記B6.赤猫
○
ランタンを携えて、正面玄関を開け放つ。サヴァは幽霊屋敷の中へ踏み込んでいた。
なかなか帰ってこない〆を心配して外から聞き耳を立てれば、しばらくは静かだったのに急に騒々しくなった。何人分もの足音が、床板を重たげに踏み鳴らす音がする。魔術の発声も聴こえた。
決断は正解だった。
薄暗い館内の中、闇に蠢く何か人影のような者達が向いているエントランスの四隅に、その光る猫の目が爛々と輝いている。〆だ。敵に囲まれている――。
喫緊の窮地。
敵や状況の判別も夜闇のせいでままならない中、非力な一般人のサヴァにできる事は皆無だ。
敵の注意をそらす。
ホントに、たったそれだけのためにサヴァは暗闇に向けて、なるったけの大声を張り上げた。
「〆様ぁああーーー!!」
静止する闇の蠢き。
光る獣の眼差しが二匹、サヴァのことを睨みつけるが、一瞥するのみで襲ってはこない。
こちらに敵がやってくれば、全速力で走って、どうにか逃げてみる気でいた。勝算は二つ。ここは繁華街で街には治安活動のために巡回する冒険者や市警がいる。それに館に住まう怪物が、屋敷の外にまで追いかけてはこないという漠然とした直感があった。が、無視された。
それゆえにサヴァは付け焼刃の“神の奇跡”を使わざるをえなかった。
「微光の
サヴァのかざした聖印が弱々しく蓄光すると、光の帯となって柔らかに〆を包んで照らした。
初歩的な、呪詛を祓う神の奇跡。その効力は、魔術の影響を“和らげる”“軽減する”という微々たるものだ。傷が治るわけでも、力を与えるわけでもなく、魔術の効力を無効にするわけでもない。
この微々たる奇跡が、たったこの程度がサヴァの冒険者としての才能の終着点だった。
『人か』
『賊か』
微光が横切った時、ようやくサヴァは“敵”を目撃することができた。
四足の肉食動物らしき、しかし灰色の石像かのような造形はガーゴイルと呼ばれる魔物を彷彿とさせた。魔除けの石像が、魔術などの力によって動き出して襲いかかるというものだ。いずれにしてもサヴァに戦って勝ち目はない。
恐ろしげな風貌を目にした瞬間、惨撃の夜が脳裏を過ぎった。
地震によって倒壊した我が家、瓦礫の中から運良く同じ被災した冒険者たちに助け出されたサヴァを次に待ち受けていたのは異形の怪物――異獣の襲撃だった。震災を辛くも生き延びた人々を容赦なく襲った猛威の最中、負傷者を守ろうと幾人もの手負いの冒険者が戦い、命を落とした。
足がすくみ、扉を閉めて逃げるだけでいい、とサヴァの心に決めていた行動を、脆弱な肉体と精神は実行に移すことができずにいた。
昔も、今も、足でまといのまま。無力で、自分の身さえ守れない。
微光の瞬きも失われてまた屋敷は暗澹たる闇に支配される。
魔獣の眼光が、鋭利に光っている。
――それにも増して、青白い焔は怪しくも妖しい輝きを湛えていた。
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変幻した、人と猫の重なり合った姿に化けた〆はこれまでに見せたことのない激しく燃え滾る怪奇の鬼炎を纏っていた。重たげに、右腕を庇いながら、不気味に、不敵に、佇んでいる。
「右脚が使えなきゃ二本脚で立ちゃあいい――この姿に化けるにゃ、本物がそこに居てくれなきゃ完全な造形を得られねぇ。つまりだ、確かに助かったとは言ってやるが――説教は後だ!」
蒼炎が閃いた。
サヴァは目撃した。闇の中、石獣の爪と蒼炎を帯びた爪が火花を散らす。妖怪同士の熾烈な激突が繰り広げられるたびに、青白い焔が飛び散って、両者の姿が浮かび上がってみえた。
二対一の戦いは互角にみえた。
不可思議なことに、石獣が口から吐き出した石礫は当たるかに見えて外れてしまい、爪や牙での格闘攻撃には的確に先回りするような反撃を浴びせているのだ。これが〆の、吉凶禍福なる妖怪の力なのか。
人に化けた〆は猫の姿より体躯が大きく膂力に勝り、それでいてしなやかで素早い。自分では戦えずとも、数多の冒険者を見聞きして分析の経験が豊かなサヴァにはわかる。〆の動きは、獣人族の拳闘士にそっくりだ。若干我流だが、質の高さは一流の拳闘士に等しい。石化してしまった右腕を封じられているのにだ。
三十秒もないわずかな攻防は、このまま〆が勝利してしまうのではないかとサヴァに期待させた。
階段を降りてくる新たな敵影――冒険者の石像がひとり、またひとりと〆を包囲せんと増援に駆けつけるさまを見て、窮地は未だ脱していないとすぐに期待は打ち砕かれる。
『人化か。見るのは久しい』
『人化か。成るのは久しい』
散らばっていた石礫が渦巻くように集い、二対の石獣は石の嵐に隠れてしまう。
灰色の石の嵐が、磨かれた光沢感のある白と黒に変色して妖しげな色合いを帯びるや否や、それは規則的にチェスボードのように一面整列して緞帳のように織りなされる。
白黒の石のカーテンが開けば、そこに在ったのは人の形を得た二対の石獣であった。
貞淑で恭しい使用人のような白と黒のエプロンドレスに似た衣服に袖通して、彫刻のように冷たくも美しい澄ました少女の顔が二つ、並んでいた。ふわりとした巻き髪の頭髪は白と黒が混ざっている。すぐさま見分けがつく二人の差異は角の有無や白黒の配色度合い、あたかも双子のようだ。
