自分を殺す前にすべきこと

大堀晴信

生と死と自殺

 

 エレベーターは使わずに階段で最上階の14階までたどり着いた。少しふくらはぎが張っている。手摺りも格子も何もない欄干に手をかけ、ボクは身を乗り出し下を覗き込んだ。


 下界にある全てが小さく見えるのはボクが高い場所にいるからではなく、ボクが小さくてちっぽけなわけでもない。視線を遠くに移すと果てしなく夜景は続いていて、それを終わりのない闇が覆っている。地球はこんなにも広いのにボクはこんなにも狭い世界で、もがき苦しんでいる。まるでボクはビニール袋の中に閉じ込められた羽虫のようだ。


 苦しいのなら呼吸することを望むのが普通だ。苦しみから逃れたいと思うのは当たり前で自然なこと。ボクが身を乗り出したまま欄干に足をかけたその時だった。


 チンッ! という甲高い金属音が鳴り、ボクの心臓がビクンと跳ねた。

 

 背後に男が立っていた。煙草に火を着け、慣れた手つきでジッポライターをカチンと閉じ、煙草を吸い込んだ時にボクと目が合った。


 男は驚くわけでもなくボクを見て、取り込み中か? JKのケツだったらよかったのになあ、と煙草の煙に目を細め遠くを見て言った。


 ボクは欄干を乗り越えようと足をかけていたので、男に尻を向けている状態だった。


 ボクは木の上で寝そべっている猿科の動物のようで情けないと思ったが、男があまりにもボクに無関心なので、どうしていいのかわからなかった。しばらくの間、男が煙草を吸いこみ吐き出す音しか聴こえない。


「ところで、お前、何してんの?」相変わらず遠くを見ながら男は言った。


「え、いや……」ボクは言葉に詰まった。

  

 男はそんなボクの目を見て、くわえていた煙草を中指でピンと弾いた。回転しながら火の粉を散らし落ちていく。滞空時間は以外と長かった。そしてパッとオレンジ色が遥か遠くの地上で飛び散った。すると男はボクを見て低いトーンで言った。


「次はお前の番だね」


 そう言われたボクの掌には汗が滲んで、しっかり掴まっていないと滑ってバランスを崩してしまいそうだった。でもボクはあの煙草のようになるために、壁に脚をかけているのだ。力いっぱいしがみつく必要などないはずだ。手の力を抜き、壁の向こう側へ身を転がせばいい。ただそれだけでいい。それだけでいいはずなのに……。

 

 ボクは苦しいんだ。息をしたいだけなんだ。今も苦しいんだ。……いや、さっきよりも息苦しい。


 男はじっとボクのことを見ていた。薄っすら笑っているように見える。ボクを試しているんだ。きっとそうだ。男はボクが死ねないと踏んでいるんだ。


 やってやる。ボクはできる。絶対できる。呼吸をしにいくだけ。簡単なことだ。


「ボクを笑うなあああああ!」


 ボクは目を閉じて身体の重心を壁の向こう側へ振ると身体はフッと軽くなり重力を失った。だが、あっという間に地面に到達して顔面に激痛が走った。ボクはうめき声を上げのたうちまわった。顔を押さえていた掌が血に染まっている。


「うわ、めっちゃ鼻血出てんじゃん」男がボクの顔を覗きこんで言った。「いやあ、まさかよお、本当に飛び降りるとは思わなくてよ。引き戻しただけのつもりだったけど、力んじまってブン投げちまったみたいだな」


 鼻と頬骨が痛すぎて、男の言葉は意識の向こう側で鳴っているようだった。


 この痛みは生きているからこその痛み。あの高さなら即死のはずだ。ボクは今、確実に死んでいない……。鼻がつうんとして、涙が止まらなかった。


 涙を拭うと男の姿がぼんやりと見えてきた。また煙草を吸っている。僕がこんなにも痛がっているのに、悠長に煙草を吸っている。非常に腹が立ってボクは声を荒げた。


「痛いなあああ!」


「おう、痛そうだな」男は小馬鹿にした感じで言い捨てた。ボクは押し黙って男を睨みつけたが、煙草を旨そうに吸いながら男は、スウェットのポケットに手を入れた。


「飲めよ」男は缶コーヒーを僕に放り投げた。


「ボク、コーヒー飲めません」


「じゃあ、返して」


「いやです」


 ボクは何故か反抗して缶コーヒーを開けて口の中に傾けた。口の中で鼻血とブラックコーヒーが混ざり、ボクの口の中はどんな色になっているのだろうと思った。そういう不味さだった。


