B面 リトライ
記B1. “まちがい”と再挑戦
○
軽い二日酔いによる不快感にうめきつつ、サヴァはぼんやりとベッドの上で目覚めた。
ここはサヴァが長期滞在中の宿屋である。
昨夜は、そう、グリズリア市議会の予算委員会では無残な結果に終わり、サヴァは落ち込むあまりに祝勝用に用意しておいた林檎酒を口にしつつひとしきり泣き腫らしたのだ。
そこまでは記憶がはっきりしているが、どうやって宿屋に戻ってきたのか思い出せない。
「うう、情けない……」
おぼつかない視界、窓の外からはあたたかな朝陽、いつものように小鳥の囀りが聴こえてくる。
時刻は……朝のようだ。
場所も時間もわからなくなるほどに酒に負けてしまったのは不甲斐ない。
まずは水でも口にして少しでも二日酔いを和らげなくては、とサヴァは身を起こそうとするもずしりと重たい“何か”がのしかかっていることに気づく。
こんもりと盛り上がっている毛布の下を、おそるおそるめくって確かめてみる。
「あっ……」
猫だ。
少女だ。
〆様だ。
ショートケーキみたいに甘く愛おしい寝姿をしている。白くて、ふわふわとした角立つホイップクリームのような猫の体毛に、スポンジ生地のように柔らかそうな人の素肌が不規則な模様を織り成している見た目はいつみても不可思議だ。
あどけない子供のような〆の寝顔は、顔立ちこそサヴァそっくりのはずなのに鏡に映る自分とはまるで違っている。銀髪にまぎれた白猫の獣耳があざというほどに魅力的なのをさておいても、細やかな印象に差がある。まず、サヴァは自分の寝顔を見たことはないにしても、大口をあけてくかーっとアホみたいな寝顔を晒すことはないはずだ。
瓜二つのようでいて意外と違うのは、なんだか血の繋がった姉妹のようでもある。
〆は神秘にして可憐だ。サヴァが自分に抱く、冷たく煤けた印象とは似ても似つかない。幸運をもたらすと豪語するだけあって、いかにも薄幸そうな自分とは大違いだ。
一糸まとわぬ裸身、すぅすぅと寝息のたびに微動する鎖骨まわりが妙に艶めかしくみえる。
初めて目にした時、サヴァはその美しさに息が止まるかと思ったほどだ。とりわけ月夜を背に、青白く燃える炎のようなものに照らし出された肢体は俗世を画す、ぞっとするほどに妖美で――。
この親しみやすさに溢れるアホみたいな寝顔からは想像しがたい。
こうしてみると月夜の〆は妖艶な色香を演じており、わざわざサヴァに魅力的に見られようとしているのだとわかる。実際、その艶やかさが第一印象にあるせいでサヴァはことあるごとに〆の魅力を意識させられてしまう。
〆は望んで、誘惑しているのではないか。そう、漠然とサヴァは感じてしまっている。
「……ん」
ここでようやく、はたと途切れている記憶をサヴァは怪しんだ。
状況の連続性を踏まえて整理する。
今ここで〆と同衾して迎えた朝の意味するところは最低限の事実として、〆がここまでサヴァを連れ帰って寝かせてくれたということだろう。そこまではいい。
「まさか」
と、サヴァは衣服の乱れを確かめてみるが、幸いにも抜いだ形跡はなくホッと胸をなでおろす。
なにかしらの“まちがい”はなかったはずだ。
思わず、その“まちがい”がいかなるものかを淫靡にも妄想してしまったサヴァは頭を振る。
その妄想たるや、なぜか『いやがる〆のおへそをなめる自分』という構図なのである。無意識に、そうした願望が刷り込まれているのだろうか。
(いや、いやいやいや……!)