人の姿に化けてみせてはじめてサヴァにはわかったが、石獣の双子の表情は、外敵を排除しようという怒りや敵意に満ちているわけではない。冷たく無表情にみえて、なぜか、悲しげな表情にも見えてならなかった。
「てやんでえ! 見てくれだけ変えたってやるこた変わら――んなっ!」
迅速怒涛の連携攻撃。
二対の石獣はそれぞれに手にした得物を振るい、一手も休む間もなく〆を攻め立てた。
白黒の小石を随時、小太刀や短剣に変化させて切りつけ、投擲する。流麗な所作は無駄がなく、阿吽の呼吸により〆に一切、反撃のタイミングを作らせない。
〆は数度の攻防は無傷で凌ぐも防戦一方、さらに冒険者の石像が一太刀浴びせんと迫りくる。やがて石の小太刀が左腕を掠めて傷つければ、右腕だけでなく左腕までも石化の侵食に蝕まれた。
この“妖怪”とされる石獣たちは強すぎる――。
〆を、助けないと。
サヴァは己を奮い立たせて打開策を練った。許された時間は十数秒しかない。
サヴァ・バッティーラは無力だ。武力も権力も財力もない。知力はあるといっても秀才に過ぎない。神にさらなる奇跡を乞う事もできない。
あるとしたら分不相応な夢くらいなものだ。けれども今、その夢がために〆は死地にある。
――夢。
では、今こうして戦っている妖怪は夢、目的、願望、一体なにを目的としているのか。
そうした着眼点を得た時、サヴァはある不自然な点に気づいた。
敵の行動は最善手を尽くしているようにみえて、ある一定の条件下では明確に鈍ってみえるのだ。
――家財だ。
〆は大半の攻撃を回避している。〆が投擲攻撃を避ければ外れた短剣は室内を傷つけてしまう。床板や絨毯が軌道上にある場合は構わず投擲するが、例えば調度品や壁掛けの絵画などに当たる可能性が少しでもあれば投擲を控えて明確に攻撃頻度が下がる。きっと商売を志すからこそ気づけた。
金銭価値を理解して守ろうとする。
この妖怪にも夢や目標がある。そう直感した。
――夢は原動力にも足かせにもなるとサヴァは痛いほど知っている。
「そう、私はこの恐怖を知っている――」
ランタンの給油口を開き、着火用のマッチを擦る。
正面玄関から続く手入れのなされた赤絨毯に油を零して、火種を、重力にゆだねて落とした。
「……さぁ大変ですお二方、ほら、金貨千枚のお屋敷を焼失してしまいますよ」
引火、炎上。小火が絨毯をじりじりと焼き焦がす。
赤絨毯を燃やしたとて、幽霊屋敷が全焼するほど炎上はしない。この程度は消火に勤しめばすぐに消せる。本職の冒険者ならば、魔術なりで大火を生み出すことも造作なかっただろう。
しかしサヴァと〆にはこの幽霊屋敷が必要だ。ランタンひとつ分の小火がちょうどよい。
五年前、異獣の牙から逃れるべく震災の二次火災に見舞われる都市を命からがら逃げ延びた記憶が蘇る。火と炎の恐怖が真に迫るのは、戦場や迷宮ではないとサヴァは知っていた。
『炎が!』
『家が!』
目論見通り、白黒の双子は動揺を示した。もし逃げ去る〆やサヴァを追いかけて息の根を止めようとも、火災を止める術にはならない。一刻も早く、何よりも優先して小火を消さずにはいられない。
しかし人や物を石化させる恐るべき妖術が、火事にどこまで通じるものか。
消火に費やす時間が仮にほんの一分間足らずだとしても、この幽霊屋敷から脱出するには十分だ。
「さぁ逃げますよ、〆様」
「……赤猫かよ」
後々、赤猫とは放火魔を意味する言葉だと〆は教えてくれた。
石化された両腕をだらりと垂らしながら一目散に逃げてきた〆が正面玄関を通過すれば、苦し紛れに投じられた石化の短剣を防ぐべく、すぐにサヴァは扉を盾として閉めて敷地の外へ。扉越しに『鬼畜生!』『悪鬼羅刹め!』等と恨み節を浴びるが、構わずに繁華街へと消えていく。
――結果として、見ず知らずの他人が所有する幽霊屋敷に無断侵入、放火して立ち去った。
この事実、非常時の諸事を正当化できる法規を思い返すことでサヴァは己を納得させた。それより何より、今は傷ついた〆を手当するのが先決だ。
「ぐぅ、力を使いすぎた、悪い、休む……」
「すぐに治療できる医術師を探します、それまでどうか」
「いや、運ぶのはタタミンんとこだ……はぁ、はぁ、あいつに診せなきゃ石化対策が……」
肩を借りて歩いていた〆は力を失い、青白い焔も減衰して消えてしまった。小さな白猫の姿に戻った。両前脚は傷口ごと石化していて痛ましい限りであった。
真夜中でも人通りの絶えない繁華街のおかげで、イグサ―ノ邸のある農園方面への駅馬車を捕まえることはできた。驚く御者の男には飼い猫を治療しに行く、急ぎだと伝えて銀貨を渡した。
「こんな大金を……。よほど大事な猫なのかい?」
「……ええ、いつの間にか家族みたいになってしまって」
駅馬車が夜の街を駆けていく。
膝上にぐったりと横たわった〆を擁して、サヴァはただただ優しく撫でてあげる他なかった。
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