夏山はひらけて

たにがわ けい

第1部 早坂絵美子の夏




 一学期の終業式。


 ひたすらに自然を賛美する校歌も聞き飽きた。この街には自然の気配なんてそんなに無いだろうに。私はおばあちゃんの家を思い浮かべて、ふぅと息を吐いた。体育館の壇上では、校長先生が夏休みがどうだとか長々と話している。私は、ふと自分の左手首に目をやった。いつも学校に着けてくる腕時計は家に置いてきた。そこにはただ自分の腕が、しっかりとあるだけだった。


 私は、はぁとため息をついた。




  *  *  *




「ちょっと、暑くない。絵美子、窓開けてよ」


「なんで。エアコン付ければいいじゃんか」


 早坂絵美子は後部座席で窓の外のつまらない景色を眺めながら言い返す。


「この辺は、付けるほど暑くはないでしょ」


「そ……。知らないけど、開けたら虫入ってくるじゃん」


 二人を乗せた車は、山の斜面に沿って舗装された二車線道路をひた走っていた。狭い上に木々が迫り出して塞ぎ込んだ嫌な道だ。新しくない白い車を、お母さんは真顔で動かし続けている。


 私が座る右側はさっきからずっと壁だ。コンクリートか何かで固められている。単調で何とも面白くない。かといって、左側の窓からもただ茂った木々が見えるだけだし、荷物を押し退けてわざわざ席を動こうという気にもならない。無意識に靴を脱いでは、両脚を抱えたり、窮屈なあぐらをかいたりを繰り返していた。


「もうすぐおばあちゃん家着くからじっとしときなさいよ、せわしない」


 お母さんが目ざとく注意してくる。


「いいじゃん別に。ていうか、もうすぐって三十分前も言ってたからね」


 お母さんは何も返して来なかった。


 夏休み前半。グダりそうな暑さに耐えながら、私は塾の夏期講習に通い詰めてきた。高一でやるには明らかにキャパオーバーな日程。盆休み前までのA期は、数学二時間を八日間。おかしい量だ。気が狂う。そしてこの盆休みが明けたらB期の英語地獄が待っている。


 夏休み前、このスケジュールが決まった時から、私は毎日憂鬱だった。手芸部だって、そこまで忙しくないとはいえ活動があるし、何より、第一に重要な学校の課題があるというのに、こんな講習こなせる訳が無い。普通の講座だけで良かったのに、特別講座まで無理矢理入れられたせいだ。誰かさんに。


 疲れた。いっそう木々が茂る道に入り、ほのかに眠気が襲ってくる。堪えきれない欠伸で視界が滲んだ。もうすぐでおばあちゃんの家に到着する。


 私が行くのは五年ぶりだ。だけど別に感慨は無い。おばあちゃんは好きだけど、わざわざ暑い中あんな緑だらけの場所に行っても、つまらないだけな気がする。田舎に連れ出しただけで夏休みのレジャー代わりになると思っているのかな。本当に。




  *  *  *




「はい、絵美子、着いた」


「分かってる」


「分かってるじゃなくて早く降りてよ。荷物持てるだけ持って、ピンポンしてきて。おばあちゃん待ってるよ」


 そう言われて私がノロノロと車を降りると、舐めるように温風が頬に吹き当たってきた。風があるだけ車内より幾分かましではあるし、いつもの街中より涼しいはずなのだが、どうにも暑苦しい。


 私は、リュックサックを背負いトランクの荷物を少し持って、早速玄関へ向かう。おばあちゃんの家は、いわゆる田舎、里山の木造平屋だ。この辺りは山奥でも平地でもなく、畑耕地から外れたところにある住宅地で、すぐ近くに細い清流が走っている。道路は舗装こそすれ、狭くて到底快適とは思えない住宅立地だ。


 表札の真っ白な「もとやま」が目に入って何となく立ち止まり、私はボストンバッグを抱え直した。敷地を囲う生け垣は以前と変わらず切り揃えられ、綺麗に葉々をつけていた。今でもこまめに手を入れているのだろう。五年ぶりに訪れるおばあちゃんの家の様子は、遠い記憶の中のそれと何一つとして変わっていなかった。私は躊躇わずにガラガラと引き戸を開けた。


「おじゃまします」


 急に薄暗い玄関に入って、一瞬だけ視界が鈍くなり、目を瞬く。


「ああ、ええ。もう来たの。絵美ちゃん久しぶりいねえ」


 おばあちゃんは思ったより早く廊下の暗がりから現れた。おばあちゃんもまた、五年前とほとんど変わっていなかった。短い白髪のくせっ毛がさらに巻きが増し、少しシワが深まったくらいの変化に見える。何はともあれ元気そうだ。


「久しぶりおばあちゃん」


「いやもうほんとにね。大きくなって。ってそれはそうなんだけどねえ。いやあ嬉しいわ」


 相変わらずのおばあちゃん然とした口調で、顔をほころばせている。子供の頃はそんな調子で色んなおもちゃをくれたりお菓子をくれたりと、毎年泊まる度に滝のように物をくれた。


