第2部 アルバムと同じ景色




 二日目の朝。起きると、布団のすぐ側を虫が闊歩していた。でかい、黒い。私は瞬間、布団をぶち飛ばして、死に物狂いで畳を這いずった。


「や、虫……!」


 心では叫び上げながらも実際は全然声が出ず、部屋の隅で必死に両足を抱えて縮こまる。カブトムシとかじゃなく、ゴキでもない。なんて言うのか分からないけど、ツルッとした、でかい、黒い、硬そうな、虫。


「どうしたの絵美ちゃん」


「おばあちゃん、虫。虫が……。布団の下……」


「わあ。どんなの?」


「黒いやつ」


 おばあちゃんは聞くと、スタスタとどこかへ行き、すぐに竹ボウキを持って帰ってきた。そしてぐちゃぐちゃの布団をヨイショとめくると、虫を掃くようにショットし始めた。そのまま、アイスホッケーの要領で縁側まで虫を無理矢理移動させていき、ついに障子と縁側のガラス戸を開けて外まで追い出してしまった。


「っ、ありがとう……」


 私は驚きと安堵の混ざったかすれた声を出して立ち上がった。昔は触れたけど、今はもうちょっと無理かもしれない。


 おばあちゃんはせっかく虫を追い出したのに、障子もガラス戸も閉めずに、むしろさらに開けていく。


「えっ、何どうしたの絵美子。布団……これは?」


 奥の部屋から、なぜかもう服装が整っているお母さんがやってきて、訝しげに訊ねてきた。


「いや、虫がいて、ちょっと」


「虫? ……そう。どうせだから、絵美子もこの機会に自然にでも慣れておいたら。向こうじゃこんな自然ないでしょ?」


 お母さんは縁側まで行って庭を少し眺めて言った。私は何となく雑に髪を手ぐしして、適当に、あー、と返す。話を詳しく聞きもしないで、隙さえあればいつも、ああしろこうしろと勧めて来るところ、微妙に鬱陶しい。


「じゃあお母さん買い物行ってくるから、ちょっと遠く。おばあちゃんと、よろしくね。ちゃんと宿題してよ」


「するよ」


「してよ……? じゃあね。お母さーん、電子レンジ行くねー」


「ああはいはい、いってらっしゃいねえ」


 お母さんは早足で出て行き、しばらくして車のエンジン音が聞こえて、行ってしまった。セカセカ歩いて、虫みたいに慌ただしい。面白みが無い。人としての余裕が感じられない。朝くらいゆっくりさせてほしい。私は頭を抱えるようにして、飛びはねまくった髪を撫でた。




*  *  *




 大胆に顔を洗って食卓につくと、肉肉しかった夕べと違って、細々と彩色豊かなお皿たちが並んでいた。それはもうまさにおばあちゃん家の食卓といった感じだった。


「はいご飯」


 向かいに座るおばあちゃんから茶碗を受け取って、小声でいただきますをする。


「ねえ」


「ん?」


「お母さんは」


 私は玉子焼きから手を付ける。


「あぁ。あの、ほらずっと使ってる、電子レンジがね、おかしくなっちゃって。それで買いに行ってくれるって。車でねえ。遠いとこの、あそこに」


 古い家電は造りが単純だから逆に長持ちするらしいけど、ついにこの家の家電も寿命が来始めたらしい、とお母さんが車内で喋っていたのを思い出す。


「こんな朝から? 買いに行くなんて聞いてないんだけど」


「遠いから、って」


「……そう」


 私はゆっくりサラダにドレッシングをかける。風も涼しいし、ハリのあるキャベツは目からも涼しげだ。


「……絵美子ちゃん、お母さんは家でもいつも、こう、慌ただしい……?」


 おばあちゃんが唐突に尋ねてきた。すぐさま深刻さを掻き消すようにして、二人とも止まった箸をサラダにのばす。


「まあ……割と。いつもうるさいし」


「仲良くしてる?」


「仲良く……はないかもしれない、どうだろう。だってさ、めちゃくちゃ、勉強しろって言ってくるんだよ? 塾も課題も。やってるって言ってるのにさ。おばあちゃんの家でも宿題しなさいって鬱陶しいし。みんなで遊びに行ってるのに、自分だけ塾行ってさ。もう……もうほんとに、大変」


