第3部 子供と子供




「すごい汗かいてる。乗る? ほら乗りな。後ろなら乗れるから」


 目を伏せた私に、お母さんは運転席から声をかけた。無視してこのまま暑い中歩くのも躊躇われて、私は大人しく後部座席に乗り込むことにした。逃げるように帰るくらいなら、少しでも冷気で体を冷やしたかった。


 私は乗り込んでゆっくりドアを閉める。全身を包む空気が、強烈に涼しくて気持ちが良い。横には買ってきたらしい色々な袋があり、前の助手席には電子レンジらしき大きな段ボール箱が置いてある。車はすぐに走り始めた。


「……何何、何の用事?」


 お母さんはそこまで怒った様子はなく尋ねてきた。それはそうか、流石にこんな事で怒ってたら沸点が低すぎる。


「いや、何でもないけどさ……」


「散歩? 息抜きみたいな?」


「そんな感じ。おばあちゃんが行ってきたらって」


 私は、あくまで数分出歩いただけ、みたいな雰囲気を出そうと頑張った。


「へえ…………。楽しかった?」


 お母さんは意外にも神妙な面持ちで、ずっと前を見据えている。


「割と」


「そう……まぁ、気分転換にはなったでしょ」


 と、そう言ってお母さんはちらりとこちらを見た。何とも言えない表情をしている上、宿題について何も言ってこないのが少し怖かったが、怒っているわけではないようだった。




 そうして、大した会話をする間もなく、車はあっという間に家に着いた。


「荷物、あ、先電子レンジ運んじゃうか。絵美子運ぶの手伝って」


 私は車から降りて助手席のドアを開け、ゆっくりと段ボール箱を引っ張り出す。車から降りて私の後ろへ回り込んだお母さんが、箱の向こう側を持って、無事二人で運び出した。


「あぁ、ありがとうねえ本当に、あら、絵美ちゃんも」


「意外とすぐ見つかって、すんなり買えたよ。ちょ、とりあえずっ。玄関に置かせて。せーのっ。絵美子、あとまだちょっと荷物残ってるからもう一回お願い」


「分かった」


 再びの暑い屋外ですぐに垂れだした汗を拭って、私はもう一度車に戻る。


 そして、おそらく車を動かしにお母さんが戻ってきたちょうどその時、車の向こう、門の外から


「あっ……! やっぱり、見慣れない車があると思ったら、昌美ちゃん帰って来てたの……! 久しぶりねえっ」


と声が飛んできた。


 急いで声の先を見やると、入り口の前で一人のおばあさんが手を振っているのが見えた。


「あっ……! 川畑さん! どうもご無沙汰してます、お久しぶりです」


 お母さんも明るい声をあげて、小走りで向かって行った。私も行った方がいいのかは分からなかったけど、とりあえず後を追って行った。どうやらご近所さんらしい。


「いや、本当に久しぶりじゃないかしら」


「はい最近、何年か来れてなくて。今年こそはと」


 近くで見ると、川畑さんは思ったより若く見えて、年齢はおばあちゃんと同じくらいかもしれないけど、おばあちゃんよりも活力溢れる雰囲気だった。


「もしかして、絵美子ちゃん、だっけ?」


「はい、絵美子です。この子ももう高校生になって」


「……こんにちは」


 私は形式的に頭をさげる。残念ながら、私の記憶には川畑さんに思い当たるところはなかったけど、多分おばあちゃんの家の真向かい、目の前にある平屋に住んでる方だと思う。


「こんにちは。やー、ねぇ、やっぱり子供って本当すぐ大きくなるね。前会った時が、あの時まだ小学校でちっちゃかったもんなあ」


「……そ、うですね。絵美子は確かに長いこと来てなくて」


 お母さんは一瞬私の肩に手を置いた。いつもなら払いのけるが、そのまま体の前で手を繋いでおいた。川畑さんはハキハキと続ける。


「で、あ、そうだ。うちの真紀もね、この前帰ってきてね。盆で。ちょうど一昨日」


「……あぁあ、マッキー。え、真紀ちゃんも帰ってたんですね」


「そうそう。ほんのちょっと前。それで、真紀とね、色々昔の物を見たり整理したりしてたんだけどね、家にあるのを」


 川畑さんはちょいちょいと後ろの自宅を指さした。


「小さい時、昌美さん、真紀とよく遊んでくれてたでしょ。で、その時こっちのに紛れちゃったのかな。その、幼稚園くらいの時のあれが出てきて。……迷子札! それ返そうと思ってて思い出した。ちょうどいいわ」