「はあー暑い、お邪魔しまーす。あんまり変わってないな。あ、大丈夫だった、母さん色々」


「ああ。まさ早かったね、思ったより」


「長めに時間見積もってたから。上がるよ」


「はいはい、いらっしゃい」


「絵美子、上がったらそれは台所に」


 お母さんは大量の荷物を抱えて忙しなく奥へ歩いて行った。かと思ったら即座におばあちゃんを呼びつけたり、慌ただしい。一泊するのにそんなに急ぐことがあるとは思えないし、そういう悲しい性なのだと思う。


 私は靴を揃えて家に上がり、食材詰めの二つの布袋を僅かに浮かせてゆっくりと台所へ向かった。木張りの廊下の床が靴下越しに涼しく、なるべく足を摺って進んだ。意外と部屋の配置は覚えているもので、台所までは迷わず辿り着けた。この家は和室がいくつかふすまで仕切られたような造りで、今は襖は開け放たれ、自然光だけで何とか明るさを保っている。途中顔を上げれば、二つの和室の向こうの縁側と庭まで見通せた。


 こんな感じだったな、と思う。どんなに離れていても、場所の記憶は意外と消えないらしい。この家の一つ一つを見る度に、強烈な懐かしさを覚える。


 私は袋をキッチンの適当な床に置き、卵とペットボトルのジュースだけは冷蔵庫に入れた。他にも冷やさないといけないかもだけど、いいや。もう一度玄関に戻り、残っている荷物が無いのを確認して、居間に行く。居間と言うのかは分からないけど一番よく集まる部屋で、存在感のある長方形のテカテカした木の座卓とテレビ、小棚が置いてある。私はその隅っこに自分のリュックサックを置いた。ここでは絶対にやらないと心に決めた、学校の課題が一応入っている。


 私はこの家では課題はやらないと決めたのだ。今まで夏休みを潰して散々勉強してきたのに、少ない休みにも勉強なんてやってられない。これじゃせっかく高校生になったのに受験の時と大して変わってない。それで課題が終わらなかったって、そんなこと知ったこっちゃない。そうなっても誰かさんのせいだ。


 私は畳に転がった。行く気の出なかった祖母宅でも、羽根を伸ばすには悪くないかもしれない。四肢を大にして投げ出してみる。暑いのには変わりないけど、畳は冷たいし、狭っ苦しい部屋では得られない開放感がある。ああもう課題なんて考えたくない。


「絵美子。ちょっとこっち来てー! 荷物。手伝って」


 お母さんがお呼びだ。まだ落ち着いておばあちゃんと再会の挨拶もしてないのに。そういえばまだ手も洗っていなかった。私はおもむろに身体を起こす。


「ごめん、まだ手ー洗ってなかったー」


 そして一旦お母さんは無視するつもりで私が洗面所に行くと、運悪くも、お母さんは洗面所にいたりした。




  *  *  *




 結局課題どころか自由時間もなく、初日の夕食の時間になった。初日といってもたった一泊二日だけど。続々と出来上がるおかずは、生姜焼きの大皿や、鮎みたいな焼き魚、漬け物、筑前煮、サラダと数多い。私はそれらをせっせと居間の机に運んだ。品数は多いが、一つ一つは少量だ。


「絵美子、もう終わったから。先座っといて」


「んー」


 私はあぐらをかいて座り、ミニトマトと豆がどこに散らばっているか素早く確認した。敵位置は早めに把握するに限る。


 じきに皆座卓に集まり、おばあちゃんが最後に茶碗を並べた。三人で、いただきます、をして食べ始める。


「絵美子、せっかく来たんだから今日くらいはちょっと食べなさいよ。このお豆は本当に採れたばっかりのやつなんだから」


 サラダから選別していた私は手を止める。何がせっかくだ、まったく。毎度毎度、連想ゲームみたいな理由をこじつけては食べさせようとしてくるくせに。


「んー食べる食べる」


 お母さんが注意するごとに、私はおざなりな返事を返すだけのマシンになる。


「食べないでしょ」


 うるさい。


「ほらじゃあ、お肉食べなあ。ね。私よう食べないの」


「うん。食べる」


 サラダに見切りをつけ、私は豚肉のでっかいのに箸を伸ばした。代わりに、おばあちゃんが枝豆に手を伸ばす。


「母さん、久しぶりに来たのにね。枝豆、まだあんまりって。本当に、もうなんかムスッとしちゃって」


「ムスッとしてないよ別に」


「静かじゃないさっきから」


「ちょっと疲れてるの」


 私はわざとムスッとしながら言い返す。


「別にいいよそんなのね。絵美ちゃんが食べたいもの食べればいいんからね。ちょっとくらい太ったって絵美ちゃん可愛いんから。大丈夫」


「ありがとう。太りたくはないけど」


 おばあちゃんが、ははっと笑う。


「疲れてるんならここで疲れ取って、ゆっくりね。してねえ」


「うん。ゆっくりする」


 たった二日しかないのに、と思う心は抑えこむ。こんなに暑いと逆に疲れが溜まりそうだ、と萎える心も無視する。


「宿題もしてよ。塾が無い間にやっとかないとでしょ」


「ん、するする」


 絶対にしてやらない。私はご飯を頬張った。



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