記C6.夢追い人の三角恋愛

『私の500万ウールは返さなくてもいい』


 簡素な伝言。


 事情がわからない人狼族の少女シンターニャは心配そうな表情でサヴァのことを眺める。

 三人娘と来客であるアイゼもまた、何事かとサヴァの発言を待っている。


 〆の言葉が意味するところを、サヴァは落ち着いて考察する。


 ――出資金。

 はじめは金貨袋の横取り騒動、次に市議会での惨敗を受けての500万ウールの出資願い。


『出資金なんて希薄なつながりは無価値だ。お前がサヴァのそばにいる必然性など、どこにもない』


 アイゼンリーベに問われた時、〆は『惚れているから隣にいる』と返答した。

 〆には金銭に執着する理由が乏しい。


 しかし出資金の返済をせずともよい、というのは『金をくれる』という意味ではない。

 〆はサヴァとの“つながり”を断ち切りたい――そういう意図だと解釈するのが正しいのだろう。


 サヴァは黙考する。


 薄々と、ふたりの関係が破綻しかけていることをサヴァは知っていた。

 幽霊屋敷を手に入れた時が一番にふたりの距離は近く、密接で、文字通りに心身を重ねて“憑依”という不可思議な現象まで体験することになった。


 それは夢への距離が一番に遠くて、果てしなく遠くて、そして同じ目標を共有できていたからだ。

 夢への距離が少しずつ近づくたびに、サヴァのまわりに“仲間”が増えるたびに。


 ――ふたりの関係が終わりに向かっていく。


 何度となく、時間を作って恋人ごっこのような逢瀬を重ねたりもした。

 ふとした拍子に仕事のことを考えてしまう自分が嫌になる。〆は気づかないフリをしてくれたり、なにかに夢中になれる姿がとても気に入っていると言ってくれたりする。


 大好きな親友たちと楽しげに開業準備に勤しむサヴァの仕事姿を、〆は遠巻きに眺めていたことを知っている。罪悪感を抱きつつ、歩みを止めることができなかった。


 散々に利用して、都合よく振り回しておいて、見捨てられても当然の行いだ。


「……私には、わかりません」


 サヴァはぽろぽろと安っぽい涙を流している己を、人目もはばからずに晒した。

 才気に溢れていると自惚れた理知的思考は働かず、あれだけ雄弁に事業の展望を物語っていた口はひっくひっくと嗚咽をあげてしまって。


 親友たちはシンターニャから事情を聞き出して涙の理由を理解しようとしたり、泣きじゃくるサヴァの背中をさすって心配してくれたり、とてもあたたかに接してくれる。


(このまま皆に甘えて、泣いていたらいいのかな……)


 涙は嫌いだ。

 大っ嫌いだ。


 泣いていれば誰かがやさしくしてくれる。そんな恵まれた人生をサヴァは歩んできた。


(――ずるい)


 心底に、自分の薄汚さに嫌気が差す。


 もっと人に優しくて、くじけることなく強くて、誰に恥じることない美しい生き方をしたい。


 現実は――本当に〆のことを心の底から愛していたのかもわからないのに、捨てられてしまった自分を哀れんでほしくて、優しくしてほしくて人前で泣いてしまっている。


 この止めようのない自己嫌悪さえも自分への言い訳なのだろうか。


 ――そうやって渦巻く思考を止めたのは他ならぬアイゼの一言だった。


「泣くのが嫌なら涙を拭け」


 それがいかなる表情であったことか、涙に滲んだ視界ではわからなくて。

 サヴァは己が手で、ぐしぐしと涙を拭う。


 優しくも厳しいアイゼの凛とした顔つきは過保護な彼女らしからぬ冷淡さを帯びていた。


「泣きたい時は泣けばいい。泣くのが嫌なら泣き止めばいい」


 これまで隣の席に座っていたアイゼは「どけ」と席を開けさせてまで、あえて正面に座す。

 サヴァの呼吸が整い、落ち着くのを待ってアイゼはこう切り出してきた。


「家族会議をはじめる。学友ども、貴様らも同席しろ。意見も求める。お前自身がどうしていいかわからないというのならば、自分でわかるまで理詰めでいっしょに考える他あるまい」