 川畑さんは、取ってくる、と言って家に入って行った。


「……迷子札って何」


 お母さんが黙っているから、私は何となく口を開いて訊く。


「…………。迷子にならないように子供とか、まぁ犬とかに付ける時もあるけど、子供に持たせとく、名前とか電話番号とか書いた札のこと。私のは手首に着けるチェーンのだった。小学校入る前に付けてたやつね。そういえば、一回なくした気がする」


 お母さんは前を向いたまま答えた。


「ふーん」


 じきに川畑さんがドアから出てきて、足早に戻ってきた。


「はい。これね」


 川畑さんはお母さんにスッと手渡す。


「あ、ありがとうございます」


 それは、小さな銀のプレートに細い銀のチェーンがついたものだった。


「ねえ、見せて」


 私が手を差し出すと、ゆっくりと、お母さんは手に載せてくれた。


 迷子札というものは軽かった。プレートは三センチくらいの長方形で、細かな字で


【本山 昌美 もとやま まさみ】


と彫ってあった。裏には電話番号と、血液型も書かれている。そしてプレートを含めてチェーンが小さな輪を作り、金具を外せば手首に巻いて付けられるようになっていた。


 とても小さな輪だった。私の手首にも到底入りそうにない。


「今更もういらないかもしれないけどね。一応、昌美さんのものだから。昔うちで遊んでる時に落としたか忘れたかしたのかな……? まぁこんなのよく見つからずに残ってたなあと思ってねえ」


「……はい。ありがとうございます。すごく……。すごく、懐かしいですね」


 お母さんは静かに、いつにも増して穏やかな口調でそう答える。ふと目を向けたら、お母さんは私の手を見てほのかに微笑んでいて、その顔は何だか、普段と違って丸っこく見えた。


「ね、じゃあそろそろね。真紀も、マサちゃん元気かなあ、って言ってたから、元気そうだったよー、って伝えとくわね。じゃまた。絵美子ちゃんもまたね。ばいばい」


「はい、それでは。お気を付けて。わざわざありがとうございました」


「さようなら」


 私はまた軽くお辞儀をして、手を振る。川畑さんも手を振り返してくれ、そうして、目の前の広い民家の中へと消えていった。


 開けた場所に二人。急に風通しがよくなった気がする。前からすうっと風が吹いてきた。


「あ、はい、これ」


 私はまだ迷子札を握っていたことに気づいて、お母さんの前に差し出した。


「いいよ。絵美子、持ってて」


 お母さんはその場に立ったままだった。


「……。いいの?」


「別に、今の私は使わないし。絵美子使ったら」


「私も使わないよ。名前違うし」


 お母さんは、はっはっ、と笑った。使う訳ないでしょ、当たり前だ。第一、いくら何でもこんな小さいのまず付けられない。私はどうしようもなく、一旦ポケットに入れた。


「……でさ。宿題は進んでるよね」


 ノールック。静かなトーンだった。急な攻撃に私は少し緊張する。でも今日のお母さんはいつもと違った。お母さんは私を見やって、私の目を見て続けた。


「お昼ご飯食べたら、一緒に散歩しない……?」


 その時また熱い風が吹いた。頬に熱さを感じ、私はゆっくりと目を逸らした。


「え……。いいけど」


 よく分からない違和感と困惑、そして恥じらいが入り混じっていた。


「じゃ早く食べるぞ。あ、もう一時じゃん。てか車戻してない」


 お母さんは駆け足で玄関へと戻って行った。私はその場に立ってお母さんを目で追っていたけど、その後はいつもの忙しないお母さんに見えた。




  *  *  *




 ごちそうさま、と手を合わせると、お母さんは時間がないからと、そそくさと私を外へ連れ出した。確かに、今日の夜には本当の家の方に帰らないといけないから、そんなに時間はないかもしれない。