心当たり。タタミン・イグサーノの邸宅での出来事を思い起こす。あの時の身悶える弱々しい〆はたまらなく愛くるしかった。普段は強気に振る舞う〆が、ああもしおらしくなると落差の激しさに感じ入るところがあるのはきっと一般的感性のはずだ。
そう、これはもうタタミンが悪い。なんだったら可憐すぎる〆も悪い。
「お、落ち着け、私……」
〆の美しさと可愛さはあくまで客観的事実だ。きっと魅力をおぼえる方が正常なはず。
サヴァは必死になって自己弁護する。
正常なことならば、一体なにが問題なのか。
種族。
性別。
種族については多種多様な種族の共生するグリズリアの地においては大きな問題ではない。【敵対種】とは利害関係上の問題はあるが、【友好種】の間では種族を越えた関係性の構築はそう珍しくもないことだ。異種族に魅力を感じるというだけのことを恥じる必要はない。
性別についても同じことがいえる。
これが百年前ならいざしらず、先進的な風土のグリズリアでは特別に問題視されはしない。サヴァは冒険者を通して見聞広く育ったので、そうした在り方もひとつの生き方だとは知っている。少なくとも親しい人々のことであれば惜しげなく祝福できるだろう。
しかし種族も性別も自分自身どうなのかと問われると、初めて考えてみたのでよくわからない。
わからずとも、まだ今はいいはずだ。
〆に魅力を感じてしまっている自分を無闇に否定せずともよいのだと心の整理をつければ、ようやく気持ちが落ち着いてきてくれた。
ちょっと、だいぶ、かなり自分にも思春期らしさがあるとサヴァは自覚したに過ぎない。
どちらにしても昨夜は“何もなかった”はずだ。
大事なこともあった気がするけれど、絶対、衣服の乱れるようなことはなかったわけで。
〆にすっかり魅了されてしまい、心を許しつつある自分がいる一方、あちらはあくまでも面白半分にサヴァのことを弄んでいる不思議生物だ。腹の底でどう考えているかなど知る由もない。
こうも親切に接してくれるのだから、最悪、騙された末に食い殺されるなんて末路があったとしても好意的であるうちは信じてあげたい。希望的観測、人は自分にとって都合の良いことを信じやすい、とものの本は警告するものだけれども。
無償の善意を他者に期待するよりは、代償のある善意を求める方がまだ人として健全だろう。
何を求められるにせよ、〆の善意に甘えて利用するからには、いずれ代償に応えねばなるまい。
「……朝食、買ってこないと」
ベッドを降りて、最低限の身だしなみを整えたサヴァは宿屋のサービスである軽食を頼もうと必要なだけの小銭を握って、部屋を出ようとする。
24ウール。
ふたり分のトーストセットを買うために。
「あむ」
朝食のトーストをかじる〆は一口ごとに――。
「あむ」
と〆は声に出して食べている。以前にサヴァも「もぐもぐ」とわざと声に出して食べてますアピールをしてみたが当然、黙って食べることはできる。〆のソレはどうも無意識らしい。
食べる仕草にも猫らしさがある。
まず焼き立てのトーストとはいえ、熱々のスープでもないのにふーと一息冷ましてかじる。
サヴァは手で千切り、小さくしたパンをひとかけらずつ食べるのに対して、〆は頭からパンにかぶりつくのである。パンくずをベッドの上にぽろぽろこぼした上、気づくとひょいと拾って食べる。
しまいに〆は自らの掌をちろちろなめる仕草をしてみせた。
「んー? ホント手前は食べるの遅いな、サヴァ」
「〆様が早いのです」
つい〆の観察に意識が向いて食が止まってしまっていたことを悟られないよう、平静を装う。
いつでも澄ました顔で瀟洒に振る舞うことはサヴァのこだわりである。
当然、じつは二日酔いでまだあまり本調子でない、等ということも顔に出さないよう心掛ける。
「〆様、今後のことについてご相談があります」
「相談……ほほう、聞かせろ」
興味深そうに〆はにたりと笑ってみせる。
よし、諸々のことはごまかせそうだ、とサヴァは内心安堵する。
「まずはその……」
ここで一考する。格好がつかないけれども、昨日の出来事を詳細はやはり教える必要がある。
「昨日は、大変“失礼なこと”をしてしまい、申し訳ありませんでした」
「んな! ああ“失礼なこと”な、あーいや、まぁ……」
昨日は林檎酒に酔って飲んだくれて、〆に宿屋まで運ばせてしまったのだ。きっと愚痴をたくさんこぼしたりもしてしまったに違いない。
