ハイエース

増田朋美

ハイエース

その日は、秋の訪れというか、最近まで残暑が厳しかったのに、急に寒くなって、いきなり袷の着物が必要になるという感じの気候だった。まあ、こうなってしまうのは、季節的にそういう時期だからそうなってしまうのであるけれど、こういうときに限って、風邪を引くものである。蘭は、その日、鼻水が止まらないので、近隣の総合病院へ行くことにした。

総合病院では、特に問診とくすりの処方箋をもらっただけで、何もなかったと思われたが、蘭がお会計を終えて、同じ病院の中にある薬局へ向かおうとしていたところ、

「伊能君!伊能君じゃないの!私のこと覚えていない?」

と、明るい声で一人の看護師が、蘭に声をかけてきた。どこの誰だっただろうと蘭が思い出そうとしていると、

「わたしよ。伊能君も、本当に忘れっぽいわね。わたし。ほら、わたしだってば。あの、道下千恵よ。」

と、彼女が名前を名乗ってくれたのでやっと思い出すことができた。

「道下、、、あ、道下千恵さん!あの、マラソン大会で、優勝した方ですね。確か、マラソンを始めたのは、犬の散歩がきっかけだったとインタビューに答えて大笑いされて。」

と、蘭は、思わずそう言うと、

「そうそう。その道下千恵です。やれやれ、やっと思い出していただけた。でも、正確に言ったら、今は、道下じゃなくて、松井です。だから、名乗るときは松井千恵と名乗るべきなのかな。」

と、千恵は蘭に言った。

「そうなんですか。でも、道下さんがなんで看護師の格好をしているんですかね。確か、道下さんは、マラソンをずっとやっていくと言っていたはずでしたが。」

「いやねえ。伊能くんは。人間、夢を持つのは高校生までですよ。大学出たら、もう実用的な生き方をしないと、いけないでしょ。だから、大学は体育学部に行ったけど、その後で、看護専門学校に入り直して、ここで働かせてもらってるの。正確に言えば、看護助手ね。」

「はあ、えーと、そうですか。」

蘭は、信じられないという顔をして、彼女を見た。小学生のときは、マラソンばかりして、お転婆すぎるくらい元気のあった彼女が、まさか看護師になるとは思わなかった。

「道下さん、いや。松井さんか。もう結婚なさっているんですね。今はどちらにお住まいなんですか?」

と、蘭がきくと、

「はい、この病院の近くの安アパートに住んでます。家族は、冴えないタクシードライバーの主人と、あと、役に立たない息子が一人。」

と、千恵は答えた。

「役に立たないなんて、そんなことを言ってはいけませんよ。息子さんだって、ちゃんと意思はあるんだし。息子さんは、おいくつなんですか?」

と、蘭がきくと、

「一応、15歳なんですけどね。今、養護学校に行ってます。伊能くんは、お子さんは?結婚しているでしょ?」

と、彼女は逆に聞き返してきた。

「一応、ドイツに行っていた時、知り合った女性と一緒に暮らしているんですけど、子供はいません。まあ、責任感じているんですけどね。それだから、あいつは、子供はできなかったけど、他人の子供の世話をしたいなんて言い出しましてね。今、産婆をやってます。」

と、蘭が答えると、

「まあ、それはいいじゃないですか。産婦人科って、やりがいがありますからね。そんな奥さんもらって、伊能くんは幸せね。あたしなんて、息子が居るでしょ。だから夜勤なんかはできないから、パート扱いなんですよ。本当は、もっと仕事に打ち込みたいけど、養護学校の先生のおかげで、土日は休みにしなきゃいけないし。」

と、千恵はにこやかに笑った。

「あたしの家より、伊能君の家のほうがよほどしっかりしてる。ねえ、もしよかったらさ、あたしが休みの日、あたしの家に遊びに来てよ。主人も喜ぶし、息子も、お母さんの友達と言うんじゃ、なついてくれると思うわよ。」

「はあ。そうですか。でも、あいにく僕は、最近、忙しいものですからね。予約が入れば、休日でも、施術をしなければなりませんので。」

と、蘭が言うと、

「あら、でも、定休日は有るでしょう?」

と、千恵に突っ込まれて、蘭は返答に困ってしまった。

「だったら、ぜひうちに来てよ。もし、可能であれば、奥さん連れてきてもいいわ。ねえ、ぜひ、うちへ遊びに来て。もう、最近だれも来ないで、家の中でぼんやりしているのは辛いわ。」