 私は日焼け止めと虫除けスプレーを入念にやって外へ出た。外は相変わらずの夏の日差しだった。


「行こう。ついて来て」


 玄関を出るやいなや、お母さんは私を置き去って先を歩いていく。散歩など全くの出任せで、どこか明確な目的地があるに違いなかった。それにしたって、ついて来てと言うくせに、完全に自分のペースで歩いていくのは勘弁して欲しい。ずっと横に寄り添っていられるのも嫌だけど。


「ねえっ。どこ行くの」


「だから散歩だって」


 見え透いた嘘を言うあたり、機嫌だけは良さそうだった。民家の間を抜けて畑へ、そして川沿いへと進んで行く。


 ただ後を追ってしばらく歩いた頃、お母さんは不意に右へ曲がり、森の中へ続く階段を登り始めた。


「え、山?」


「あと少しだから」


 階段はすぐに終わりがきた。登りきった先、道らしきものがかろうじて右奥へ続いていたが、お母さんはそれを無視して左折。道には見えない草むらへと足を踏み入れていく。


 虫が出てきそうで怖いんだけど。そう言いたかったけど堪えて、私たちは木々の中を、分け行って進んで行く。




 そう長くは歩いていない。山の中、突然に暗がりが途切れ、一気に眼界がひらけた。私は目を見開く。


 小高い山の斜面、林に囲まれた中に、突然平らな草原が広がっていた。まるで見晴らし台のかように、平らで、綺麗で、辺り一面を見渡せた。照らされた鮮やかな緑の草むらが、吹き過ぎる風にざわざわと揺れている。


 そこまで広くはなかった。多分、うちの街の小さな公園と同じくらいの面積だと思う。でも、山の中にぽっかりと空いたこの場所は、とても開放感があった。


「よかった、まだあって。すごい。今でもこんなに綺麗だとは思ってなかった」


 お母さんは息を切らしながら草の上を歩いていった。私は後ろをついていく。一歩一歩、シャクシャクと草を踏む度に、靴が少し草に埋まった。


 二人、里を見渡せる草原の端際に立ち止まる。端際といっても崖があるでもなく、この下は少し草木が伸びていて行けそうにないだけだ。私は帽子をおさえて、眼前に広がる景色へと顔を上げる。家々、畑、遠くの山から川まで、緑に点々と色が交ざった景色を眺めた。言いようもなく綺麗だった。


「……ここはね」


 お母さんが腰を下ろす。私も草の上に体育座りをする。


「ここはね、お母さんが昔、小学生の時何度も遊んだ秘密の場所なの」


 静かに、風は穏やかに吹いていた。


「秘密の場所……」


「まあ、ここら辺の人はみんな知ってるから秘密でも何でもないんだけど。ほら。景色も良くて、開放感もあって、いい場所でしょ」


 お母さんが私を見た。


「いい場所だけど……。何で、何で私を連れて来たのかな……って」


「……綺麗な景色を見てほしかったっていうのもある。でも」


 お母さんは詰まった。そして脈絡もなく続けた。


「勉強、大変?」


「……めちゃくちゃ大変」


「やっぱそっか。塾の夏期講習、お疲れ様。まだ半分だけど。あと学校の宿題も。絵美子は本当に頑張ってると思う」


 私は、答えなかった。


「ここに連れて来たのはさ。連れて来て、絵美子と語ろうと思ったの。色々とね。そんでさ。まず私……昔話してもいいかな」


 お母さんは景色を見ながら、静かに言う。


「…………いいよ。聞きたい」


「ありがとう。あー、なかなかこんな話しないから恥ずかしいな。何とか頑張って話すけど、分かりづらかったらごめん。

 お母さんはね、小学校六年生まで、つまり中学校入るまでは、めちゃくちゃ騒がしい子だった。意外かもしれないけど。言わゆる、おてんば娘っていうやつ。

 いっつも友だちと遊び回って、夏休みは宿題もせずに毎日虫取りしたり川で遊んだり。さっきの川畑さん家の真紀ちゃんと、私幼なじみだったんだけど、そのマッキーと二人で男子に交じって走り回ったりしてさ」


