第5話 とある記者の話2

 取材帰りのバスの中、古市はやりきれない思いでいた。

 がらんとした車内の一人がけの椅子に、鞄を抱えるようにして座った。

 被害者の夫の悲痛な声が耳から離れない。彼は、愛する妻を失った絶望と、幼い子供のために前を向かなくてはならない責任を抱えながら、必死に少年への恨みを古市に訴えた。


 少年はこのことを知っていたのだろうか。自分のしたことによって、こんなにも悲しむ人がいるということを。リビングに飾られた家族写真を思い出し、胸が痛んだ。

 __君が殺した人には家族がいて、こんなにも悲しんでいるんだ。君はこのことを知っていたのか? 君はそうしなくてはならないほど追い詰められていたのか?

 頭の中の少年に問いかけるが、もちろん答えなんか返ってこない。


 窓の外は相変わらずの梅雨空で、大粒の雨が殴るように窓を叩いている。

 バスが赤信号で止まった時、横断歩道を渡る親子が見えた。雨合羽を着た幼児が無邪気に駆け出し、傘を持った母親が慌てて追いかける。

 こんな微笑ましい光景でさえも、今の古市を追い詰めるのには十分だった。

 二人とも、この幸せがいつまでも続くのだと思っているような笑顔だった。

 古市は無意識に、被害者の家族をこの親子に重ねた。あの家族も、こんなふうに笑っていたのだろうか。


 被害者の夫の怒りに震える声が録音された音声レコーダーにそっと触れた。冷たい無生物の感触のはずなのに、ぞっとするような熱さを感じ、思わず手を離す。

 篠突くような雨が古市の心を抉り、そして冷やした。

 

 記事には筆者の私情を書いてはならない。事実だけを淡々と綴ってゆくものだ。だったら、このやるせなさはどこにぶつければいいのか。混じり合ったいくつもの感情は、古市の脳内をぐるぐると回り続けた。


 今日はもう一人の情報提供者と会う予定がある。古市は疲れた体に鞭を打ち、待ち合わせ場所へ向かった。



***




 一人でいるのは嫌じゃない。むしろ好きな方だ。自分の好きなことに没頭できるし、なにより人に気を遣わなくてもいい。

 

 ___幼い頃から人の気持ちには敏感だった。相手が何気なく放ったであろう言葉でも、深く深く考えてしまう。自分の言いたいこともうまく言えなくなった。人と関わるのは、俺にとってとてもつらいことだった。


 それなら、人付き合いを最小限にすればいいのではないか。我ながら名案だと幼いながらも思い、すぐにそれを実践した。

 結果を言うと、「人との関わりを最小限にする作戦」は大成功だった。一人行動は俺の性に驚くほど合っていたのだ。

 前ほど人の顔色が気にならなくなり、生きるのが楽になった。気の合う友人もでき、周りの大人も俺の考えを理解してくれていた。


 でもアイツは、……白石先生は、俺の考えを聞こうともしない。

「大丈夫ですよ。俺は一人でいるのが好きなんです」

 何度そう言っても、先生は「そんなはずはない、そんなことはありえない」と眉間に皺を寄せる。そして俺の考えを否定した。



__どうしてみんなと一緒にいないの?

__一人が好きだからです。

__そんな人はいない。人は一人では生きていけない生き物なのよ。強がらないで本当のことを話して。


 四月から何度も繰り返したこのやりとり。そろそろ終止符を打ってしまおう。




***




「強がってなんかないです。これは本心です」

 何十回も繰り返したこのやりとりに、悠真はうんざりしながら答えた。これに対する白石の答えも、一語一句間違わずに想像できる。

「隠さなくてもいいわ。恥ずかしいことではないのよ。人には得意不得意があるもの。井上君は友達を作るのが苦手なのよね?」

「だから、そうじゃなくて」

 この言葉はいつになったら届くのだろうか。どんなに自分の考えを訴えても、言葉は教室の隅に虚しく消えていく。


「本当は寂しいのでしょう。みんなの輪に入りたいのでしょう?」

「はあ」

 悠真は小さく息を吐くと、伏せていた目を上げ、白石の方に視線を滑らせた。白石は真剣な眼差しで、悠真を諭すように見つめている。

 そんな表情すら腹立たしく、悠真はたっぷりと憎悪を含んだ視線を送り返した。

「いえ、俺はそういうのは大丈夫です。必要なコミュニケーションは取っていますし、相手が不快になることはしていません」

 誰にも迷惑をかけていないのだからいいだろうと悠真は思う。自分のことなのだから、放っておいてほしい。


 下校時間を三十分も過ぎているが、未だ帰らせてもらえる気配はない。

 夕日に染まった教室に、向かい合った二人の影が落とされている。悠真の座る椅子が、ギギィと軋んだ音を立てた。


 白石は教室の隅へと目を逸らした。そして、息を吐くように呟いた。

「……そんなこと言って、あなたも死ぬんでしょう」

 独り言のつもりだったのだろうか。誰もいない教室では、白石の蚊の鳴くような声でもはっきりと悠真の耳に届いた。

 あなたも?

 何の話をしているのかわからなかったが、今の悠真にはどうでもいいことだった。とにかく早く家に帰りたかった。


「ちゃんと相談しなさい。そうすれば力になれる」

「……もういいですか。下校時間はとっくに過ぎています」

 悠真は返事を待たずに教室を去った。このまま話していても埒があかない。

 それでも、白石は明日も悠真を呼び出すのだろう。


 

 生徒が下校した校舎に、悠真の足音だけが小さく響く。

 ___こっちは疲れてるんだ。そっちの独善的な考えに付き合う気力なんて、本当はないんだ。

 寝不足で頭が痛くて、原因不明の腹痛に悩まされて、逃げ出してしまいたかった。

 深く息を吸うと、胸に刺すような痛みが走った。ストレスからくる胸痛だと、昨日読んだインターネットの記事に書かれていた。

 ゆっくりと息を吐くと、じわじわと痛みが怒りと共に消えていく。


 昇降口に向かう途中、どうしようもなく悲しくなって階段に座り込んだ。手すりから手を滑らせながら壁に寄りかかり、顔を伏せ、膝を抱えるように座る。


 なんで自分がこんな目に遭わなくてはいけないのだろうか。

 


「俺はただ、一人でいたいだけなのに」


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