狂ってる

七戸寧子 / 栗饅頭

普通 融通 苦痛

 昆虫が好きだった。

 てらてらとした外骨格や、触覚や六本の脚などの脊椎動物には見られない無骨さが幼ながらに好きだった。また、そのメカニカルに感じる動き方も男心をくすぐった。カニやエビといった甲殻類でも良かったが、やはり身近にいる虫に私の興味は注がれていた。

 ある日はトンボを捕まえ虫かごに入れ、ある日はカマキリを捕まえ虫かごに入れ。そういえば、ザリガニを釣ったこともあった。

 唐突に人間に捕らえられ、自然と切り離された場所で戸惑う小さな命を眺めるのが好きだった。指でつついて逃げ惑うのを見たり、ひっくり返して蠢く脚々を観察したりした。時にはその脚の一本をもいでみたり、羽を裂いてみたりした。

 私の虫好きの噂を聞いた叔父が、大きなクワガタムシを買ってきてくれたことがあった。それはそれは立派なクワガタで、今思えば五千円はくだらない品だったろうと思う。カブトムシやクワガタムシも、当然幼い私が心を踊らせる対象だった。しかし、幼稚ゆえに私はクワガタを怒らせてしまったらしい。何をしようとしたのかは覚えていないが、その時の名残で私の左手には小指第一関節から先がない。噛み切られたのか、バイ菌が入って切断したのかも覚えていない。指を失った瞬間よりも、その後の方が記憶が鮮明だ。

 とにかく、クワガタが怒った。私は冷静にそれを拳で叩き潰した。「くしゃ」とか「べちゃ」とかいう感じの音が鳴った。ふと思い立ち、その拳を舐めようとした。叔父や両親に止められたが、あの時舐めていたらどんな味だったろうというのを今でも時々考える。


 それからというものの、大人の視線が気になるようになった。近所の老人、小学校の担任、両親までもが、私に得体の知れないものを見るような目を向けることがあった。普段は優しく接してくれるが、ふとした瞬間に訝しげな顔になる。

「あなたはもっと普通の子らしくしなさい」

 そう言われる度に、普通とは何かを問うた。大人は口を紡ぎ、額の汗を拭いたあとで「とにかくあなたは普通じゃないの」とよく分からないことを言った。自分がそう言われるのが不思議で仕方なかったが、そんなものだろうと一種の悟りのようなものを得ていた。諦観という方が近いかもしれない。ただし、その言葉で私の将来の夢は「普通になること」になった。それを大人や友人に話すと、また怪訝な顔をされた。


 何かをする度に、大抵「普通じゃない」と言われた。

 テストで満点を取ったり、スピーチコンテストで優勝したりした時。褒め言葉として受け取った。リレーのバトンを投げて渡したり、クラスTシャツを雑巾にしたりした時。合理的だと思ったのだが。校庭の葉っぱを食べてみたり、石ころから打製石器を作ったりした時。好奇心に従っただけなのに。


 しかし、高校生にもなればそれなりに心地よく生きる術を身につける。

 私は、友達に勉強を教えた。テストで私と同じくらいの点を取れる友達が増え、それがまた評判となり他の友達にも勉学を説いた。おかげで私のクラスのテストの平均点は九十点前後となり、私の点は平均点とあまり変わらなくなった。

 相変わらず私はクラスTシャツを雑巾にしたが、その時にクラスの女子が怒り始めた。「みんなの思い出なのにそんなの酷い」と、しまいには泣き始め、教室の皆が私を睨んだ。だから、資源を再利用する大切さと、思い出の品だからこそ形を変えて使用するという情について熱弁した。私を睨む目は少なくなり、異論を呈する方が少数派となった。雑巾干しには薄汚れた『クラスTシャツだったもの』が多く並んだ。

 流石に葉っぱは食べなくなっていたが、昼休みになると私の食事を見て笑い出す友人が多くいた。

「なんでコッペパンにわさび塗ってるんだよ‪」

 背中をバシバシ叩かれてツッコまれ、その空気が楽しかった。しかし、私は食の好みまで普通じゃないのかと思い知らされた。中学生までは給食があったので気づかなかったことだ。そして、皆で食べ放題の店に行った時に私の創作料理を振舞った。これが好評で、私の普段の昼食に興味を示す友人も増えた。一口恵んでやると、「結構いけるな」とコメントを広げ、俺も俺もと私好みのテイストをつまんでいった。いつしか私の食事は普通のものとされるようになり、クラスが変わるまで食べる物について茶々を入れられることはなかった。


 人を動かすと、いつの間にか私が普通になった。辞書では『ありきたりなこと』と説明される『普通』の定義によく当てはまるようになった私は陶酔した。夢の実現に一歩一歩近づく感覚は、私の生活に明らかな充実感をもたらした。


 進路選択の時、担任に「何になりたいんだ」と訊かれた。親から「真っ当な職に就け」と言われていた私は、勉強を教えるのが得意なこともあって教師になりたいと答えた。その頃には昆虫への興味も人並みに落ち着き、趣味とよべるものはなくなっていた。サラリーマンにでもなるのが普通である気もしたが、私は人を真っ直ぐに教育する側になって初めて「普通である」と胸を張れるようになる気がした。

 担任も両親もそれを応援してくれた。私は大学で教員免許を取り、高校の教師として働くことが決定した。


 そして、今。

 私はチョークを握り、黒板に自分の名前を書いた。粉っぽい手を叩きながら背中の方へ向き直ると、四十あまりの学生服。希望に満ち溢れた顔や眠そうな顔など様々だ。私が初めて担任を務め、私の初めての教え子となる学生達に胸が高鳴った。軽い自己紹介を済ませる。

「どうぞ、よろしく」

 締めの一言の後に、教室から拍手が上がった。こうして歓迎されると、自分が普通の真人間になれたような気がした。元々捻じ曲がっていたつもりはないが、自己評価と他者評価では身につく自信の格が違った。

「じゃあ、先生に質問ある人! 何でもいいぞ〜」

 生徒に好かれる教師になりたかった。次々手が挙がり、好きな動物や食べ物、彼女の有無などを訊かれた。私が質問に答える度に、生徒たちから「おおーっ」という歓声や「へぇ〜……」という頷きが漏れた。思いのほか、質問にコーナーは大盛況になってしまった。

「じゃあ次で最後の質問!」

 定められた下校時刻が近付いてくるので、名残惜しいがそう言わざるを得なかった。そして、生徒たちの中で一際目立つ真っ直ぐ伸びる手を指さす。「はい、君!」と呼ぶと、その男子生徒はおずおずと立ち上がり、前置きした。

「あの、すごく失礼かもしれないんですけど……」

 教師になるのだ、年下の生意気に付き合う覚悟はいくらでもできている。

「構わないよ、何でも訊いてごらん」

 可能な限りの優しい声。男子生徒は安心したように、先程と較べてハッキリとした声を出した。

「先生、左の小指短くないですか?」

 ふと、自分の左手を見る。クワガタに持っていかれてしまった小指の先が、寂しげにピコピコと動いた。笑いで雰囲気を保ちつつ、幼少期のクワガタの話をする。小指の先がなくてもあまり不便がないことや、気にしていないことを簡単に説明する。心の底から気にしていないのだが、その事が意外だったのか彼はあっけらかんとしていた。そして、一言。

「先生、変わってますね」

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狂ってる 七戸寧子 / 栗饅頭 @kurimanzyuu

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