記B5.幽霊屋敷の守護獣

 幽霊屋敷と噂されている娼館跡地「月桂館」に潜入した〆は静謐な暗闇の中をゆるりと歩む。


 猫の目は輝板という網膜で捉えきれなかった光を反射し再利用することで、小さな光量でも網膜を通して暗闇での視界を維持できる。暗闇ではより光量を得るために瞳孔が丸く開かれることも相まって、もしこの真っ暗な館内で〆に出くわすものがあれば暗闇に浮かぶ双眸の輝きにさぞや驚くことだろう。


 しかし、ここは五年間という歳月、主なき空き家として存在しており家人はいないはずである。

 そう、誰も居ないのに不思議なこともあるものだ。


 幽霊屋敷の家具や床板ひとつどこもかしこも一定の手入れがなされている。蜘蛛の巣だとか、鼠の足跡だとか、白く足跡が残るほどの埃だとか、本来あって然るべきものがない。


 ここには妖怪がいる――。


 薄ぼんやりとした妖気がそこかしこに漂い、不吉を煮溶かした鍋の中を泳いでいる気分になる。

 いつなにが襲ってきても不可思議でない緊迫した状況下ながら、〆は足音を消して小さなネコの身体を活かして“調査”をはじめた。


 記憶すべきことは多い。

 いかなる妖怪が住み着いているか、ということも意識すべきだが館内の損耗具合、家具や調度品などの備品がどれほどあるか、等の“商品価値”こそ注視せねばならない。


 この幽霊屋敷は巨大なれども“商品”なのだ。これから購入する可能性がある以上、その価値を見間違えると大損になりかねず、うまくやれば最上の結果を叩き出せる。


 サヴァの望む専業ギルドにはなるべく豊富な部屋数、最小の補修費用、健在な家具や調度品を流用できる等の希望要件があれこれある。そして不自然なまでに“綺麗”な館内は、見れば見るほどにおあつらえ向きの破格の物件だということがわかってきた。


 娼館とはそもそも何であるか。

 〆の知識に照らせば、遊郭の類のはずだ。娼館にも安宿と高級宿があって、天井には硝子細工を用いた照明、壁面に絵画、廊下には赤い絨毯の敷かれた月桂館は後者であることが明白だ。


 微かな石鹸の匂いを追ってみれば、二階にずらりと並んだ個室のうちいくつかは浴槽がついていた。サヴァの泊まっている安宿より設備はずっと整っている。ベッドもこのまま寝てしまえそうなほどに整えられている。薄気味悪いほどに上出来だ。ただし、石鹸は五年前のものだ。油が浮き出ていて、薫りにも違和感をおぼえる。


 備品類は五年前のもの、掃除などの手入れは行っていても年数の経過は着実に生じている。

 生きた人間、あるいは社会生活に馴染んだオリーブのような妖怪が住み着いているのならば、こうも手入れはして備品は使用期限が過ぎているのは片手落ちだ。


 ここに暮らす妖怪は、なるべく館の機能を維持しようとしているが外から物資の調達はできていないということになる。外に出られぬまま、誰かの訪れを待ち侘びているのだろうか。


 ――古びた血痕を見つけた。


 とある個室に、派手に争った形跡がある。熊にでも抉られたような爪痕が物語るのは、おそらく、この娼館に訪れた五年前の惨劇だ。


 五年前、このグリズリアという都市国家を襲った魔震災害は地震、火災、そして異獣といわれる魔物の大襲撃によって人口の二割の死者が出たといわれている。この娼館跡地は地震の直下からは遠くて火災被害も及んでいないが、異獣の襲撃は受けてしまったというわけだ。


 当時、この個室に居た者――利用客や高級娼婦は体験したことのない大地震に恐怖したことだろう。家具の一部に震動で倒れた際の破損が見受けられる。そして程なくして次々と舞い込んでくる錯綜した情報に恐れ慄き、この場に留まった末、前触れ無く襲来した異獣の犠牲になってしまった。


 犠牲者や異獣の死体は残されていない。木材に染みついた古びた血痕と異なり、死体は震災直後に人の手で整理されたのだろうか。


(――ただなぁ、被害は都市のそこかしこ、そのどれもが幽霊屋敷ってわけじゃねえんだよなぁ)


 非業の死を遂げた人間が化けて幽霊、とりわけ悪霊として化けて出るというのは同じ妖怪の〆としてはじつにありそうな話だとは考える。


 が、ここに人間の悪霊が遺っているという感じはしない。


 生者を妬み、呪い殺してやろうという憎悪の念を感じさせないのは、やはり手入れ具合のせいだ。

 この建物への愛着、執着、こだわる理由があるように思えてならない。情報が不足している。妖怪の棲まう幽霊屋敷を手に入れるには、交戦と交渉のどちらか、ないし両方を選ぶことになる。相手のことを知ることで有利に事を運ぶ以上、少々危険を冒してでも調査をやらぬ手はない。