 お母さんは思い出すように遠くを眺めて、言葉を繋いでいった。


「それで、その頃よくここに来ててね。ここには男子たちは連れて来なかったの。マッキーと来たり、一人で来ることもよくあったかな。秘密の場所だー、って言ってね。しょっちゅうここに来て、こうやって座って景色を眺めたり、寝転んだりね。

 今思うと、多分近所の人はみんなここを知ってたんだろうし、たまに子供が来ることも知ってたから手入れしてくれてたんだろうね。何十年も経ってるのに今でもこんなに綺麗に管理されてるとは思ってなかったけど」


 お母さんは私を見て、また前を向いた。見下ろした村の方からまた一度風が吹き上げて来て、暑さを少し和らげてくれる。


「……まあそれはそれとして。要するに、お母さんは昔やんちゃだったってことね。

 それで、そう、その頃は私この村が…………好きだったのね。すごく好きだった。あの家も好きだったし、山も川も好きだったし。このひらけた原っぱも好きだった。ここが一番好きだった気がする。

 その時は都会に行きたいなんて、これっぽっちも考えてなくてさ。いや、まず将来のことなんか欠けらも考えてなかったな」


 お母さんはふっと笑う。


「意外?」


「……まあ」


「何だよーその反応」


 言葉を濁した私に、お母さんは少しはにかみながらつっこんだ。


 確かに意外だとも思った。だけどそれよりも、私みたいだなと思った。同級生みたいに見えた。いつもは大きな大きな親の存在が、からりとひらけたこの空間で、とても小さく見えた。子供みたいに感じた。


 私はふとポケットに入れた迷子札を思い出した。その形を確かめてズボンの上から握る。


「それで中学生になって。ちょっと離れた中学校で、ここよりも少しだけ街っぽくてさ。急に周りの目が気になり始めたのかな、中学生になった途端、全然外で遊ばないようになって。多分……街から来る子がすごい大人に見えたんだと思う。羨ましかったんだよね、放課後買い食いしたりカフェに行ったりとかが」


 お母さんは続ける。


「毎日のように友だちと、こんなクソ田舎早く出たいって言ってね。こんなとこいても農家か公務員にしかなれねえじゃんって。その時は本気でそう思ってたんだよね。

 でも、いざ高校を受験するってなって。三年生の時。私、落ちたの、高校。田舎から抜け出したいってだけで遠くの県立の高校に出願して。

 まあ、全然勉強量足りてなかったし、三年から焦ってやったところで追いつけないのも当然なんだけど。それで結局地元の高校行ってさ。

 そこからは結構頑張って勉強した。田舎から離れるには勉強するしかないって実感してたから。お母さん特にやりたいこともなかったから、自分の道を開くには勉強しかなかったのよ。勉強しか。

 勉強以外にも進む道はたくさんあるけどね。でも私は勉強してちゃんと東京の大学にも受かったし、田舎から離れられたし、勉強が唯一の正解だと思ってたんだよ」


 風がまた吹き過ぎ、吹きやんだ。私は


「そう、なんだ……」


とだけ言った。ポケットの迷子札を取り出し、握る。


「でも違うんじゃないかなって。ここに来て思ったんだよね。帰って来て。この自然を見て。柄にもなく小学生の頃を思い出したりしてさ。私はあんなにこの村が大好きだったのに、何でそれを忘れてたんだろって、懐かしくなったりしてさー。それで思い返して見れば、私絵美子に勉強勉強って言いすぎたんじゃないかってちょっと反省してね……。