シャキハキとした物言いが多い〆もなんだか口籠って、サヴァから視線をそらしている。
一体どんな失礼なことをしてしまったのやら。
「すみません、きっと不快な想いをさせてしまいましたよね……」
「いや! 不快ってわけじゃねーよ! ホントな! わた、俺様だってその……」
サヴァと〆はお互いに相手の顔を見ることができず、気まずい空気に包まれてしまった。
〆は尻尾をそわそわ動かしている。機嫌が悪いのだろうか。猫のしっぽの感情表現がなにを意味するのか、サヴァにはその心得がない。
「……お前がな! 甘えたい時にゃー俺様も懐のひとつも貸してやらいでかと思っちゃいるさ」
「甘えたい、時、ですか」
胸元にすがりついて泣き言でもこぼしたのだろうか、とサヴァは反省し。
傷心の自分を慰めてくれたであろう〆の優しさと懐の深さに、サヴァは少々感じ入ってしまう。
「私、つい、気持ちよくって夢中で……。あんなに乱れてしまったのは初めてのことです」
そう、林檎酒を一瓶空けてしまうだなんて。
「んにゃ! み、みだ……はじ……」
〆は昨夜のことを思い出してあきれているのか、わなわな震えている。
サヴァは気恥ずかしさと申し訳無さについうつむきながら言葉する。
「ふたりだけの秘密、増えてしまいましたね……」
「た、たりめーよ! 秘密、秘密だからにゃ!!」
この語気の強さ、怒っているに違いない。〆は口許に手を当てごもごも何か言いたげだ。
弱みをひとつ増やしてしまった。さらにサヴァと〆との立場の差が開いた気がしてならない。
こほんとサヴァは咳払いし深呼吸、本題に戻ることにする。
「ご承知の通り、私は窮地にあります」
昨日の無様さを思い起こすと、それだけで悔しさが溢れてくるのをサヴァはぐっと堪える。
「【グリズリア市議会】の認可が得られず、助成金も得られないということは開業に必要な資金繰りに大きな問題がある、というだけではありません。無認可での経営は行政側からの依頼が受けづらいなど不利な点が多く、一般には飲食店を兼ねるような副業方式でないとやっていけません」
「あー、カナサ村の冒険酒場みてーな感じだな? 依頼が三件じゃそりゃ儲からねーよなぁ」
「ええ、それはそれで立派な一つの営業スタイルですけど……私の理想とは違っているのです」
「ありゃ完全に片手間だったもんなぁ」
「私は、こうなれば無認可開業を目指します。三ヶ月後の開業という目標はこのままです」
〆はお試し冒険者の経験を元に話してくれている。
はじめは〆の突飛なひらめきにサヴァは戸惑ったが、わざわざ実体験をしてくれたおかげで格段に話が伝わりやすくなってくれているのは確かにありがたい。
「無認可の冒険者ギルド経営が成立するルートは主に四種類――」
ここまで話して、サヴァはスケッチブックを手に鉛筆を走らせた。
わかりやすく図式を伴い、説明すべきだと考えたからだ。
【副業ギルド】
【違法ギルド】
【個人ギルド】
【迷宮ギルド】
これら四つのうち、副業ギルドを中程度、残り三つを小さな円でくるっと囲う。
ここにより大きな円を描いて【専業ギルド型】として、【私立】【公立】と書き加える。
「王道は専業ギルド型です。一番規模が大きく、三大大手のギルドはすべて専業。筆頭は市立レオハンズ冒険院です。〆様もご存知の、オリーブさんのように公共の依頼を多く扱っています。反面、役所の一種という趣が強く、仕事を得やすくも報酬が低くなりやすい……。ギルド側にとって赤字になるような市政経由の依頼も多数発行していたり、役所ならではの手続きの煩雑、窓口の混雑など問題点も多いところです」
「なんだ牛みてーなもんか」
「う、牛さん」
獅子の紋章を掲げる最王手を、もちょもちょ草を食みのんびり反芻する牛に例えるだなんて。
サヴァは思わずくすっと笑いをこぼす。少々つぼに入りかけるも、我慢して。
「副業型は飲食店をはじめとして、他の機能を併せ持っている冒険者ギルドです。歴史的にはこちらの方が原点です。冒険者ギルドの成り立ちは人の集まる酒場の社交の場、情報交換の場としての役割が拡大化していったものです。専業方式は、その原初的な冒険者ギルドを発展させることで成立したこともあって“昔ながら”の伝統的な冒険者ギルドとして根強い人気があります」
