを見ていた。冷静に見てみると笑える。毎日毎日ご丁寧に、……ご苦労様です。「ウザい」だの「死ね」だの書いて何になるというのか。疑問だ。くだらない。「殺すぞ」とも書かれている。笑える。殺してみろ。ボクはここだ。逃げも隠れもしないぞ。実際は殺せないくせに、何を書いてやがる。ボクの心は何度も殺すくせに、生身のボクを殺すことはできないんだろう。できもしないことを此処に書くな。腹が熱くなり叫びたくなった。


 ボクはペンケースからサインペンを取り出し、『殺』の文字を上からなぞった。『殺』という字には刃がある。まるで妖しく光る刀に魅了されているようだ。刀を握った野武士のように、サインペンを握るボクの右手が止まらない。気付いた時には、ボクの机は『殺』の文字で埋め尽くされていた。


 しばらく『殺』の大群に目を奪われていると数字教師がボクの席の前で足を止めた。


「河内、どうしたんだ、これ」


 ボクはハッとなり「自分で書きました」と言うが「バカ言うな。自分でこんなこと書く奴がいるか」と数学教師は顔をしかめた。


 前の席の田口が振り返りボクの机を見てぎょっとしていた。


「滝沢先生に言って机変えてもらいなさい」


「いや、いいんです。変えたところで、また落書きされるのがオチですから」


 田口は慌てて前へ向き直った。ボクから見て逆さまに書かれてる落書きはオマエが書いてるんだろ? なあ、田口……。


「そ、そうか。みんなこんなくだらないことはやめなさい」


 それだけ言って授業の進行に戻る数学教師。まるで道路の真ん中で轢かれた動物の死骸を、気持ち悪いと思いながら目を背け、何事もなかったかのように、素通りしていく。そして、しばらくしたら忘れてしまうのだろう。

 

 数学の授業が終わった。ボクの机を覗く目玉たち。


「ヤバくない?」と女の声。ヤバいのオマエラの方だろ。


 誰もこの落書きを消せとは言わない。言えるわけがない。その後の授業でボクの机を指摘する教師はいなかった。


 給食の時間は滝沢先生もここで食べる。滝沢先生がこの机を見たらどう思うだろうか。サインペンで『殺』を書きまくってしまったので、今更消すことはできない。


 教室の前のドアが開いた。滝沢先生が入ってくると一目散にボクに向かってくる。先生はボクの机の前に立ち、真っ白な花柄のハンカチに液体の入った瓶を傾けた。鼻をつく臭い。たぶん除光液のような物だと思う。


 そのべちょべちょになったハンカチでボクの机を擦っていくと、見る見るうちに『殺』達が消えていく。ボクの心が洗われていくようだ。


 でも先生の横顔は儚げで寂しそうだった。見上げる先生はただ美しくて、ボクはただただその顔を見つめていた。先生の右耳にかかっているセミロングの髪を窓から入る光が透かしてゆらゆらと揺らしている。鼻をつく臭いのなかに柔らかな香りがある。これが女性の匂いなのかと、ボクの脳を震わせた。


 先生はティッシュで残った汚れを拭き取った。机はキレイになったが、先生のハンカチは真っ黒になってしまった。それを見て後悔の念が津波のように押し寄せる。


「私って頼りないかしら……」先生がぽつりと零すと、ボクは言葉に詰まった。


 ボクの心の汚れを先生が請け負ってしまったのだ。ボクのどす黒い念いが先生のハンカチと手と心を汚してしまったのだ。


 ボクはさっき先生に『いじめはなくなった』と嘘をついた。きっと数学教師が滝沢先生にボクがいじめられているようだと告げたに違いない。


「手洗ってくるね……」


 そういって教室を出ていった先生の後ろ姿は、いつもより余計に華奢に見えた。

 

 その後、先生は誰が落書きをしたのかを咎めることはしなかった。コイツラの落書きの上にボクが『殺』で埋め尽くしたのだが、先生から見ればボク以外の誰かが『殺』の大群を書いたように思えるだろう。いじめがなくなったと信じていた先生は、さぞかし落胆していることだろう。