「はあ、わかりました。じゃあ、時間の開いている時にでも行きますから。」

千恵に言われて、蘭は、そう言わざるを得なかった。それと同時に、伊能蘭さんという声が聞こえてきたので、じゃあ僕はこれでと言って、蘭は薬局の方へ向かっていった。

その次の日。蘭は、いつもどおり下絵を描く仕事をしていたところ、

「おーい、蘭。買い物行こうぜ。早くしないとタクシーが切れてしまうぞ。福祉車両は、急いでとらないと、ほかの利用者さんに取られちまうじゃないか。」

と、玄関先でインターフォンが五回なって、入ってきたのは杉ちゃんだった。

「ああ、そうか。もうそんな時間だ。食品は買ってこなくちゃいけないもんね、よし、行くか。」

といって、蘭は、タクシー会社に電話した。タクシーはすぐに来てくれた。二人は、運転手に手伝ってもらって、タクシーに乗り込み、ショッピングモールへ向かったのだった。日曜日という事もあり、ショッピングモールは混雑していた。杉ちゃんたちは、急いで一階の食品売り場に行って、大量に食材を買い込んで、買った商品を袋詰していたところ、

「またお会いしましたね。伊能君。」

と、いきなり声をかけられて、蘭はびっくりする。振り向くと、松井千恵さんだった。

「ああ、どうもです。今日は、お仕事は?」

と蘭がきくと、

「いやね。こないだ話したことを忘れたの?土日はわたし、出勤しないの。」

と千恵は、にこやかに笑った。

「おい誰だ。このきれいな女の人は。蘭の昔の知り合いか?」

と、杉ちゃんが言うと、

「ええ。松井千恵さん、僕と同級生のときは、道下千恵さんって名乗ってた。今、市立病院で看護師をしているんだって。」

と、蘭は説明した。

「はあ、そうですか。なるほどね。ちなみに僕は、蘭の大親友で、影山杉三です。職業は和裁屋。杉ちゃんって呼んでね。」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、千恵はちょっと、困った感じの顔をした。

「はい、影山杉三さんね。ねえ、来ないだ、わたしの家に遊びに来てと言ったでしょ。今日時間があれば遊びに来てよ。ちょうど、夫の同僚からもらってきた、お菓子が有るし、紅茶も有るわ。どうせ、奥さん家にいないんでしょ。だったら、ちょっと会いに来てよ。」

「へえ、お茶ね。どんな感じのお茶なんだろう?」

杉ちゃんは、そういう誘いにすぐに乗ってしまう性格であったから、直ぐにそういうことを言うのだが、蘭は、なにか彼女が企んでいるような気がした。

「ええ、アールグレイも有るし、ダージリンも有るわよ。」

と、千恵は、直ぐにそういう。

「はあ、そうですか。僕は、紅茶というより、お茶は日本茶のほうが好きだが、お前さんがせっかくそう言ってくれるんだったら、承ることにするわ。よし、車椅子二人だけど、お前さんの家に行ってみるよ。もし、お前さんの車に乗り切れなかったら、タクシー捕まえて、お前さんの車のあとを追いかけさせるよ。」

杉ちゃんは、そう言って、タクシー会社に電話しようかと言ったが、

「ああ、それなら大丈夫。うちハイエースだから、車椅子二人、余裕で乗れます。」

と、千恵が言った。それはなぜかおかしな響きがあった。なんで、息子さんと三人暮らしなのに、ハイエースに乗っているのだろう。よほど大きなものを、運ぶようなことをするのだろうか?ハイエースは、それくらい大きな車である。大人数の人を運ぶ、ジャンボタクシーにも利用されている。

「じゃあ、乗っけてもらおうかな。よろしく頼むわ。」

と、杉ちゃんは、松井千恵のあとをついていった。蘭もおいおい杉ちゃんすぐ調子に乗るなと言いながら、それでも彼女のあとについていった。

確かに、彼女の車は、黒いハイエースだった。女性が一人で運転するとなると、実に大きな車だった。それに、後部座席からスロープが出る仕組みになっており、蘭も杉ちゃんもそこから乗ることができた。そういうのは、福祉仕様車と変わらなかった。

「誰か、足の悪いやつでもいるのか?おじいさんでも介護してるの?」

と、杉ちゃんが言うと、

「ああ、もう、そんな気にしないで。すぐに乗ってちょうだいよ。」

と、千恵はそういうことを言って、直ぐにエンジンを動かし始める。ハイエースは、すごい勢いで動き始めた。杉ちゃんも蘭も、車椅子が簡単に乗るような車を持っているのは、なにかわけがあるのではないかと思った。