(この屋敷さえ手に入れば、あいつの夢は……)


 三階への階段に脚を掛けた時、ぴくりと“ある匂い”に気づいた〆は歩みを止めた。


 ポーションとして配合された薬草の匂い。

 微かなれど、薫りのよい植物の匂いがする。二階と三階を繋ぐ階段の踊り場からだ。この匂いはどこかまだ新しく、とても五年も前とは思えない。


 精神を研ぎ澄まして、階段周辺の運気を見定める。この館そのものが大きすぎる吉兆と凶兆に包まれているせいで見えづらいが、はっきりと凶兆が見える。これより上には危険が待ち受けている。


(……そろそろ退き際かね)


 そう思い、ふぅとため息をついた〆は仕方ないと階段を――あえて登ることにした。

 そして凶兆が、現実のものとして襲いかかってくる。


 踊り場から三階へと至る階段にあったのは石像であった。

 冒険者の、石像だ。


 薬草師とみられる女冒険者の石像が手にしているのはポーション瓶だろう。薬瓶や液剤ごと石になってしまっている。踊り場の絨毯についたポーションの痕跡がある。それらの道具を使おうとした最中に石化してしまい、役目を果たすことなくポーションの液剤が絨毯に撒かれたのだ。


 薬草師がひとり単独で戦う道理もない。逃げ果せたか、あるいはこの館内のどこかにまだ他の石化した冒険者の石像もあるはずだ。薬草師は後衛が常、石にされたのは最後のはずだ。


 疑問はひとつ氷解した。

 この屋敷は五年間、誰一人として手をつけぬまま忘れ去られていたのではない。

 誰一人として生きて帰ることができなかっただけなのだ。


『狼藉者よ』

『落花狼藉を働く者よ』


 屋敷そのものが語りかけてくるように出処のわからぬ二つの声が〆へと語りかけてくる。


『夢の手枕』

『石の揺り籠に眠るは報い』


 硬質な足音がコン、コンと絨毯の敷かれた床板の上を歩くたびに響いてくる。三階からだ。

 〆は逃げ隠れせず、悠然と座って待ち構えることにする。

 表面化した物静かで絶大な二つの妖気が、ビリビリと〆の髭を震わせる。


『対よ』

『番よ』


『これはさて。迷い猫が一匹』

『しかしさて。化け猫が一匹』


 二対の妖。

 二匹の双眸、爛々とした獣の眼光が暗中に光ってみえる。

 造形は犬に似て立派な鬣がある。灰色の体毛、硬質な足音が物語るのはそれらもまた石像か、それを原型とした妖怪であるということだろう。


 狛犬、という守護獣像が〆の世界では広く知られていた。

 それらは神仏を守る役目を担い、厄災を祓い、魔を清める。この幽霊屋敷の静謐とした空気感の正体とは、聖域だ。惨劇の舞台に悪霊の類がひとつも無いのもうなずける。生半可な人霊など、神霊の守護者に守られた聖域に踏みとどまれる道理がない。


 さながら狛犬の付喪神だとするならば、この二匹は妖怪の中でも〆とは相通じるものがある。


 人に幸運をまねく招き猫。

 神を守護せしめる狛犬。


 いずれも人が器を作りし善性の妖怪という点においてよく似通っている。

 大いに異なるのは――狛犬は“守護”つまり敵との戦いに長けている点だろう。現に一組の冒険者を軽々と退け、五年間もこの幽霊屋敷に誰も寄せつけることなく健在なのだから強さは言うに及ぶべくもない。


(勝ち目がない、とは言わねぇが……こりゃまずい)


 仮に勝算が五分だとしてもそれでは“商売”にならない。〆は生き残りを賭けた殺し合いを望んでいるわけではないのだ。


 撤退しよう。なるべく多くの情報を持ち帰り、今後に役立てる。そのために忍び込んだのだ。


 しかし穏やかに言葉をかわす猶予もなく、速やかな凶事の予兆が、雷光のように走った。


 〆は先んじて回避せしめる。

 身をかわしてちらと振り返れば、有角の狛犬が口腔より吐き出した数発の石礫が踊り場の絨毯に着弾する。石化。着弾点を中心として石化がじわりじわりと拡がっていく。弾速も早い。微弱な未来予知に近しい凶事察知と猫の俊敏さと小柄さがあれば回避せしめることは可能なれど、これでは冒険者があっさり全滅するのも肯ける。