「サヴァ、お前んちも副業型だったのか?」
「いえ、主体は専業の冒険者ギルドですけれど副業として父の趣味で酒場の経営を……」
「逆パターンもあんのか」
「飲食だけではありません。宿泊施設、アイテム販売、戦利品の鑑定と買取、専業ギルドにも様々なサービスを提供するケースがあります。例えばレオハンズ冒険院はそれらの業務を行わず、本業に専念しているので院内での飲食、売買、睡眠は禁止です」
「役所か!」
「役所です」
次に、とサヴァは違法ギルドを指差して。
「違法ギルドは文字通り、法律に反する冒険者ギルドです。表向きは普通に装ったり、あるいは秘密の場所で商ったり……。扱う依頼や情報も、程度の差こそあれ、表沙汰にできないものです。もちろん取り締まり対象として摘発されることもありますが、素行の悪い冒険者がたむろするような危険な場所ですから対処は完全ではありません」
「あー、ヤクザや任侠みてぇなもんか、わかる」
「は、はぁ。とにかく、そのようなもので、当然こういった無法者の仲間になる気はありません」
「案外似合いそうじゃねーか、黒の一張羅で決めてよ」
ぷふっと意地悪そうに〆は笑ってにやつく。
似合いそうという点では、〆の方こそ不良じみていてぴったりだとサヴァは内心に思う。
「個人ギルドは――そうですね」
ここでスケッチブックに書き足しながら説明する。
「冒険者ギルドには専属契約というものがあります。冒険者ギルドに帰属して活動することで、冒険者はより手厚いサポートを受けることができ、冒険者ギルドは専属の冒険者が在籍していることを強みにして依頼や情報を仕入れます。個人ギルドはこの専属契約をより特化して、個人や冒険者集団そのものが個人的な冒険者ギルドとして活動することをいいます。窓口を設けて、依頼や情報を集め、野良の冒険者ではなく自分たちで遂行するわけです」
「あ? どーゆーこっちゃ……」
「冒険者ギルドは“めんどくさいこと”を肩代わりすることで金銭を得る。でしたら冒険者が“めんどくさいこと”を自分達でやってしまえば冒険者ギルドに払うべき金銭が懐に入る。――と、こういうわけです」
「そりゃ……本末転倒じゃないか? 魚屋に金払いたくないから魚釣りするわ、ってなもんだ」
「そうですね。冒険者としての活動に専念できないので、代理人を雇って管理させたり、自分でやるために時間を費やしたり。一長一短です。冒険者としての能力と経営者としての能力を両方問われる分、成功すれば総取りできます。最小単位の冒険者ギルドの在り方ですが……」
「手前にゃー冒険者の才能ゼロだもんなぁー」
「そういうことです」
客観的事実。
冒険譚を聴いて育ったからにはサヴァにも憧れがなかったかといえば嘘になる。
しかし痛いのは怖い。運動神経もよくない。魔法も心得がない。暴力沙汰など御免こうむる。
それでも昔、冒険者講習所の体験入学に行ってみたことがあるものの、半日だけの手短でかんたんな訓練をやってみただけでも痛感した。
隣にいた冒険者志望の少女と他愛ない話で仲良くなり、自分とそこまで変わらないと思った矢先、いざ訓練になると少女は巻藁に向けて雄叫びをあげて斬りかかり、別世界の人間になっていた。
一方のサヴァは大上段に振り上げた訓練刀の重さによろけて尻餅をつき、皆に笑われる始末だ。
冒険者のことはとても尊敬して憧れているが、劣等感や苦手意識もある。
大好きになってしまったモノと自分との絶望的な隔たりに折り合いをつけた結果の今でもある。
「最後に迷宮ギルドです。グリズリアの地下に複数ある異界迷宮いずれかの異界門を占有する冒険者ギルドは、その探索権を元に営業できます。探索権利の販売、迷宮内でこなせる依頼の発行など。異界門の占有権という資産を元にして冒険者を招くわけです」
「貴様に財宝の眠る迷宮へ入る権利を売ってやろう! ってわけか」
「異界門には発見者に占有権が認められます。一般に、発見者はまず市役所に報告して申請することで占有権を公に取得します。その後、売買によって所有権が移り、最終的には迷宮ギルドの設立に繋がります。この迷宮ギルドを複数支部有するのが最王手のひとつ――」
【メイクゥーン迷宮商会】
そう【市立レオハンズ冒険院】の横に書き記して、【迷宮ギルド】の小さな円まで棒線を引く。
