【小説】歌姫

紀瀬川 沙

本文

 二〇〇四年、東京の秋深まった頃の土曜日である。街頭に燃え立つような紅葉は、色彩の美しさを保ったまま風に吹かれ散り始めている。東京文化会館小ホールは開演三〇分前からすでに大勢の客が入っていた。歌手としての技量、気力ともに充実の盛りにある彼女のコンサートに、六〇〇人あまりの人々が詰めかけて、開演を今か今かと待っているのだった。

 それらの観客のなかには彼女がまだうら若きアイドルだった時代からの古株ファンもいれば、ミュージカル『ミス・サイゴン』、あるいは『レ・ミゼラブル』を見てファンとなった人たち、そして直近の彼女の取り組みであるクラシックを日本語で歌う活動でファンとなった人たちもいた。そのすべてが彼女にとっては等しく大切なファンであり支えだった。芸能人と呼ばれる人であればそれは当然の思いであるのかもしれなかったが、演技のうまい人がいるなかで、彼女の場合はまことの本心からであることが誰の目にも明らかだった。

 だが、このように外の人気、内の実力の双方が備わっている彼女であったが、このコンサート当日にいたるまでおよそ二週間近く風邪のような症状に悩まされていた。絶え間ない頭の鈍痛と気だるさは持ち前の我慢強さで隠せたが、所かまわず襲ってくる咳には困り果てていた。尾を引く咳が歌手にとって肝要な声と呼吸に与える影響は計り知れないものがあった。

「あら、今の咳、大丈夫?」

 開演前の楽屋で、所属会社の女性社員が心配そうに尋ねた。

「ええ、大丈夫。ちょっとお茶にむせて。ごめんなさい」

 すでに美しい化粧を施し、燦めく緋色のロングドレスをまとって準備を整えていた彼女は、いつもの明るい表情で答えた。尋ねた女性社員はこの返答と明るい顔を見て、心配は要らないだろうと思い、軽くうなずいてすぐにまた諸々の作業に戻った。社員の姿が楽屋の扉口から見えなくなると、彼女は再び一つ咳をして、喉の調子を確認するように小さい声を出した。そして頭痛と気だるさを振り払おうとして、首を大きく傾けながら幾度か揉んだ。

 常日頃から万全の状態で歌に取り組むことを心がけていた彼女にとっては、風邪をひくこと、しかもコンサート当日まで長引かせてしまうことなど、言語道断のことのように思えた。それゆえ彼女は周囲のスタッフには体調のことを言わずに、このコンサートが終わったら改めて病院へ行き処方箋を貰おうと考えた。

 彼女は体の調子への不安を払拭しようとポータブルオーディオプレイヤーのイヤホンを耳に当てた。コンサートが始まる直前に緊張を和らげ集中するために聴く、越路吹雪の『愛の讃歌』が耳元に優しく響いてきた。まるで手本を丁寧に教えるように、彼女の耳元すぐ近くで歌ってくれているようだった。

 そのうちに楽屋の外からイヤホン越しに、

「開演です。よろしくお願いします」との誰かの声が聞こえ、彼女は決意とともに越路吹雪にいっときの別れを告げた。自らの楽屋に向かってくる誰かの足音が聞こえた。おそらくアイドル時代から一緒に頑張ってきたマネージャーだろうと思われた。体調を除けば、いつものコンサートの始まりと同じだった。

「はあい、わかりました。お願いします」

 返事をした彼女は、苦しい顔から、明るい、歌い手として聴き手と向かい合う時の真剣な顔つきとなっていた。

 まだ幕の下ろされたままのステージには、伴奏者、コーラス、バックステージスタッフなど関係者が集合していた。幕の向こうの客席の音が聞こえる。彼女は改めて緊張と歓喜を覚えた。自然と彼女を中心とする円ができあがった。彼女はまだ込み上げてくる咳を強い決意で抑えた。そして微笑みながら、

「全部お客様のため。全身全霊で演奏し歌いましょう。そうすればきっと、私たちも楽しめる。さあ、頑張りましょう」と確かな声で言った。周囲はみな賛同し、それぞれの配置に戻った。

 彼女はステージの中央に立ち、まだ開かぬ幕と向かい合った。やはり今回も決まって幕の向こうにいる人達に早く会いたくなった。ついに幕が開いた。待ち望んでいた観客は割れんばかりの喝采を送った。スポットライトは強く彼女を照らし出していた。彼女は微笑みながら客席へと深々と一礼した。その姿は感謝に溢れるものだった。