 思わず堰を切って流れ出した愚痴も底をついて止まり、私は一呼吸おいてお茶を飲む。おばあちゃんも本来は勉強を勧める立場の大人ではあるけれど、お母さん以外になら別に何を言っても大丈夫な気がしていた。


「……勉強ねえ。そういう昌美だってなあ、あなたのお母さんだって特別得意ではなかったけどねえ」


「……へぇー、そうなの。お母さんも意外と大したことないね」


 威張り散らしてるくせに。結局自分も勉強してなかったんじゃんか。私は心内で嘲ってみる。


「昔はお転婆だったのよお、やんちゃで。そうそう、絵美ちゃん。お母さんの小さい時のアルバム。見る?」


 おばあちゃんは思い立ったように手を合わせて私に問いかけた。


「アルバム……? 見たいかも」


「おし、ちょっと待っててな」


 唐突な提案に思わずそう返答してしまった私は、おばあちゃんが早足で奥へ行くのを見届け、お箸を置いた。ごちそうさまでした、と呟いてスウーッと息を吸う。それと同時に胸が膨らむ。


 これは思いがけないチャンスかもしれない。あのお母さんの顔を、一発叩いてやれるチャンス。子供の頃のお母さん……きっと面白いものが見られる。


 今まで気にしたこともなかった親の子供時代。普段、親の過去を聞くなんて機会、そうそう無い。特にお母さんは自分からそんな話一切しないから、言われてみればほとんどブラックボックスだ。お母さんは、この家で、この自然に囲まれた中で高校まで暮らしてきた。そのはずだけど、それが何だか上手く想像できない。


「はい、アルバム。三冊あるからねえ。小学校入る前と、小学校の時のと、中学高校。どれから見る?」


 妙に楽しげなおばあちゃんが、硬い表紙のアルバムを抱えて帰ってきた。机の上に置けるように、私はお皿を脇によせる。ゴトン、と三冊が並べられた。そこまで分厚くないアルバムだった。


「……小学校入る前のやつ見ようかな」


 私は一番厚みがある赤いのを目の前に引き寄せた。高校の写真を、見るのはちょっと怖かった。幼稚園児ならまだ可愛げがあるはずだ。


 ゆっくりと表紙を開く。


 一ページ目。一ページ目には、お母さんの生まれた時の写真があった。病院みたいな場所でもういないおじいちゃんが赤ちゃんを抱えている写真。家で寝ている写真もあった。片ページに褪せたカラー写真が六枚入れられているだけの簡素なレイアウトが、いかにも昔のアルバムって感じだった。


「これお母さんだよね」


「そうそう」


「……赤ちゃんじゃん」


 同じ調子の写真が続いてなかなか成長しないから、一気に数ページめくってみる。


 開いたページには、小さな女の子が写っていた。男の子みたいな飾り気のないTシャツとズボンを着て、手首に何かを着けている。こちら側に全力のピースを掲げて無邪気に笑っていた。


「……これ、いつの?」


 私はお母さんのことを素直にかわいいと言えなくて、適当なことを訊いた。


「あぁー幼稚園の頃やねえ。この白黒のやつはね、おじいちゃんが家で現像したの。カーテン張ってね。ほら、かわいいでしょ。昌美ちゃんも昔はこんなにかわいかったのよお。やんちゃで、お転婆さんで、困った子ではあったけどねえ」