「魔震災害より五年が過ぎ、未発見の異界門が競売に掛けられることは滅多になく、売買は活発ではありません。メイクゥーン迷宮商会は一節に異界門の半数を関しているとされているものの、独占禁止の条例違反をおそれている点もあり、小規模の迷宮ギルドも多数見受けられます。この迷宮ギルドという形態は無認可でも成立しうるのですが――」
「美味しい商売の種を格安で売るやつぁー居ねぇってこったな」
「……はい」
スケッチブックに細やかな金額基準等をサヴァは書き連ねてみる。
迷宮ギルドの設立には異界門の購入、異界門を管理するための建築物の建造費が掛かる。
異界門の相場は最大5000万ウール、金貨1500枚という異様な高値がつく。安くても金貨500枚か。発見者は一生遊んで暮らせるし、異界門の相場は即ち、その資産価値、生む財貨の大きさに裏打ちされてもいるのだ。
この異界門の価格も五年間の間に乱高下したもので最安値の時は現在の十分の一でしかなかったが、メイクゥーン迷宮商会が迷宮ギルドを商売として確立させたことで高騰の一途を辿ったのだ。
鉛筆を綴っていた指先が震えてしまい、サヴァは嫌なことを思い出す。
メイクゥーン迷宮商会は市議会無認可の独立経営、助成金なしに成立し多額の納税でも知られる。サヴァの事業計画に一番強く反対意見を述べたのがこのメイクゥーン迷宮商会であった。自分らの納めた税金を、新規事業者に費やそうというのだから確かに良い気はしないだろう。
そして悔しいことに、サヴァの実績や資産の不足を声高に指摘するだけの実力と発言力があった。
結果のすべてを左右したとまではいわずまでも、腸が煮えくり返る思いとはこのことだ。
徹底した営利主義の民営であるメイクゥーン迷宮商会のやり方を揶揄する市議会議員やレオハンズ冒険院の牽制もあって致命傷とはならずまでも確実にダメージは大きかった。
メイクゥーン迷宮商会は冒険者に探索権を売れば利益に繋がるも、迷宮の財宝を根こそぎ持ち出されてしまっては超高額な異界門の資産価値が失われる。大赤字だ。そのために実力不足の冒険者に探索権を買わせて送り出してしまったり、迷宮の情報に嘘を交えたり。実際にそうした悪徳をやっているとも、失敗者が難癖をつけているともいわれている。
このような、つまらない感情を〆に悟らせたくはない。
困難な夢にひた走ると覚悟した時、とうにサヴァは自分が挫折や屈辱を何度も味わうことになると覚悟できていた。あのすべてを失った日に比べれば、ひとしきり泣いて済んだ過去のこと。
努めて冷静に、凛々しくあろうとして話を続ける。
「これら無認可ギルドの四ルートには無認可でもやれる理由があります。副業ギルドは手軽で安く、本業収入が見込める。違法ギルドは犯罪が伴うだけの大金が動く。個人ギルドは小さく身軽であり何より重要な冒険者を自分たちがこなせる。迷宮ギルドは初期投資が多額でも儲けが大きい。――こうして列挙してみると、この中に最適なものは……」
無い。
副業ギルドは本来やりたかったことの妥協案でしかなく、残りは実現可能性があまりに乏しい。
王道たる専業ギルド、基本の営業形態には助成金が欠かせなかった。経営が軌道に乗ってしまえば助成金なしでも成立しうるが、多額の元手がなくては乗り切ることができない。資産がなく、いざという時に払える担保や保証のない人間には借金だって難しい。無条件に助力を申し出てくれるような家族や親類もいない。
例外は〆だ。確かに盗んだ金貨袋の中身にすぎないとはいえ、そのまま持ち逃げしてもよかった金貨を託してくれたのは悪くいえば興味本位、良くいえば期待してくれているからだ。
その期待を裏切るかもしれない。
この現状、八方塞がりにも思える。
けど、まだサヴァは夢をあきらめていない。夢への道筋が潰えかけているのが現実だとしても。
絶望するにはまだ早い。切望してやまない夢なのだ。
(突破口があるとしたら、それは――)
「〆様、私のやりたい専業ギルドを営むためには――貴女の知恵と力とお金が必要なのです」
サヴァは祈るような気持ちで言葉する。
「知ってる」
〆は何を今更と言わんばかりに軽い調子で返事する。
「500万ウールだろう? 昨日ああも頼まれちゃ貸さない訳にはいかねぇな」
手の甲で顔を撫でつけながら〆はにやっと妖しげに笑った。
(昨日……? 500万ウール?)
