第8話 とある青年の話

 木製の扉を開けると、そこには異世界が広がっている。ドアのベルが柔らかな音を立てると、香ばしい珈琲の匂いが鼻腔をくすぐった。いつだってこの喫茶店は古市を非日常に連れ出してくれる。

 古市は慣れた手つきでドアを閉め、いつも通り店主と挨拶を交わすと、窓際の席に腰掛けた。白い夏の光に包まれた店内は、普段よりもすっきりして見える。


 今年は梅雨明けが早かった。先日の曇天からは想像できないほど青々とした空に、真っ白な雲が浮かんでいる。

 こんなにも暖かい天気なのだから、待ち人ももうすぐ訪れるだろう。


 窓の外を眺めていると、ドアのベルと共に、夏の風が舞い込んだ。

 扉から一人の青年が入ってきて、キョロキョロと店内を見渡している。

 若々しい青年とレトロな雰囲気の店内とのミスマッチに、古市は奇妙な感覚を覚えた。


「はじめまして」

 古市に気づいた青年が小走りで近づいてきた。青年が爽やかに微笑むと、古市はどこか安心した気持ちになった。

「会ってくれてありがとう。君とは一度、話したいと思っていたんだ」

 大人になった「少年」は驚いたように肩を揺らし、困ったような、申し訳ないような表情を浮かべた。

「安心してくれ。記事にはしないし、誰にも言わない」

「はい、その辺りは信用しています」

 青年は涼しげに笑った。心の中のわだかまりやためらいを捨て去ったような顔色は、かつて殺人鬼と騒がれた者がするものではない。


「いまは社会人かい?」

「いえ、大学生です。入学が遅れたので年は少し離れていますが、みんなよくしてくれています」

 青年の声はとても落ち着いていて、穏やかな波を保っている。彼のクラスメートや友人が言っていたように、人当たりがよく、優しい性格なのだろう。


「あれから多くのことを学びました。それでも、人と関わるのは難しい。多くの人と接し、傷つきました。……以前はそこで自分の殻に閉じこもり、傷つくことを避けようとしていました。でも、今は違います。自分なりのやり方で、人間関係を築いていくことに決めました」

 一人を好むのは青年になっても変わらないようだが、確実に前に進んでいた。

 __それでも、死んだ者は生き返らない。


「君は最低だ」

 十年間、ずっと言いたかった言葉を吐き出した。 

 青年は何も言わない。ただまっすぐと古市の目を見つめている。

「でも、君はちゃんと更生したんだよな」

 あるいは、最初から狂ってなどいなかった。少年は悪魔ではなかった。


 たまたま違う意見を持つ二人が出会って、お互いを理解できなかったのだ。


 少年は、人との関わりを最低限にし、傷つくことを避けることを自分の生き方だと考えた。

 担任は、人は皆、誰かと一緒にいたいものだと考え、少年もそうであると信じて疑わなかった。

 それぞれが、対となる正義を持っていたのだ。


 あの時、お互いがお互いを少しでも理解できたのなら、あの悲劇は起こらなかったはずだ。


 ある少女の言葉を思い出した。

「人は皆、自分が壊されそうになったら、何だってする」

 これが、その結末とでもいうのか。古市は少女の言葉を脳内で反芻する。

 価値観を否定することは、生き方を否定することに等しい。そして否定された側は、否定した側を隅に寄せ、見えないようにしてそのまま生きてゆく。それが叶わなかった場合、なんとしてでも相手を排除しようとする。どんなに非情な手を使ってでも。


 日盛りの夏の陽が窓から差し込み、青年の横顔を白く照らす。

 少年だった井上悠真を思い浮かべた。

 自分の意思を否定され、居場所を無くした、薄暗い空き教室の隅で膝を抱えている少年の姿を。その頬は返り血で濡れている。


「最後に一つだけ聞かせてほしい。もし、あのころに戻ったら、また君は同じことをするか?」

 青年は何も答えない。

 青年と目を合わせる。水平線を眺めるような、凪いだ目だった。

 彼はもう大丈夫だ。


「あの」

 古市が立ち上がろうとしたとき、青年が唐突に言った。

「十年前、俺……私は罪を犯した。それは絶対になくならない、事実です。楽しいだけの人生をおくれるなんて思っていません。これからの生き方はもう決めている。一生かけて罪を償います」

 古市は「そうか」とだけ返した。


「私は酷く尊大で、自分勝手でした。理解してもらえるのが当然だと思っていたのです。ずっと自分の言葉をぶつけるだけで、先生の話は間違っているのだからと切り捨て、先生の言葉が聞こえないよう耳を塞いでいた。それだとダメだったんですね。自分のことを理解してもらいたいのなら、相手の言葉も受け止めるべきだった。相手のことも理解しようとするべきだった。どんなにつらくても、逃げてはいけなかったんです。絶対に分かり合えないように思えても、諦めずに対話を続けていたら、先生とも心を通わせることができたんだと思います。そうすれば、きっとわかってもらえた。社会に戻り、多くの人と関わって、やっとこのことに気づきました」


 今の彼にかける言葉を、古市は持っていなかった。口をつぐんだまま、青年の声に耳を傾ける。


 青年は、店主が運んできた珈琲を一口飲むと、先程までの真剣な表情を崩し、おどけるように肩をすくめた。

「もちろん、先生の考えをなぞって生きていくつもりはありません。私は自分の生き方を貫きます」

 かつて自分を傷つけた担任へのささやかな抵抗のように、青年は軽く音を立てて笑い、そう言った。

 確かに、井上悠真に「みんな一緒」は似合わない。

 これからも、青年は多くの人と関わり、そして一人を愛するのだろう。


 青年は一礼し、席を立った。青年を見送るため、古市もその後に続く。

 日常につながった扉を開くと、生暖かい空気が鼻先にぶつかり、次第に体全体を包み込んだ。店内の静寂が幻だったかのように、蝉が鳴いている。


 夏の陽光が青年の背中に降り注ぐ。まるで青年の門出を祝福しているようだ。


 古市は段々小さくなるその背中を眺め続けた。



〈了〉

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とある少年の話 青葉寄 @aobasan0

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