「はい、わたしの家は、このアパートの一階。」

確かに、そこは、平凡なマンションだった。一階に住んでいるということは、あまり不思議なことではないのかもしれないが、蘭は、あえて一階に住んでいる人も居ることを知っていた。千恵が、介護タクシーの運転手並に、二人を車から降ろすことができることも、なんだか変だなと思った。

「それでは、どうぞお入りください。」

千恵に言われて、杉ちゃんと蘭は部屋の中へ入らせてもらう。確かに、かわいいものがたくさん置いてあって、素敵な家だと思った。中には、ウォルドルフ人形というものまである。部屋に入ると、直ぐにテーブルがあって、そこには、苺ショートケーキと、紅茶が置かれていた。蘭が、ご主人はどうしたんですかときくと、仕事に言っていると簡単に彼女は答えた。

「じゃあどうぞ。食べていって頂戴。ありあわせで作ったケーキだけど、一応、わたしが作ったから。」

「ありあわせで作ったとはとても思えないよ。おまえさん、今日僕たちをここへ連れてくるために、何日も前から準備してたんじゃないの?」

と、杉ちゃんが急いで言った。確かに、苺ショートケーキは、直ぐにできるものではない。千恵はそれを無視して、

「お食事まだだったら、このローストチキンをどうぞ。」

と、冷蔵庫から鶏肉の塊を取り出した。

「はああ、やっぱりそうだ。ローストチキンなんて、手間のかかる料理を作るんじゃ、なにか策略が有るはずだよな。おまえさん、僕たちを使って何をするつもりなんだ?なにかのために僕たちを利用するっていうんだったら、お断りだぜ。」

と、杉ちゃんがそういうのをまた無視して、千恵は、今度は冷蔵庫の中から、器に盛り付けられた、パエリアを取り出した。そして、小さなさらに、3人分分けた。

「お前さんは一体何を企んでいるんだ?ちょっと話してみな?悪いようにはしないから。僕たち、障害者だし、悪いようには絶対できないよ。それよりも、お前さんが持っていることを話しちまえよ。僕たちにごちそう食わして、なにかするつもりなんだろう?そういうことだろう?だったら、それは失敗だ。僕たちは、もうおまえさんのすることは、見抜いちゃった。」

と、杉ちゃんはいう。蘭は、もしかしたら、ここで、連鎖販売取引の勧誘でもされるのかなと思って、ちょっと怖くなった。

「お前さんは、一人暮らしじゃないな。割り箸でない箸が三膳有るもん。もしかしたら、ご家族に何かあって、それを、隠すために、こういう集まりをやっているのかな?」

と、杉ちゃんに言われて、千恵は、そうね、と一言だけ言う。

「松井さん、あなた、以前病院で会ったとき、息子さんが一人いると言いましたよね。息子さんのものと思われる靴がないけど、どこに行かれたんですか?お友達の家にでも行っているとか?」

と、蘭は、下を向いている千恵に、そういうことを聞いた。

「いえ、友達もいないのよ。」

と、千恵は言った。

「養護学校の同級生の方なんかと遊ばないんですか?」

と蘭がきくと、

「そんな事、できやしないわよ。」

と、千恵はいう。

「はあ、ならどこに居るんだ?養護学校で補習でもやってるのか?補習がある学校って今は多くないと思うけど。それとも、部活にでも行っているとか?」

杉ちゃんがすぐに言った。

「何もないわよ。補習なんて。部活なんてあの子は入れないし。」

「じゃあ一体どこに行っている?」

杉ちゃんに聞かれて、千恵はもう隠しておけないと思ったのだろうか、なにか決断するような顔をして、杉ちゃんに言った。

「ええ、施設で預かってもらってるわ。わたしが、辛い顔をしているのは、あの子には見せたくないし。あの子も、わたしが精神的に安定している時だけを見せているような、そういうときのほうが幸せだし。職務怠業と言われても、仕方ないわ。わたしは、そうするしかできなかったんだから。」

「そうなんですか。ということは、重い知的障害があるとか、そういうことですか?」

蘭がそうきくと、千恵は、

「そういうことではないんです。でも、わたしがちゃんとできるときだけ、息子と会ったほうが、息子も健全な生活ができるんじゃないかと思ったんです。」

と、急いで言った。

「見えはらなくても、いいよ。僕らも、そういう気持ちはわかんないわけでもないからさ。蘭も、お母さんの命令で、子供の頃はドイツにいなきゃならなかったもんね。実のお母さんとは会えなかったよな。そうだろう?」

と、杉ちゃんが言うと、

「確かに、ドイツには行ったけど、あれは、学校でのいじめから逃げ出したくて僕がなんとかしてくれと行ったら、お母さんがそうしろといったので、あれを発案したのは僕だったわけで。」