「なんで死ぬの?」男は飯喰った? と訊くような感じでボクに訊ねた。


「苦しかったから」


「やっぱイジメとか?」男はさっきと同じように訊ねた。


「まあ……そんなとこです」


「遺書とか書いたの?」


「いえ」


「えっ、じゃあ、お前ただ死ぬだけかよ!」男は目を丸くして言った。


 この男は何を言っているのだろう。死ぬということに対して『ただ死ぬだけ』とはどういうことなのだろうか。


「どうせ死ぬなら、いじめてた奴ら殺してから死ねばいいじゃん」


 そういうことかとボクは思った。そんなことはわかっている。それができるなら、ボクという人間は今、マンションの14階にはいない。


 この男は何もわかっちゃいない。いじめられている人間の気持ちなんて、これっぽっちも理解していない。そんなことできるなら、とっくにやってるよ。簡単に言いやがって。


「アナタに何がわかるんですか!」ボクはムキになって声を張り上げていた。


 すると男の雰囲気は一瞬で変わり、眉間に皺を寄せ片方の眉毛だけをつり上げた。表情筋をフル活用して不快感を表現しているようだ。それを見たボクの身体に寒気が走ったが、恐れ戦きながらも男をじっと見続けた。


 歳は十四歳のボクより確実に上だが、二十歳と言われればそう見えるし、三十歳と言われても、そう見えなくもない。


 艶のない髪は少し長めでアッシュ系に染めている。浅黒い肌で、よく見ると小さな玉状の鼻ピアスをしている。顎に短い髭をはやし、目は一重の切れ長で目尻の鋭さは鎌を連想させた。


「なんだ、オマエ?」男は低い声で言って、ボクに顔を近づけてくる。殴られるのだろうか。怖くて堪らなくてギュッと目を瞑った。


「恐えのか? おい、恐えのかよ! ああ!」


 男の怒鳴り声は反響して、ボクのまわりの空気がビビビッと震えた。


「どうなんだ!」男はもう一度声を荒げた。


「……こっ、ここ、恐いです」


 すると男は足早に迫り、やせ細ったボクの身体を腰から担ぎ上げた。そして、そのまま壁の向こう側に身を乗り出した。当然ボクの身体も壁の向こう側だ。


 男が手を離せば真っ逆さまに墜落する。ボクの目に飛び込んでくる景色は、さっき壁に手をかけて覗いていたのとは、全くの別世界だった。宙に投げ捨てられてしまうのではないかという絶望に似た圧倒的恐怖。


 頭蓋骨が卵の殻のように割れ、ピンク色の白子のような脳みそが弾け飛び、ゼリーのような眼球が飛び出し、昆虫のように手足があり得ない方へ折れ曲がり、臓物は辺りに飛び散り、折れた骨は皮膚を突き破るのだろうか。


 ついさっきまで『死』はボクの味方だったはずだ。ボクに安息を与えてくれる唯一の『死』という希望が、どす黒く血生臭い赤色に塗り潰されていく。


 ボクはさっきまで、息苦しくて、呼吸をしたくて、壁の向こう側へいこうとしていたのに、数分前まで望んでいた『死』を、髪の先から爪先まで、いうなればボクの体内にある臓器や、70パーセントを占める水分までが拒絶している。


 声は出なかった。頭の中で叫べ叫べ叫べ叫べと赤い信号が物凄い速さで点滅している。それも痛いくらいのレーザービームのような強い光で。でも声は出ないのだ。口を開け喉を開き腹に力を込めても0.000000001ミリも声は前に出ない。


 身体は硬かったが、動かしてみると微かに動く。ボクの身体が急速に解凍されていく。担がれた状態で高所にいるボクには最適で効果的な動作は思い浮かばない。


 結局、手足をバタつかせる始末。死という海にボクは溺れかけ、必死にもがき続ける。そしてボクは暴れた拍子に後ろ側の壁を蹴飛ばしてしまった。


 プールに飛び込むように、ボクの身体は勢いよく真っ黒な夜空に飛び出した。嫌だ。死ぬ。死んでしまう。悟った瞬間、背中と腰に強い衝撃が走り、一瞬、呼吸ができなくなった。痛すぎて死んだと思ったが、かろうじてボクの爪先が男の肩にひっ掛ったらしい。そして男がボクの足首を掴んで引き戻したのだ。


 声にならない声を上げながら、ぼやけた視界の中で男を探すと、男はボクを見下ろしていた。……くそっ、くそっ! 無性に悔しかった。死ねなかったことに? 助けられたことに? そんなボクの心を覗き見るように男はボクに顔を近づけて笑った。正気を取り戻したと同時にハッとなる。