 しかし狛犬は二対の妖怪、連携も抜群ときている。

 石礫をかわした直後を狙い澄まして、無角の狛犬が飛矢の如く迫っては爪を叩きつけてくる。


 かわせば二撃目、三撃目。迅速にして的確な一撃を、矢継ぎ早に繰り出してくる上、無角の狛犬の格闘に重ねて、すかさず有角の狛犬の石化射撃が〆を襲った。これでは回避にも限界がある。


 石礫があわや命中する寸前、〆は己の怪綺を防御に用いて――。


 “運良く”石礫は〆の細やかな猫の肢体の隙間を縫うようにすりぬけて、命中しなかった。


『面妖なるが』

『脆弱なるか』


 連携攻撃は逃走の暇を与えてくれない。

 どうにか二階に辿り着き、一階との踊り場へと逃れるも、全速力で逃げようという動きを牽制する石礫の偏差撃ちに退路を阻まれ、爪や牙をかわすのに精一杯になる。手数が多く、精密にして連携に乱れがない上、石化の怪綺は当たれば致命的だ。


 薄氷の上を渡って湖の向こう側へと歩くような至難の業を〆は苦しくも続ける。が、二対の石獣が纏う妖気が不意に増大した次の瞬間、均衡が崩れた。


 石像が、動いた。

 ゆっくりと緩慢に動きはじめた石像が複数、数は九つ。〆の鋭敏な聴覚は三階と地下を中心とした複数の重たげな足音を聴き逃さなかった。


 十一対一。


(最悪じゃねーか!)


 石像と化した冒険者の脅威は未知数だ。足取りは遅いが、上下の階層を塞いでこられたら退路は完全に失われる。猫が袋のネズミとは笑えない。


 しかも石化した冒険者は“動ける”訳だから不可逆の死亡状態ではない可能性が浮上してきた。石化が不可逆であればただの石塊でも再生の余地があるとなれば、石化した冒険者の石像を壊すことは“殺す”ことを意味する。


 いよいよ追い詰められれば躊躇せず石像を壊すことを選ぶとしても、その判断を迫られることで生じる迷いは着実に〆の思考力を削ぐ。精神的動揺が次のミスにつながる、という凶兆がどこで起きうるか、〆の視野には薄ぼんやりと黒ずんで可視化されている。


 幽霊屋敷の至るところに次々と新たな凶兆が増殖していく。ここまで来れば、吉兆は皆無となる。より“マシ”な凶兆を見定めて動くしかなくなった。


『石の兵が汝を招く』

『石の剣が汝を穿つ』


 爪。礫。剣。

 一階にまで駆け下りてきた〆は待ち構えていた三体の石像の冒険者を前にして、後背からの狛犬の爪をかわして、礫は石像を遮蔽物として防ぎ、横一文字に迫りくる石の剣を紙一重でかわした。


 針の穴を通すような精密さで運気を見定め、回避行動を実行する。


 出口となる一階の調理場、その勝手口へと急ぐ。全力疾走も許されない。


 将棋盤のマス目の上、金銀に歩といった駒の並んだ敵陣中を、たった一枚の駒として〆は切り抜ける。黒ずんだマス目ばかりの中、希望の光があるマス目を選ぶのだ。慎重に大胆に迅速に。


 あと二手、三手という時に盤上の駒は想定外の動きをみせる。


「鈍重の呪詛スロウカース


 魔術。


 冒険者の石像――呪術師が唱えた呪詛の見えない力が纏わりつき、〆の俊敏さを殺した。

 この世界には魔術と魔力がある。妖術と妖力とは似て非なる、〆にとって未知の領域よりの呪縛には抗う術がなかった。否、これでも“一番マシ”な凶事を選んだのだ


 ぬかるみを走るような抵抗感に囚われた〆を、それでも追撃の石礫をなんとか回避せんと跳躍した宙空の〆を、無角の狛犬が強襲する。


「ぎにゃっ!!」


 爪が、赤々とした血飛沫さえも石化させた。

 琥珀みたいに半透明の石化した血の石が床に散る。爪に宿った石化の威力は石礫の比ではない。


 衝撃に弾き飛ばれて、〆は絨毯の上を跳ね転げて壁に激突する。


 右前脚の強烈な痛みもすぐに途絶えた。抉られた傷口から石化がはじまっている――。妖気による抵抗力も強すぎる怪綺には抗えず、刻一刻と石化は進み、止まる様子がない。


『妖の血穢れさえも許されぬ』

『何人たりとも穢させはせぬ』


 二匹同時に、トドメを刺そうと牙を剥いて狛犬は飛び掛かってきた。

 鈍重の呪詛と右前脚の石化、さしもの〆も己の最期を覚悟した――。

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