蘭は口ごもりながら言った。

「それに、ドイツのポストファミリーは、僕のことすごくかわいがってくれて、実の子供以上に大事にしてくれたんで、お母さんがいなくて寂しいという気持ちはわかなかった。」

「まあ、そうだよな、欧米人ってのは感情を丸出しにするから、少しでも、お前さんの生活を楽にさせてやろうと思っているのがお前さんにも通じたんだろう。でもな、日本ではそうは行かないよ。日本では、変なところで感情的になれないから、施設に預けているってなると、幸せに暮らせるやつってのは、そうはいないよ。」

蘭の話を打ち消すように杉ちゃんは言った。確かに、施設へ預けているとなると、不幸だとか、かわいそうだとか、そういう言葉がついてまわる。たとえ本人が幸せであったとしてもそう思われてしまう。それは、ドイツに比べたら、劣っているところかもしれない。

「まあ、お前さんも、息子さんが大変なのはわかるけど、施設の職員に任せっきりにして、自分は見えっ張りなことやってるようじゃ、完璧に負けだよな。こんな大袈裟なごちそう、僕たちに食べさせて、息子さんのことは口外しないでくれとか、そういうことを言うつもりだったんだろう。まあ、そういう気持ちはわからないわけでもないけどさ。でも、やっぱりさ、息子さんのそばにいてやったほうがいいんじゃないの?」

「だったらなんで、僕に声をかけてきたりしたんですか?」

蘭は、こないだ病院で会ったことを思い出しながら言った。

「だれかに息子さんのことを知らせたくないのに、なんで、僕に声をかけたりしたんですか?」

千恵は、小さな声でごめんなさいと言った。

「見えを張ってるとかそういうことじゃないの。ただ、相談できる人が欲しかったのよ。夫は、仕事が忙しすぎて、話なんて聞いてくれそうにもないし。わたしの事なんて、何も構わない感じだし。」

「相談ねえ。相談ってなんのことだ?」

と、杉ちゃんがそう聞いた。

「具体的に悩んでいるって言うことじゃないの。ただ、ほかの人みたいに、子供を育てるにあたって、悩んでいることとか、そういうことを話してみたかったのよ。」

「そうか。それは、普通の人に求めるのは、相手が酷と言うものだ。日本社会は、一緒にすもうという社会じゃないから、一度、障害をもつと、社会から爪弾きにされる経験をしなければならなくなる、それは、わかるよな?」

彼女の話に杉ちゃんはすぐに割って入った。確かに杉ちゃんの言う通りでもあった。障害のある子を持つと、一般的なつながりとはまた別のつながりをもつ必要があった。それは仕方ないことでもある。

「それなら、そういう障害のある子を持つ人のサークルとか、探してみたらどうですか?ちなみにドイツでは、そういうグループは、くさるほどありました。日本では、そこを探すのは難しいと思うけど、インターネットとかで調べれば、見つかるんじゃないかな。」

と蘭は、彼女にアドバイスした。そうね、と千恵は、小さい声で言った。

「まあ、いいじゃないの、お前さんが、話せるところを見つければ、息子さんを施設に入れっぱなしということもなくなるかもよ。やっぱりさ、必要ないのに家族がわかれちまう事は、良くないだろうからね。」

杉ちゃんがそう言うと、誰かのスマートフォンが音を立ててなった。杉ちゃんも蘭のものでもなかった。千恵が急いでスマートフォンをとって、はいもしもし、と話し始める。ところが、直ぐにえっと言って、千恵はどこの病院へとかそういう話を始めた。はああ、きっと、息子さんが倒れたとか、そういうことを話してんだなと、杉ちゃんは言った。確かに、あのハイエースは、寝たきりの人を運ぶために使うことも有る。それなら、なぜ千恵がハイエースに乗っているのか、きれいにとける。

「わかりました、直ぐに参ります。はい、どうもご連絡ありがとうございました。」

と、千恵は電話アプリを閉じた。

「もう言わなくてもいいよ。内容は大体想像つくから。こんなに、見栄張って、僕たちにごちそう作るよりも、息子さんをなんとかしてあげることを優先してあげな。」

と、杉ちゃんは言った。蘭は、僕たちは、タクシーで帰ろうと言った。千恵は、すみません行ってきますと言って、急いで、玄関から外へ出ていった。あとは、ちょっと冷たくなっているごちそうと、杉ちゃんたちだけが残った。蘭が、タクシーを頼んでいる間、杉ちゃんはせっかく彼女が作ってくれたんだから、と、べらりべらりと食べ始めた。


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