「やんちゃ……」


 写真の中のお母さんは、その小さな手をこちらに向けて笑い続けている。私はその無邪気な女の子から目が離せずにいた。


「男の子と一緒に山の中とか走り回って、しょっちゅう迷子になったりねえ。虫取りとか、川で遊んだりとか、そういうことばっかりしてたんよ。今のお母さんからは考えられないくらいはしゃぎ回ってた」


「へぇ……。その、お母さんもさ。結構……子供だね」


 どんな大人にだって子供の時代があったんだとは分かっているけど、いざこうして目の前にすると、何だか複雑で、言葉が出なくなった。


「そうよそうよ。今はほら絵美ちゃんにね、好き嫌いするな、とかって言ってるかもしれないけど、あの子も昔は結構好き嫌い多くてね、わがままだったのよ本当に」


 おばあちゃんが感慨深そうに呟く。


「……えー、お母さんも嫌いな食べ物あったんじゃん。私に散々注意するくせに」


「ほんとにねえ、お母さんうるさいよねえいつもいつも」


 おばあちゃんが笑って言った。


 アルバムには楽しそうに遊ぶお母さんの写真がページいっぱいに収められていた。家の前で、畑で、山で、川で、大きな葉っぱを掲げていたり、両手でバケツを抱えていたり、立ち止まってこちらを振り返っていたり。



 どう、いる? これ捕まえた! こっち来て!



 そんな女の子の声が聞こえて来た気がした。いや、私が想像した。きっと私が小学生の頃宿題もせずに街中の小さな公園でずっと遊び回っていたように、お母さんもそうやって、この広い緑の中で遊び回るのが楽しくて仕方がなかったんだ。


 そう思うと、お母さんと自分は似たもの同士、親子同士だという事実が改めて目の前に突きつけられた感じがした。そんなの嫌だ、あのお母さんと私が同じなんてあるわけないと普段なら思うんだろうけど、今はただ、お母さんも普通の女の子だったことが、ぼんやりと嬉しかった。


「……絵美ちゃん。アルバム見終わったら、外に散歩にいってらっしゃい。きっと、街中じゃあ見られないものとか色々あるよ。ちゃんと宿題してたって、お母さんには言ってあげるから」


 おばあちゃんが不意に、静かにそう言った。


 私は少し目を落とす。多分おばあちゃんは、私が本当は外で遊ぶのが好きだったことも知っている。私のこともお母さんのことも全部見透かしているような、そんな不思議な感じがおばあちゃんにはあった。


「これ、見終わったら。外行くよ……」


 とりあえずそう返した。おばあちゃんは、わかった、と言って食器を全て片付けて奥の部屋へ行ってしまう。私はアルバムの写真を見つめた。最初は全部のアルバムを見てやろうと思ってた。でもこれ以上ページをめくったら、きっとお母さんは成長してしまう。私はしばらく同じページを眺めた後、ゆっくりとその表紙を閉じた。


 まだちょっと複雑な気持ちだった。急に親の過去を知りすぎるのは、消化に悪い。もうお腹はいっぱいだ。


 私は立ち上がって、帽子を被る。少しだけ外を歩いて見ようと思う。




  *  *  *




 玄関の引き戸を開けた瞬間、セミの声がボリュームアップした。外は相変わらずの蒸し暑さで、私は強烈な日差しに思わず顔をしかめる。適当に塗った日焼け止めじゃあ全然かなわなさそう。童心に戻ってばかりもいられない、私は女子高校生だった。


 家を出るなりタラタラと流れ始めた汗は、あっという間に前髪を張り付かせ、帽子の中をサウナ状態にしてしまう。


 家にいれば良かったと一瞬だけ後悔したが、そんなことも、生け垣まで歩くうちには忘れていた。


 門を出て、適当に右に曲がり、左に曲がり。アスファルト舗装がところどころ割れた道を、目的なく歩いてみる。


 どこを見ても背景には深い緑の山が構えていて、高いビルなんて一つも無かった。狭い道を生垣と塀が挟み、それは車一台が通れるくらいの幅しか無かったけど、騒がしい国道より何倍も広々としていた。