 だから、絵美子にも私が好きだったこの村の自然を、高校生になった絵美子にもこの自然を見せてあげたいと思った。一緒に散歩でもしようかなーって。だから予定より早く買い物に行ったの、絵美子とゆっくりする時間を作るために。そしたら結局平日みたいにバタバタしちゃったけど」


 お母さんは一呼吸おいて、両手をあげて伸びをした。


「でもここ、いいところでしょ? 迷子札を貰った時に思い出したの。昔からここに来ると少し素直になれる気がしててさ。マッキーと仲直りする時はいつもここだった。喧嘩する時もここだったかもしれないけど……」


 お母さんはそうしてしばらく間を空けた。草原が穏やかに風になびく音だけが聞こえる。私はお母さんに目を向けた。


「終わり……?」


「んー……終わり、かな。もう思いつかないわ」


「……長いよ……」


「確かに、暑いな。話しすぎちゃった」




 お母さんはおでこを腕でくいっと拭く。ハンカチは使わなかった。私も垂れていた汗を手で拭いた。


 風が吹き、また草がざわめいて、私は負けないように口を開く。


「ねえ。悪口言ってもいい?」


 お母さんを見つめて訊いた。お母さんは不意をつかれた様子で、一瞬目を見開いて眉を上げたが、すぐにフッと笑って、にやけた顔になる。


「いつもならだめだけど、いいよ」


 そう言うと思った。私は静かに、おもむろに立ち上がって前を見据え、迷子札を握ってこの広大な世界を眺める。そして胸いっぱいに息を吸って叫ぶ。











「べんきょうさせすぎなんだよ


 く、そ、ばばあああああーっ!!」











 声を振り絞り、遠く、遠くの山まで飛ばす。語尾を閉じた瞬間、一転、辺りは静寂に包まれた。


私の全力は全てこの自然が吸収してしまったみたい。反響する音も一切聞こえない。余すことなく消えていった。


 私は息切れ、肩を上下し、座り込む。そしてクッとお母さんに振り返ると、お母さんは案の定驚いた様子で、まさに目を丸くして私を見つめ返していた。


「……何それっ」


 お母さんはぷっと吹き出し、堰を切ったように笑い始めた。


「あはははっ! 確かにね。そうだよね! 勉強させすぎだよね。はははっ、ごめんね絵美子。お母さん夏期講習入れすぎちゃったわー」


「……笑い事じゃないって……! 本当に大変なんだから。私だって友だちと遊んだりもっと楽しい旅行したりしたいのに」


「ごめんごめん! 急に叫ぶからさあ。山に来て叫ぶなんて、子供みたいなことしちゃってー、と思って」


「どーゆうことそれ」


 私も堪えきれず声を出して笑いだしてしまった。


 今なら、子供みたいなことができると思ったから、私は叫んだ。心をひらいて、本音を言える気がして。お母さんと私が、同じ心を持ち合えた気がしたから。


 話を聞いているうちに、そんな気分になった。うざったいお母さんも、ただの子供なんだって思って、なぜか泣きそうになった。だって草むらで悩みを打ち明けるなんてなんて、そんなの……子供みたいだよ。