 伴奏者、コーラスは後ろにいるが、主役は彼女一人きりである。孤独で大変なことでありいつも緊張に押し潰されそうになるが、同時に彼女は歌を歌えることへの喜びのほうを大きく噛みしめていた。一曲目はミュージカル『マイ・フェア・レディ』から『踊り明かそう』が予定されている。か細い体のこともあってか、彼女がオープニングの挨拶や口上をのべるあいだ客席からは舞台の上の彼女がいっそう小さく見えたかもしれない。だが彼女の凛として可憐な立ち姿、明るい喋り、そして何よりも歌い出した時の美声により、客席は一気に彼女の歌へと引き込まれていった。

 一曲目が終わり、何度場数を踏んでも感じる緊張が徐々にほどけてきた。それに連れて彼女のパフォーマンスも軽快に進んでいった。

 そこから現在発売中のアルバムのなかより数曲を披露し、アイドル時代の大ヒット曲も恥じらいながら、だがしっかりと心を込めて歌いあげて、コンサートの第一部は終わり幕間となった。

 ステージから引き返す時、舞台袖で彼女は少しよろめいた。幸いにもこれは舞台袖の暗さのおかげで周囲に見られることはなかったけれども、体調は芳しくないようで、いつもなら体力的にはまだ平気な今のうちからすでに疲労が感ぜられていた。もちろん彼女がそれをこぼすはずもなかった。そのままメイクと衣装を直しに小部屋へと向かった。メイク室では、担当の女性スタッフからアイドル時代の曲について聞かれた。

「あの曲、久しぶりにお歌いになって、どうでしたか?懐かしい?」

 メイクのために顔を撫でる毛先に心地よさを感じながら彼女は、

「やっぱり今になると少し恥ずかしいわ。けど、私にとってもお客さんにとっても、かけがえのないものよ」と言った。

 彼女の真心の言葉を耳にしてスタッフは、

「本当にそうですね。私も思い出すことが色々ありました。ありがとうございます」と感激しながら言った。などなど喋っているうちにメイク直しが完了した。

 お礼を言ってから休む間もなく彼女は衣装を替えにまた別の部屋へと向かっていった。

「ちょっと疲れましたか?」

 純白の衣装を彼女に合わせていた女性が、たった今メイクを直してきたはずの彼女を見て聞いた。彼女は少し驚いてしまった。

「いいえ、平気平気。けど、どうして?」

「いや、なんか今呼吸が荒かったものですから。大丈夫ならよかったです」

「ありがとう」

 ちょうど衣装の準備も終わったので、彼女はそのスタッフに明るく答えて元気いっぱいであることを示すようなジェスチャーをした。これで頭の鈍痛と気だるさも幾分かよくなったような気がした。しかし、この時また突然に咳が上がってきたので、彼女はテーブルに置いておいたお茶を急いで飲んで誤魔化した。コンサートの第二部の始まる時間が近づいていた。メイク直しや衣装替えでほとんど休息はなかった。

 第二部はミュージカル『ミス・サイゴン』より『命をあげよう』から始まった。彼女は例によって明るく話し、懸命に歌い、美しく舞った。決して観客に自分の体調を隠し偽ろうとしているわけではない。ステージの上では自然と今のような動き、気持ちがとめどなく出てきた。舞台裏ではスタッフに心配された荒い呼吸も、一見して伺い知れないものとなっていた。彼女自身もこのいっときは、頭の鈍痛と気だるさ、それまでは時と場所を選ばなかった咳をも忘れていた。

 第二部の一曲目が終わると第一部と同じくらい、いやそれを上回るほどの喝采が再び巻き起こった。これに後押しされるように、彼女はさらに二曲目へと挑んでいった。おそらく他には誰も真似することのできない、渺々とした大空をどこまでも飛んでゆくようなロングトーンの高音で『つばさ』を歌い上げた。次いでオペラ『トゥーランドット』より『誰も寝てはならぬ』へ移った。急な強い照明で、ステージから見ると客席が輪郭のぼやけた黒いかたまりのように見えていたが、彼女には目が慣れてくるのを待つまでもなく、研ぎ澄まされた感覚で客席全体を手に取るように把握していた。客席一席一席、観客一人一人に届くようにと、彼女は精一杯歌った。

 しかし、感情や神経の面では凛々としている舞台上の彼女も、プログラムが進行してゆくに連れて体力の甚だしい消耗は認めざるを得なかった。そんな彼女に対し、プログラムの進行に沿って一曲一曲があたかも彼女の歌に対する思いを試練するかのように、全身全霊をそそぐことを求め続けた。その歌唱もまたそれに何ら不足するところはなかった。次いで張り詰めた荘厳さのなかで『アメイジング・グレイス』を歌う彼女は、誰の目から見ても、確かに歌に愛されていた。