 残酷なことを言ってのける。いっそ平手打ちでも浴びせてくれた方が親切だ。

 けれど――最大限にサヴァの意を汲んでくれようとしているのがわかる。


 苦手なことを喋る時、サヴァは慎重に言葉を選ぶクセがある。すらすらと言葉がでてこないもどかしさを味わいつつ、ゆっくりと、とりとめもなく口を動かす。


「わたしね、〆さまのこと、好きだった……。大好きだったの」


 言葉が軽い。羽毛のようだ。

 どうしてもふわふわとした不確かな言葉遣いになってしまう。


「姉様、〆さまの私に化けた姿を、その、もうご存知で……?」


「ある。あいつとは三度、一緒に冒険に出たからな。さすがに驚かされたぞ。本物のお前とは血を分けた姉妹程度には似ている。猫の特徴や言葉遣い、それに胸が二回りほど盛られているので見間違えるほどではなかったが」


「……恋慕の情を抱く理由。あの、見惚れてしまったというのは……許されるの、でしょうか」


 サヴァは口にしてみて、涙が乾くほどに頬が熱くなるのを自覚した。

 常日頃から浮ついた言動を控えるサヴァには恋愛感情について、それも精神的にどこが良い等ではなくて、容姿や外見といった即物的な切り口から入るのは未知の領域だった。


 各自の反応が恐ろしくて、先ほどまでとは違った意味で、逃げ出したい気持ちになる。


「あたし全然アリ! カッコいいよね! カンメくん!」


 第一声を発したのはナゴだ。他の面々が発言に二の足を踏む中、胆力が並外れている。

 ナゴは重苦しい雰囲気を脱した反動か、堰を切ったようにはしゃぐ。


「カンメくんイケてるもん! 原石のサヴァを加工したら宝石になりましたって感じ! 初夜はベッドの上であの半裸で迫られたんでしょ? あたしだったら即オチよ、金貨いっぱいくれたんでしょ? 最強じゃん」


 ナゴ達には“金貨を横取りされた”話はごまかしてある。元々〆は金貨を蓄えていることになっている上、ナゴと出逢った頃には自力で稼いでせっせと貢ぎに、もとい出資金を届けにやってくるので純粋に金持ちだと思われているらしい。


 やれやれわかっていないなと仕草で示して、ここでスズキが参戦する。


「ナゴくんナゴくん、事はそう単純ではないのだよ。サヴァは清純派こじらせてるから外見や財力に惚れる一端があったとは認めたくないわけだね」


「え、めんどくさ」


 心の傷を的確に抉る言葉の刃物。

 めんどくさい仕事は大好きでも、めんどくさい女だということをサヴァは否定したかった。


「わわ、わたしは一目惚れは良いとおもいます……きっかけはだいじ、です」


 ベニーシャは唯一、サヴァを傷つけないように擁護にまわる。

 ――ただ、なぜかサヴァの目を見ず、ちらちらとアイゼンリーベを盗み見ているのが気になる。


「妹よ、はっきり言うがお前は外見を重視する側だ。この屋敷を見れば一目瞭然だろう」


「そ、それはですね……!」


 反論しがたい。自分の美的感覚を徹底して店作りをやりたいと説明したばかりなのだから。

 これまで直視することのなかった自分の恋愛観を他人に分析されるのは、かくも地獄か。


「金貨よ! 初対面でいきなり金貨五十枚よ! あたしの給料五年分なんだよ! そんな恋人あたしが欲しいっての!」


「パートナーに経済力を求めるのは一文無しを養うよりは断然とーぜん健全だあねー」


「ええと、私達のお賃金も今はカンメさまが払ってくれてるようなものだから……」


 従業員の給料を守れ。

 何気にベニーシャが一番元も子もないことをやんわり告げているが、全体の空気を読んだ結果だろう。客観的にみて、〆という資金面の後ろ盾を失うことは全従業員の不安材料だ。


「性格も良さそうだし超優良物件なのにさー、みすみす逃す理由ある?」


「恋愛は人それぞれ、しかしサヴァにとっては優劣の問題ではないのだよナゴくん」


「サヴァちゃんが言いたいのは“好き”ってなに? ってことだとおもいますけど……」


 今度は脱線しかけた話を、ベニーシャが軌道修正してくれた。

 ナゴに翻弄された家族会議を仕切り直して、サヴァはゆっくりと言葉を選ぶ。


「一般に、人を好きになると胸が高鳴るとか、切ない気持ちになるといいます。私も、〆さまのことを意識すると……そうなることがあります。けれどそれが長続きしないんです」


 皆、それぞれに不思議そうな表情を見せる。

 やはり、なにか変なことを口走ってしまったのか、とサヴァは身を竦ませた。


「仕事に夢中になっている時、私は〆さまのことを時々忘れてしまいます。本当に愛しているとしたら、片時も離れたくないと願ったり、いつもお互いを想う――。人生の伴侶とは病めるときも健やかなるときも苦楽を共にし喜びを分かち合うものだ、と――。そう、教わったはずなのに」