 私だって子供だから。勉強だってしたくないし、いつまでも外で遊びたい。子供だから叫びたくなるのも当然じゃん。


「ねーじゃあ、お母さんも悪口言っていい?」


「いいよお……?」


 にやりと笑ってお母さんは立ち上がった。











「すききらいすんな


 く、そ、がきいいいいいーっ!!」











 少しかすれた最後の一音は響きを残さず、山はもう一度静かになった。お母さんは草の上に大の字に倒れた。


「…………お母さんだって好き嫌いあったくせに」


「えぇー、何、知ってたの……⁉」


 私も草の上に仰向けに身体を倒して手足を広げる。ぶつかった腕を少しずらし、全身が夏草に沈んだ。ひやりと触れる葉が涼しい。


「おばあちゃんにアルバム、見せてもらったからね。お母さんがやんちゃだったってことはおばあちゃんから確認済みでしたー」


「うわっ、恥ずかし! どうしよう、また余計なことしてくれてぇー」


「全部バレてるから。可愛かったなーお母さん。可愛かったのになー……」


「ちょっと、今が可愛くないみたいな言い方やめてよ」


 私たちはうるさいくらいに笑った。私はお母さんに向けて笑っていたし、お母さんは私を見て笑っていた。


「あっ……! アルバム見てたってことは宿題してないなぁ……? こいつ」


「えぇー、勉強ばっかしなくてもいいって言ったじゃん!」


「うそ、前言撤回! 勉強しろ高校生!」


「やあだー、もうべんきょうしたくなぁい」


「あははははっ」


 空が広がって、ゆっくりと雲が流れている。思えば、こうして空を見上げるのなんて、いつぶりだろう。それこそ子供のとき以来かもしれない。





 今なら迷子札にだって腕が通るんじゃないかな。私はお母さんの銀色の迷子札を取り出した。その小さな小さなチェーンの輪に、そっと左手を入れてみる。


 思った通り、私の手は入らなかった。親指はどうやってもつっかえた。私の腕にも入らない。こんなのが入るなんて、お母さんはそれはそれは幼い子供だったに違いない。やっぱりお母さんは大したことないね。





「や、虫っ」


 お母さんが短く悲鳴をあげた。見るとお母さんの肩にバッタが乗っている。


「絵美子とって!」


「無理、無理無理」


「わっ飛んだ!」


 私たちは、きゃー、とか、逃げろー、とかわめいて、ドタバタと草原から逃げ出した。自然はいいけど、やっぱり虫だけは無理。そこだけは大人の私が譲らなかった。




  *  *  *




「じゃあね、おばあちゃん」


「また来てねえ。楽しかったわ」


 私が停まった車の窓から手を振り、おばあちゃんも振り返す。車のエンジンがヴーンとかかった。


「じゃ、母さん。また来るから」


「うん、また正月にも来てえな」


「んー正月はどうかな。分かんないな。また連絡するから」


「うん」


「はい、じゃあ、またね」


「おばあちゃんばいばい」


「またね、絵美ちゃん」


 車はゆっくりと走り出し、また長い道のりが始まった。


 ここから帰れば、またいつものように塾通いの生活が始まる。無機質な生活だ。それが終わればすぐに二学期の始業式。楽しみでもあり憂鬱でもある。


 私の周りの状況は、何一つだって変わってない。課題は進んでない。夏期講習には行かなきゃいけないし、多分勉強もし続ける。私の好き嫌いは当分直りそうにないし、それをずっとお母さんに言われ続けるんだろう。多分お母さんだって、今までと何一つ変わらないグチグチの鬼に戻ると思う。


 状況は良くなってない。だけど私は大分と気が楽だった。多分何とかなる気がしている。


 私の腕は太いんだから、何だって乗り越えるはずだ。高校生だし、子供じゃないんだから。


「絵美子、いつまで窓開けてるの。エアコンかけてるから閉めて」


「はぁい」


 田舎の空気が遮断されていく。冷気に満ちた車内は涼しい。


 今宿題でもやってやろうかな、と思った。あ、でもそれはお母さんに怒られるか。


 車は山を越えて谷を抜けて、二人は喋らずに、私たちの街へと帰っていく。




  *  *  *




 二学期の始業式。


 ひたすらに自然を賛美する校歌も聞き飽きた。この街には自然の気配なんてそんなに無いだろうに。私はおばあちゃんの家を思い浮かべて、ふぅと息を吐いた。体育館の壇上では、校長先生が夏休みがどうだとか長々と話している。私は、ふと自分の左手首に目をやった。いつも学校に着けてくる腕時計は家に置いてきた。そこにはただ自分の腕が、しっかりとあるだけだった。


 私は、ふっと笑った。




─終─

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夏山はひらけて たにがわ けい @kei_tani111

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