 自分の歌に聴き入ってくれる観客に真剣に応えようと、全力を注ぎ歌い続ける彼女は、プログラムの最終曲『Time To Say Goodbye』を堂々と歌い上げる頃には、本来なら立っているのもやっとという状態だった。

 深々と礼をし、拍手喝采とともに舞台袖へ戻ってきた彼女は疲れ切っていた。その様子に周囲もようやく事態の常ならざることを悟った。ストレートの長い髪が汗で頬や首筋にくっつき、肩で息をしていた。彼女の様子のうちで唯一いつものコンサート後と変わらないのは、達成感と感謝に充ちた目の奥の輝きだけだった。

 その時、舞台上から主役が去りしあとの、本来ならすでにざわついていてもおかしくない客席から、アンコールの拍手が聞こえてきた。十分予想されたことではあったが、周囲の関係者はみな彼女の様子からこれに応えることは不可能なのではないかと感じていた。しかし、まるでお伽の国の物語の出来事かと思えるほど見る見るうちに、このアンコールが彼女の全身の力をよみがえらせていった。彼女は周囲にいつもの明るい笑顔を見せて、

「皆さんが私を待ってくださっているわ。お願い、行かせて」と言った。

 止められる者はいなかった。彼女は周囲に「ありがとう」と言ってステージのほうへと向き直った。

 鳴り止まぬアンコールに応えて、彼女は両手を広げ満面の笑みを浮かべながらステージへと歩み出た。体調は依然すぐれないにもかかわらず、ステージ上の彼女には、観客の前で歌を歌うことへの心から溢れる喜びがあった。

 彼女はまず『つばさ』を歌うことを告げた。あの長くのばす高音に挑む彼女に、バックステージの関係者はおろか事情を知らぬ観客までもが大いに驚いた。しかし、驚愕は即座に称賛へと変わった。彼女は見事に美しき空へと羽ばたいていった。

 続く讃美歌『アメイジング・グレイス』は一転して、原曲にある神への讃美の荘厳さが求められたが、今の彼女は難なく歌からの期待にも応えた。歌から歌へ自然で心地よいステップで渡りゆくさまは、人のなせるわざ以外に作用するものを感じさせるほどだった。

 そして、今や人跡未踏の領域にいるような彼女は、本当の最後に『ジュピター』を歌うことを感謝とともに客席に伝えた。イギリスの作曲家グスターヴ・ホルストの組曲を編曲して歌詞をつけたものだ。続けて曲の開始や全体の調子をピアノ伴奏者と目配せしていた彼女に、すぐさま客席から拍手が降りそそいだ。

 ピアノとヴァイオリンによる伴奏が始まった。彼女は自身でも意識しないうちに決まって行っている、一定の呼吸法とマイクを口元へと運ぶタイミングを、今度も守っていた。

 そしてこれは彼女一人にしか分からないものであったが、真のコンサートの終わり、つまりアンコール最終曲の伴奏のあいだに、彼女はいつものように自分の人生を振り返っていた。演歌歌手を志望していたデビュー前、アイドルと呼ばれた時代、その路線から逸れてミュージカルへの挑戦、クラシックやオペラを追究した近々、そしてまさに歌い出そうとしている今。短いあいだであるが回想するすべての時間が深く関わり合いながらまだ見ぬ未来へとつながっているのが分かる。そしてそれは自分自身だけのことではなく、周囲のすべての人も、形は違えど同じ世界に生きながら手に手を取り合って未来へと向かっている。ここまで考えて、彼女は心のどこかから湧き上がる言葉にならない愛情を感じた。

 希望と平和を高らかに歌い上げる『ジュピター』の歌詞が始まろうとしていた。彼女は静かに曲の進行に身を任せる用意をした。

 彼女が歌い出すと同時に、優しく、優れた歌声が人々の耳に届いた。曲の進行とともに密度を高める客席の静寂が彼女の歌声を追ってゆく。この上なく素晴らしいビブラートとファルセットを観客にささげ、彼女は幾オクターブにもわたる音のあいだを自由自在に上りつ下りつした。

 真の歌の終わりが迫っていた。

 ついにコンサート会場を、歌が終わり次いで拍手の巻き起こるあいだの一瞬の無音が訪れた。一瞬の無音ののちに新たに生じた音はすべて彼女を讃えるためのものだった。満身に拍手喝采を集めた彼女は、まさしく本物の歌姫であった。


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