「どうだよ、ションベン漏らした気分は?」


 股間が生温かかった。尻の方までぐっしょりと濡れている。恥ずかしくて情けなかった。それと同時に安堵していたボクはかろうじて答えた。怖かった、と。


「俺が恐かったのか? それとも死ぬのが恐かったのか?」


「どちらかわからないけど、失禁したのは初めてです」


「どうだ、まだ死にたいと思うか?」という男の質問に、わからないです、と答えると、まあ、いいか、という感じで男は口端を吊り上げてほくそ笑んだ。


「お前、童貞だろ?」と訊かれ、ボクが頷くと、「じゃあ、キスもしてねえんだろ?」と男が訊くので、ボクはまた頷いた。


「お前、ヤらないで死ぬつもりだったのかよ!」と男は笑った。「悪いことは言わねえから、死ぬ前にやりたいことやってから死ねよ。お前くらいの歳なら、一番の盛り時だろ? 死ぬならオンナと一発ヤってから死ねよ!」


「でも、ボクは毎日いじめられてて、そんな気にはなかなかなれないです」


「ああ、そう」とつまらなそうに言った男は、ボクのことをつれない奴だと思ったに違いない。


 男はジッポを甲高く響かせ新しい煙草に火を着けた。

  

「じゃあよお」と男は語気を強め、煙を吐き出しながら言った。「殺せよ。みんな殺しちまえよ!」男は不気味に笑う。「俺がオマエなら、全員刺殺した後、学校で一番いい女を犯して、中出ししながら自分の首を掻っ切ってやるな」そう言ってベロっと唇を舐めた。「いいか、この世にある欲望を全て喰らい尽くせ。我慢なんてしなくていい。自分を解放しろ。お前は何故生まれてきたんだ。いじめられるためか? ……違うだろ。思いのまま動け。衝動に駆られろ。欲望のまま貪れ。最期に自分の欲求を満たしてから……それから死んでも遅くはねえだろうが」


 なんだかよくかわからないが、全身の穴という穴へ、男の吐き出した言葉がじわじわと染み込んでくるようだった。耳で聞いているというよりも、全身の皮膚で吸収していくような妙な感覚だ。


 そしてボクはゾウやサイやカバのような重厚で分厚い皮膚で、頭から爪先まですっぽり覆われたような安心感に似た強さを手に入れた気がした。


 男の顔がボクの目の前まで迫っていた。鎌のような眼がボクを捕らえ続けていて、視線を外すことができない。


「わかったか」と男は訊ね、「はい」と答えたボクは従順だった。


「俺はこの時間にいつも缶コーヒー持って一服しに来る。オマエが俺を必要とするなら、いつでも来い。最高の結末へ導いてやるよ」


 そう言った鎌の眼は鋭く鈍く光っていて、ボクの眼の奥が熱くなっていく。きっと無意識に男のギラついた眼を真似ているに違いない。ボクは鎌の眼を見て深く頷いた。

 

「よし!」と男は不気味に笑った。「俺の名前はコウヤだ。お前は?」


「河内です」


「コーチ?」


「コ、ウ、チ、です」


「コウチでも、コーチでも大して変らねえだろ。またな、コーチ」


「あ、はい」


 男は短くなった煙草を星のない空に弾いて階段を降りていった。ボクはその煙草の行方を追うことはなかった。ボクは視えない何かで武装された。


 階段を駆け下り「河内」の表札がある204号室に戻り、小便で濡れて重くなったスウェットを洗濯機に投げ入れ、シャワーで鼻血とアンモニア臭を洗い流し、丸裸のまま、キッチンの流し台の下の扉を開けた。包丁が四本ある。なるべく先の尖ったもの手に取り、その先端に人差し指の腹を押し当てるが血は出なかった。刺さるのだろうか。『刺し殺す』になるような現実味がない。


 それに、包丁が無くなっていることに、母さんが気づいたらどうなるだろうか。ボクは包丁を元に戻し自分の部屋に戻った。


 ハサミ、カッター……これらは刺すというよりも切る道具だ。そういえば、とボクは思った。勉強机の一番下の引き出しをほじくり返すと、それはあった。


 小学生の頃、図工の時間に使った彫刻刀セットだ。6本ある中でアイスピックのような形状のものがあった。それを抜き取り、尖端を人差し指の腹に当てると、いとも簡単に皮を突き破り血が滲んだ。


 紅い雫をのせた人差し指をしゃぶると、生臭くない鉄の味。さっき飲んだコーヒーより少しだけうまかった。


 そしてボクはベッドの上の枕に彫刻刀を振り下ろした。サクッ、ボスッという感覚が気持ちがよくて、何度もそれを繰り返して、枕が穴だらけになり、母さんになんて言い訳しようかと考えていると睡魔に襲われ、血の出ていない枕で深い眠りに落ちていった。

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