記A2.林檎酒と栗鼠の夢
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十年前――。
木樽のジョッキに注いだ
波打つ琥珀色の果実酒は嗅ぐと少々くらりとする、甘い、けれど大人タチのための匂いで。まだ金勘定もままならない幼子のサヴァは懸命に、与えられたお仕事をこなそうと気を張った。
仄明るい酒場の中を、ぶつかったりこけたりしないようにと。年季の入った木床に転がっている酒瓶をひょいとまたぐ。お客の腰に帯びた剣の革鞘の先っちょを、これまたひょいとまたぐ。酒気にまみれた冒険譚が頭上で朗々と語られる中、サヴァもまたちいさな冒険者のようだった。
バーカウンターから一番奥の席へと林檎酒を運んでいく。
たったそれだけの、はじめての小冒険。頼んだ当人である父親もグラスを拭きつつ見守っている。
「おま、まちどーさまです」
卓上によいせとお盆を置いて、重荷から開放されたサヴァはふぅと額の汗を拭う。
ちらと父親の方を振り返ってみれば、固唾を呑み、グラス磨きの手が止まってしまっている。
「んゆっ」
サヴァはとてとてと、どこか逃げ帰るように帰ろうとする。
急ぐあまりに、行きには気をつけていた剣の鞘に足をひっかけ、「わ!」と声をあげた。
……やってしまった。
サヴァは転んで痛い思いをすることよりも、はじめてのお手伝いで失敗することへの恐怖に目をつむり、床板につっこむその一瞬を、数秒の長い出来事かのように感じていた。
いつまでたっても、その痛みはやってこない。
「……あれ?」
不思議がっているうちにサヴァは床板より遠ざかり、上へ上へと吊り上げられていく。
「あたいの得物が悪さしてしまったようだねぇ、いや、ごめんよお嬢ちゃん」
胴体をぐるりと、ふわふわとした大きな茶栗色の尻尾が巻きついて支えている。
おひさまにたんまり濡らした上質な布団のようにやわらかく、香ばしい。
「怪我は……なさそうだね」
空き椅子にゆっくりとおろされたサヴァはようやく状況を理解することができた。
眼前の、この獣人の女性に助け起こされて事なきを得たのだ。剣の鞘に足をひっかけてすっ転んでしまい、気づいた持ち主である彼女はその茶栗の長尾をとっさに伸ばしてくれたわけだ。
「あ、あの、ありがと……うございます」
「あたいはウーニィ。礼なんていいさ。これも身から出た錆。悪いね、どうも物の管理が苦手なんだ。種族柄か、隠しておいたお宝の在り処を忘れてしまうだなんて日常茶飯事なくらいで」
そう自嘲すると、彼女の仲間であろう他の大人たちも笑いながら口々に彼女のエピソードを語る。
曰く、鍛冶屋へ修理に出している間にレンタルした借り物の武器を、返却日をとうに過ぎても返しにこず、そのまま冬眠してしまって三ヶ月分の延滞料金を請求されてしまった、だとか。
曰く、とある隠された財宝の地図を盗まれないように隠したものの、いざ掘り起こそうとしたら秋の落ち葉まみれで目印がわからなくなり冬は雪にうもれて春先にようやく見つかった、だとか。
ウーニィはそうした少々気恥ずかしい話を酒の肴にされては口をもごもごさせ、頬をぷっくりふくらませるも、ちいさな子供の見ている手前かおとなしくしている。
ウーニィの腰に帯びた剣は幼いサヴァの背丈をゆうに越える大きさだ。この酒場には大柄な大人は少なくないが、ウーニィはとりわけ大きくて逞しく、木樽のジョッキより太そうな二の腕をみれば、長剣を軽々と振るって勇ましく戦う姿は子どもでも想像に難しくなかった。
かといって獣人であっても大男と見間違えたりはしない。着飾ってはいない無骨な旅装いなれども、ところどころにお洒落な輝石や貴金属なりを身につけたり、座り方そのものは品よく背筋を伸ばしてシャンとしており、栗茶色の体毛に覆われたカラダはふっくらと丸みがある。なにより、その大玉の林檎を詰めたように豊かな胸元をみれば一目瞭然だろう。
酒場の客は少々、怖いものだとサヴァは思っていた。
家業となる冒険者ギルドの地下一階にあるこの酒場は、父親が担当している。武器を肌身離さず、酒を酌み交わす大人たち。父親がすぐそばで見守っているとはいえ、自分から手伝ってみたいと願い出たとはいえ、恐怖心はある。なくても困るが、緊張しすぎていた。
だからだろうか。
「だー! もうやめとくれよ、子供にまで笑われちゃこの栗茶の尾も白くなっちまう!」
接客の基本は笑顔だという母の言葉を、今の今まで忘れていたことに気づく。
サヴァは、父母は接客というものを、嫌な顔ひとつせず笑顔を忘れず、怖いことや辛いことを我慢して耐え忍んでいる。えらい、と思っていた。
もちろん嫌なこと悲しいこともあるだろうけれども、笑顔で接客できる理由は、ただただ忍耐強いからだというわけではないと、なんとなく幼心に理解できた。
父母はシンプルこの上なく。
楽しいから笑っているのだろう、と。
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