 ボクの給食には何もされなかった。久しぶりのことだった。でもボクは残してしまった。教壇で給食を摂る滝沢先生の姿がとても悲しそうだったから。


 食器を片づけたら先生に謝ろう。何を誤ればいいのかわからないが、とにかく謝ろう。そう決めた。でも、そんなボクの気持ちとは裏腹に、先生は一足先に食器を片づけて教室を後にしてしまった。


 いじめは終わっていないことを訴え、助けを乞おう。例え、これがいじめの解決にならなくとも、傷つけてしまった先生の心を守らなければ……。ボクも慌てて食器を片づけ、先生の後を追おうと教室を出ようとしたその時だった。

 

「おい、待てよ!」


 本間の声と共に手首を後ろでロックされ、ぐいぐいと絞り上げられピキピキ軋む。滝沢先生の姿が遠ざかっていく。折れてしまいそうだ。


「集会だー!」


 本間の声が高らかに鳴る。イエーイ! と喚く悪魔の歓喜。おい、待てよ。オマエラに滝沢先生の悲しそうな顔が見えなかったのか? オマエラそれでも人間か?


「集会所行くぞ!」


 そうだそうだった。コイツラは人間の姿形をした悪魔でした。鬼畜でした。


 ボクは警察に連行される犯罪者のように両脇を抱えられ、集会所に連れていかれる。3階から屋上に繋がる階段の踊り場。ここで毎日のようにリンチされている。ボクからすれば、『集会所』イコール『処刑所』だ。

  

「おまえ、なにチョーシこいてんだよ」本間はボクの左肩にパンチを入れた。


 本間は空手の有段者だと聞いたことがある。身体の中心までズシリと響くパンチだ。これがかなり痛い。どんなに気張っていても、ボクの身体は防衛本能を働かせて縮こまる。


 本間は拳を握り、殴るぞ、と細かいフェイントを何度もかける。その度にボク自身はビビらないが、ボクの身体はビクついてしまう。そんなボクを笑う。笑う。悪魔は笑う。声だけ聞けば、それはそれはとても愉しそうだが実際は違う。コイツラの醜くて醜悪な笑みは、ボクの心の皮膚を熔かす。


 飛んでくる拳や蹴りは基本的には避けない。避けたら余計にムキになって手数が倍増するからだ。本間のボディブロウに、ボクは膝を付きうずくまる。ザコ共の踏んだり蹴ったりが開始。頭を踏みつけられ床に貼り付く頰が冷んやりして気持ちいい。


 ボクは腹を押さえながら亀のように身を固めサッカーボールになりきる。痛たい! 顔を殴られなくなっただけまだマシだ。クソ! 滝沢先生のお陰です。ありがとうございます。殺せ……。


 パン! スパン! パンッ! いい音が鳴る。発信源はボクの尻と太腿らへん。誰だ爪先を立ててトーキックするヤツは? それやめろ、ホントに痛い。死ね。


「次は餅搗き大会だ!」誰かが言って、その場で跳び上がりボクの背中へダイブ。それがローテーションで行われる。息が止まる。何度も止まる。この連続フットスタンプはいつ終わるんだ。やっと終わった。と思ったら、手摺からのジャンピングフットスタンプが待っていた。ボクはより一層身体を硬めて迎え撃ったが、的をはずしたらしく、飛んできたヤツはボクの脇腹を掠め尻を打ち付けた。


「痛えな! テメエ! 動いてんじゃねえよ! ふざけんなよ!」


 無様なソイツは何故かボクのせいにして逆上して、何度もボクの頭を踏み潰した。……ああ、頭がくらくらして気持ちよくなってきた……。


「おい、顔はやめろって言ってんだろ」本間の声に一瞬静まり返るや否や。


「ヒールホールドって技、試したかったんだよね」


 関節技に移行。簡単なのは腕ひしぎや、足四の字固め。単純な技程痛い。折れそうになる。足四の字固めは膝よりも足首が痛かったりする。


 踵を決められる。覚えたての技はあまり痛くないことがあるが、ボクはオーバーに痛がる。痛がらなければ、これでもかと絞り上げてくるからだ。ああ、殺したい。


「もう行こーぜ!」本間の号令で今日の集会が終了する。


 取り残されたボクはペチャンコに踏み潰された空き缶のようだ。アルミ缶は一度潰されたら元に戻れない。でもリサイクルされ生まれ変われる。ボクはそうはいかない。潰れたまま生きてるんだ。