 会えない時間が待ち遠しい。この二ヶ月余り、そう感じたことがない。


 〆といっしょに過ごす時間は楽しくて、嬉しくて、これが恋心なのかと思えても。


 夢に邁進する仕事の時間も優劣つけがたく楽しくて嬉しい。そこに〆が居なくても、だ。


 こんなこと――〆と夢をいっしょに追いかけていた頃には気づきもしなかった。

 そんなサヴァの苦悩を打ち明けると暫しの沈黙の後、ベニーシャが小さく挙手をした。


「あの、もしかしてなんだけど……」


 一同の視線が集まる中、ベニーシャは緊張しつつもはっきりと言葉にする。


「夢と〆さま、二股恋愛しちゃってない……?」


 夢。


 〆。


 この二者を同じく恋愛の枠組みで括るという暴論を、しかしサヴァは一蹴できなかった。


 いやいやとナゴは否定に入り、スズキはうんうんと首肯する。


「なんでよ、仕事は恋愛対象じゃないんだよ!? 仕事とえっちできる?!」


「概念上の話だね。一生を共に過ごしたい、大好きなモノという点において両者は等しい」


「ない、あたしは絶対ない! 仕事に恋するって本気!?」


「仕事と恋人が二者択一の問題になる恋物語は巷にどれだけあるのか知らないのかい?」


「そんなの両立しちゃえばいいのに!」


「二股恋愛や正室側室も両立して破綻しなければいい、というのは一理あるある」


 ふたりが言い争う中、とうのサヴァ本人は呆然としていた。


 〆とサヴァと夢の三角恋愛。

 そう図式を組み立てると何もかもが理路整然と説明がついてしまう。


(この大好きという気持ちは――ウソじゃなかったんだ)


 酷い話でもある。


 三角恋愛だとするならば、サヴァは夢に近づくために〆を散々に利用してきたわけだ。

 なぜか後ろめたさを覚えるのは当然、〆が離れてしまいたくなるのも当然。


「私、〆様とやり直したい」


 けれど夢への情熱が消えたわけではない。

 それでも〆のことを、このまま逢えなくなってもいいだなんて思えない。


 ずっとそばにいてほしい。

 とても不誠実で、わがままで、自己中心的であるのだけれども――。


「いつ帰れるかわからないけど! お店、おねがい!」


 居ても立っても居られずに、サヴァは飛矢になったつもりで応接間を飛び出そうとする。

 親友たちと義姉の声援を背に受けて――。


 しかし勢い任せに動いても、土砂降りの雨の中、〆の行方を追う方法に心当たりがない。

 雨具を探して着替える間も惜しくて、闇雲に傘ひとつ携えて裏手の出入り口に向かったサヴァを待ち受けていたのは二匹の狛犬たちであった。


「乗れ、連れて行ってやる」


「頼れ、我らの他にあやかしの匂いを辿れる者はおらぬ」


 遠慮や躊躇をする心の余裕もなく、石獣の背にまたがったサヴァは傘を開いて扉を開く。


 剛烈な雨脚。


 一段と強まっている降雨量に、これは水はけを考えると土嚢を積む作業をはじめないと浸水もあるのではと一抹不安を抱く。開業初日から泥水まみれの屋敷になってしまう。


 〆の元へと一刻も早く駆けつけたいという時に、現実が、二者択一を迫ってくる。


「雨が……! でもきっと〆はどこかでひとり凍えている、私が迎えに行かなくちゃ……!」


「……案ずるな。我らと屋敷を守る契約を結んだことを忘れたか」


 人化した有角の狛犬がエプロンドレスが濡れることも構わず、表に躍り出る。

 白と黒の小石を妖力というもので生み出して、それを手をかざした先に土塁のように地道にひと山ずつ積み上げていく。浸水被害を防ぐための防壁を築こうというのだ。


 冷たい雨に打たれても、強大な妖怪である二匹の石獣には何の害もないのかもしれない。

 それでもサヴァは一言「ありがとう、ございます」と率直な感謝を言葉にしたかった。


「行ってきます!」


 二軒隣の店の看板が読めないほどに激しい雨の中、サヴァと石獣は街へと躍り出た。


 後に聞いた話である。

 二匹の狛犬は昔、ここではない世界にある神様を祀る社に飾られていた。神様を守り、永きに渡って仕えることが最初に二匹に与えられた役目だった。


 祀られる神様を人はこう慕って願い事をよく述べるものだったという――。

 “縁結びの神様、どうかよろしくお願いします”

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