 腕で汗を拭いていると、やがて舗装のない砂地の道に出た。民家が集まった区画が終わり、一気に視界が開ける。


 青々とした畑。田んぼじゃなくて多分畑だ。畑一面を覆い尽くす緑の中にポツポツと赤や黄色が混じっているのが、いいなと思う。


 来る時に車窓から眺めた時には、ああ田舎だ、とかそんなことしか考えなかった。ただの草が生えた場所みたいな気でいた。


 でもこうやって自分一人立ち尽くしていると、ここからは色んなものが見える。脇に咲いてる花だったり、転がった棒切れだったり、目印みたいな赤いテープだったり。何気ないものだけど、それを見ながら歩くのはとても心地よかった。




 そのまま歩き続けていると目の前に小さな橋が見えた。小走りで向かうと、気持ちばかりの土手の下に小さな川が流れていて、土手の間にコンクリートの橋が渡されていた。分厚い壁を横に置いたみたいな手すりもない簡素な橋だ。


 土手も川端もあまり植物は茂っていない。小川へは簡単に下りられた。傍にしゃがんで覗きこむと、透き通った水の中を小さな魚が数匹泳いでいるのが見える。日に反射してキラキラと光る水面は、まさしく夏の川のイメージそのものだった。


 私はそれこそ川に来た時の定番をやりたくなって、両手を静かに水に入れた。冷たすぎずぬるすぎず、肌触りの良い水の抵抗を感じる。しばらく浸して手を引き出すと、両手に感じる風もまた、涼しくて心地よかった。


 少し後ずさって、しゃがんだまま濡れた冷たい手でおでこに当てていると、ふと、地面を歩く虫に目がいった。


 私の靴からいくらか離れたところを歩く黒豆くらいの黒いやつだった。よく見るとさらに小さな蟻もいる。私は自分の足に虫がついてないことを確認して、ちょっとこいつらを見守ってやろうかという気になった。


 不意打ちさえしてこなければ、耳元で羽音を立てなければ、私だって許してあげたい優しさはある。これでも昔は、蝉を捕まえたりカブトムシを触ったりしてきたタイプの女子だから、虫が触れなくなった自分に情けなさすら感じる時もある。


 でも、飛ばないやつを見守るくらいなら。その不規則な動きだったり、頑張って草を乗り越える様子だったりを見守るくらいなら、今でもぎりぎり寄り添ってやれると思う。


 そうやって鈍い黒虫を見つめているうちに、こいつは今朝私の目覚めを邪魔したやつなんじゃないかと思い始めてきた。そんなことは無いだろうけど、


「急に現れなかったら、私も怖がったりしなかったのに、おい」


と声をかけてみる。布団横にいたやつはもうちょいデカかった気もするけど、これ以上デカいやつは想像したくないから、実はこの虫くらい小さかったということにしよう。




 どれくらい見つめていたのか、虫も隠れて見えなくなってしまい、私は足が随分痺れているのに気づいて、ゆっくりと立ち上がった。伸びをして、辺りを見渡す。相変わらず誰もいなかったし、特に変わったこともなかった。頬をまた汗が一筋垂れてくる。


 帰ろう。そう長い時間も経っていないはずだけど、インドア派の私にとってはかなりの長旅だった。


 私はもう一度腕で汗を拭って、今度は寄り道をせずに来た道を戻ることにした。




  *  *  *




 帰り道も半分以上は歩いた頃。曲がりかけていた背筋をクッと伸ばし、もう一度汗を拭いた時、後ろから車の音が近づいてくるのに気づいた。


 そういえばあんまり車も走ってないなこの辺。


 と立ち止まると、その車も私の横で止まり、ウィーンと開き始めた窓の奥から、その人物は声をかけてきた。


「絵美子何してんの。散歩?」


 白い自家用車の窓から、冷気がスウーッと流れ出て来るのを感じた。



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