 次の予鈴までは安息の時間だ。上がった息が徐々に治まっていく。それに反比例してボクの感情は荒々しく高ぶっていった。


「くそ……どうして、ここまでできるんだ。殴られると痛いんだよ。蹴られると痛いんだよ。オマエラは殴られたり、蹴られたりしたことはないのか? 殴る時、蹴る時、その心は痛まないのか? きっとオマエラの心は紙屑のようなもんなんだよ。まさにゴキブリ以下の心だ。オマエラの心には、生命もない、温度もない、痛覚もない、慈悲もない……ないないない、何もないんだ……」


 ぼそぼそとボクの口から溢れ出る。軋む躯を無理矢理立ち上がらせ階段を下ると誰かがボクの視界を横切った。……田口だ。ボクの前の席で、ボクの机に毎日落書きをして、集会の時は見張り役をかって出ている本間の腰ぎんちゃく。その田口が辺りを見回しながら小走りで過ぎ去っていく。もう予鈴が鳴る頃だっていうのに、田口は何処に行くのだろう。ボクは吸い寄せられるように後を追った。田口は教室のある三階から一階まで駆け降りていく。一年生の教室を次々と横切っていく。人を捜している様子はなく人気のない体育館に駆け込んだ。絶対に何かあると思ったボクは、ケータイのカメラを起動させた。ボクの身体の痛みはアドレナリン放出によって消し飛んだ。


 田口、オマエは何をする気なんだ。さあ、ボクの準備は万端だ。もう一度ケータイを見て録画モードであることを確認する。本間のパシリの田口の怪奇行動。もしかしたら本間の弱みを握れるかもしれない。


 タイミングをずらしてボクも体育館に忍びこむ。昼休みの体育館の使用は禁止されているので誰もいない。どうやら体育倉庫にもコート上にも用はないようだ。ロッカールームもあるが、普段は鍵が掛かっていて入れないはずだ。となると……トイレか。大便でもしにきたのか? まあ、確かに教室から近いトイレで大便をするのは勇気がいるというか気がひける。田口の脱糞シーンを盗撮なんて……吐き気がする。ボクの興奮が一気に冷めていく。消沈してケータイを閉じようした矢先、田口の思いもよらぬ行動にボクは目を疑った。興奮が再び加速する。ボクはすでに足音を起てないように走っていた。

  

 田口は確かにトイレに入った。だがブルーのドアではなく、ピンクのドアを開けて入った。つまり女子トイレに田口は入ったのだ。


 どういうことなんだ? 盗撮カメラでも仕掛けているのだろうか。もしそうだとしたらスクープだ。動かぬ証拠を記録してやる。


 ケータイ画面をピンク色のドアに向けて録画をスタートし、そっとドアを開けた。すると田口が鍵を閉めずに個室の中でしゃがんでいた。それは異様な光景だった。まるで何もない海の真ん中で黒煙が立ち上っているように。


 そっとドアを閉め、フォーカスを田口に合わせる。田口はボクの存在に気付いていない。そっと田口の背後に回り込む。


 獣のような荒々しい、いや違う、禍禍しい、というのだろうか。この狭い空間を歪ませる程の深い呼吸。これを聴き続けていたらボクは発狂してしまうだろう。息を殺し田口の背後からゆっくりと覗き込むと、その光景があまりにも衝撃的で、吐き気が込み上げた。


何してるんだコイツ……。思わず落としそうになるケータイを握り直し田口の行為にピントを合わせる。そして、もう一度思う。何してるんだコイツ……。気色悪い……。どれくらいこうしてればいいのだろう。何のためにこうしているのだろう。気が変になりそうになり、膝の力が抜けて、天井を見上げた。