サヴァはあいまいな昨夜の記憶を振り返ってみるが、やはり思い出しきれない。
しかし500万ウールという具体的金額が必要だと述べた理由は心当たりがありはした。
「500万ウールという金額は……大金ですが、開業資金としては必要最小限……です」
サヴァはスケッチブックに小さな四角を複数描き、これを従業員だと記す。
「冒険者ギルドの運営に必要不可欠なのは規模に応じた従業員です。いわゆる人件費……ですね。人件費は雇用する人材の職種や能力によりますが、平均一名につき年間30万ウールの人件費が掛かる……と考えてください。もし十人を雇えば、年間300万ウールの支出です」
「うわ、軍資金があっという間に……」
「人件費は営業開始日からではなくて雇用して開業準備を整える間にも発生します。準備期間を仮に一ヶ月としても無収入の期間が続きます。半年間以上の給与準備金、また給与とは別に、人材を集めるコストも必要です。まずこの初期の人件費支出を最低150万ウール、最大300万ウールとして」
「ふぬ」
「冒険者ギルドには規模に応じた店舗が必須です。土地と建物の調達は、新規建築、賃貸契約、中古物件の購入といった方法があります。最適な立地でありつつ調達可能な物件……これが一番の問題です。新規の建築はまず間に合わないし一番高くつきます。賃貸契約か、中古物件の購入か、現実的なこのどちらも多額の支出になってしまいます」
「本来はどーするつもりだったんだ?」
「認可を得られる場合、助成金だけでなく市議会のお墨付きをもらうことになり、不動産業者との交渉によって好条件での賃貸契約ができたのです、……元々の事業計画で借りる予定だった物件は、認可を前提として交渉を進めていたこともあって、既にキャンセルすることになっていて……」
市議会での惨敗の後、サヴァはまず敗戦処理に奔走した。
一等地の商館を借り受けるという大きな商談がご破産になれば先方への影響も大きい。いざ報告に出向けば、あちらもサヴァとの商談は半信半疑であったのか落胆の色も見せず、むしろ懲りずに頑張ってほしいと励まされてしまった。不動産業者とて、成約前の商談がダメになることは一度や二度のことでないので慣れたものなのだろう。
ひとり意気消沈して酒におぼれていたのは必要な報告先に足を運び、頭を下げてきた後のことだ。
「人件費と土地建物、さらに諸々の諸経費が掛かるとして――現金として最低でも100万ウール程度は運用のために残したい。500万ウールが必要というのは、それでも必要最小限……ですね」
「ホントに金が掛かってしゃーねえんだなぁ……」
〆はあきれ顔になって、嫌そうに舌を垂らす。
「三ヶ月以内に500万ウールを調達する、これは俺様がやってやる。アテがないでもねーんでな。問題は計画の見直し、その肝心要となる土地建物の確保ってことでいいんだな?」
「はい。路線の変更も含めて、的確な物件をなるべく早く見つけないとなりません」
「――よし、でかけるか!」
長話に退屈していた、と言わんばかりにうんと背を伸ばして〆はまた白猫の姿に変じる。
「猫も歩けば棒に当たる、って言うからな」
「あの、もしや、何も思いつかずに……」
「大船に乗ったつもりでいろ、俺様の“吉凶禍福をまねく故の怪綺”を直に見せてやる」
得意げに語る〆の後を追うように、サヴァも宿を後にした。
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