 田口はのけ反り声を上げてボクに驚いていた。それと同時にボクは我に帰る。吐き気を堪えながら、ケータイの画面の中であわてふためく田口に訊いた。


「こんな所で何をしてるんだ?」


 田口は目を泳がせ手に持っていた物を床に捨てて言った。床には閉じていであろう使用済みナプキンが開かれていた。母さんと暮らしているが、こんな物を見るのは初めてだ。こんな悍ましい物の臭いを嗅ぐなんて。


「……ト、トイレ……掃除だ……」


「昼休みに体育館の女子トイレの掃除? 鼻に何かついてるぞ」


 慌てて鼻を擦った田口のシャツの袖に赤黒い染みができていた。彼はそれ見ると慌てて腕を後ろに回した。


「動画撮ったから」


 ボクがそう言うと、田口から血の気が引いていくのがわかった。


 田口の唾を飲み込む音が静寂の中に鳴り、どうして……? と力無く漏らした。


「逆にボクが訊きたいくらいさ。どうしてそんな悪趣味なことをするんだ?」


 田口の息遣いは徐々に荒くなり、上擦った声で言った。


「受験とか、いろいろストレスとかあって……」


「ふんっ。ストレスねぇ。オマエラ、ボクを使ってストレス解消してるんじゃないのか? ボクのストレスはどうやって解消すればいいのか教えてくれないか?」

 

「そんなことより、撮ったヤツ、どうするんだよ!」


 ケータイを指差す田口の眼にはボクは映っていなかった。


「そんなことって何だよ! 質問に答えろよ! 変態!」


 声を荒げたボクに田口は飛びかかってきた。身体の大きさはほとんど変わらないが物凄い力でボクのケータイを奪おうとしてくる。だけど、奪われてなるものか。震え怯え歪むオマエの心の輪郭がな。


 この変態動画があれば、いつでもオマエの心をグチュグチュに握り潰すことができる。腐ったトマトのようにな。

 

「オイ! 田口! 離せ!」


 田口にボクの声は届いていない。暴走は止まらない。ボクはもみくちゃになりながら右ポケットに手を入れた。迷ってる暇はない。


 次の瞬間、田口のあげた奇声が女子トイレを突き破り体育館まで響き渡った。 ……刺した。刺さった。確かに刺さった。太腿を押さえてうずくまっている田口が何よりもの証拠だ。全身の毛が逆立ち、心臓が16ビートを刻む。


右ポケットから彫刻刀を引き抜き赤く濡れた刃先に視点を合わせると、また奇声が上がった。田口は尻をトイレの床に擦り付けながら後ずさっていた。それと同時にボクが寄り目になっていた事に気付く。田口は右手を突き出し、目に涙を浮かべ何か言っている。きっと謝っているのだろう。でも聴こえないんだ。心臓の音が煩くて聴こえないんだよ。 ああ……人肉って以外と硬いんだね。肉に刺さった瞬間、キュッとしまるんだあ……。


「なあ、田口いいいい、もう一回刺していいかい?」田口に歩みよる。田口の情けない声がボクを妙な気分にさせる。次はもっと深く強く刺せ。


「刺し殺せ……刺し殺せ……」心の声が口から漏れる。


 やめてくれ! と言っているのだろうか。田口の声はボクの鼓膜に届いていない。だけど田口が発する怯えのようなモノが、暑さや寒さを感じ取るのと同じように、ボクの全身がそれを無意識に認識していた。


「煩いよ」


気持ち良いよ、という思いでそう言って、田口の髪の毛を鷲掴みにして硬直する田口を強引に立ち上がらせた。まだ田口の叫ぶ声がボクの皮膚に伝わっている。


「煩いよ」


今度は本当に煩く思って田口の腹部に膝蹴り入れた。すると田口の嗚咽がボクの鼓膜を震わせ、田口の吐き出した吐瀉物がボクの鼻孔を激しく突いた。慌てて吐瀉物を避けると、ボクは震えていることに気がついた。だがそれは恐怖ではなく、全身が、いや、髪の先から足の小指の爪の先まで熱をもち、放出する先を見つけられずに身体中を暴れまわっているのが原因だ。


 ボクの鼓膜を震わす異様な吐息は、嗚咽する田口のではないとするとボクの吐息なのだと認識させた。ボクはきっと感動している。そして興奮しているのだろう。彫刻刀を逆手に持ち替えて、赤く濡れたは彫刻の刃先を見つめ見ると、ボクの中で何か飛び散った。


「刺し殺せええええ!」


 田口の頭目掛けて彫刻刀を振り下ろすと、涙目の田口は奇声と共にボクの腕を両手で掴んだ。


「離せええええ! 刺し殺せええええ!」


「いやだああああ! 助けてええええ!」


火事場の馬鹿力というやつだろうか。田口の抵抗に振り回され、ボクは吐瀉物に足を滑らせ転倒してしまった。田口はボクに馬乗りになり彫刻刀を握るボクの右腕を離さない。ボクも力の限り暴れると田口は呻き声を上げ動きを止めた。覆い被さる田口を押しのけ慌てて立ち上がった。田口は股間を押さえうずくまっていた。どうやらボクの膝が急所にはいってしまったらしい。


 ボクは吐瀉物がついた靴裏を田口の横面に擦り付けた。田口は嫌がるそぶりを見せず、ただただ股間の痛みに悶絶していた。無抵抗なその姿にボクは冷静さ徐々に取り戻し、彫刻刀をポケットに戻した。そして、刺し殺さなくてよかったと思った。今朝、本間を刺し殺そうとしたことを思い出したのだ。本間をこの世に残して捕まってしまうわけにいかない。


「おい、田口」


 田口は呻き声を強めた。


「黙れよ。もう刺す気はないからさ」


 ボクは両手広げて見せ、ケータイをゆっくり取り出し操作した。


「いいか、よく聞けよ。オマエの変態動画はボクのパソコンに送信した。オマエがこのケータイを奪っても意味がない。もう動画はボクから奪いかえせないんだ。解るよな?」


 田口は震えながら頷いた。


「だからキミはボクの言いなりになるしかないんだよ」


「……何をさせる気だよ」


「安心しろ、簡単なことだ。本間のことを調べるんだ。事細かにな」


「えっ! ……それだけ」


「ああ、たったそれだけでいい。だけど忘れるな。事細かに些細なことも全部だ。ボクの言うことに従っていれば、いずれ動画は消去してやる」


「わかった」


「キミは明日からもボクの机に落書きをしろ。集会の見張りもしろ。本間の命令があったなら実行しろ。給食にイタズラを先導してるのはキミだろ? それも今まで通りやるんだ」


「……でも」田口はバツ悪そうにボクを伺う。


「いいんだ。ボクとキミが繋がっていることを本間に知られたくはない。もし、それがバレたらキミもいじめられるぞ。それが嫌だからキミは本間の機嫌をとっているんだろ?」


 田口は顔をしかめながら頷いた。


「もうチャイムが鳴る。キミは保健室へ行け。金網によじ登って遊んでたら、飛び出ていた針金が刺さってしまったとでも言え。間違ってもボクに刺されたなんて言うなよ。その時はどうなるかわかってるよな?」


「わかってるよ」田口はもううんざりだといった表情で頷いた。そして田口とアドレスを交換して、ボクは教室に戻った。


 ボクは授業中に、こっそりメールを打った。田口というトモダチに。


『さっきはすまなかったね。ケガの具合はどうだい? たいしたケガじゃないことを祈ってるよ。


 ひとつ忠告しておきたいことがあるんだ。本間に頼んで動画を回収しようとしても無駄だぞ。ボクは暴力に屈しない。何故ならボクは暴力に勝る恐怖を知ったからだ。ボクを止めたいのならボクを殺せ。でもボクは殺される前に殺すけどな。


 でも安心しろ。さっきも言った通り、ボクの言うことを聞いてさえいれば、キミに危害を加えるつもりはない。ボクたちはトモダチなのだから』


 変態動画も添付して送信してやった。ボクは机に顔を伏せて必死に笑いを堪える。除光液の残り香がある。それと同時に滝沢先生の匂いを思い出し、頭が少しクラクラして気持ちよくなっていった。

 








 

 


 


 


 


 


  


 


 


 


 



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