第10話

「おい、そこの娘。この窮地を脱したくば、おれに掴まれ」

 そう――誰かとは、まさに目の前の狼自身だったのだ。

 その提案に従うのか拒むのかを論じる以前に、そもそも狼が何かしら人の言葉を喋って語りかけて来たという事実を冷静に受け止める必要があった。

 疲れ切って幻でも見ているのでは、とすら疑ったが周囲の兵士たちも一様に狼を不審な目で見ていたから、彼女一人の幻聴とも言えなかった。

 そもそもこれは彼女にとって窮地と言えたのだろうか。窮地に立たされているのは、殺せと命じられた狼の方では無かったか。

 だが狼はと言えば、おのが身の危険を感じて怯えている風でもなく、包囲も気にせずにゆっくりと前に進み出てくる。取り囲む兵士達も、それに合わせてじりじりと後ずさる。

 狼は果たして何をしようとしているのか……そう、それはまっすぐに、ハリエッタの方に近づいて来ているのだ。

 ハリエッタが後ずさっても気にせず距離を詰めてくる。人語を解するとは言え獣を前に急に走り出すのはまずいという思いもあった。どうしたものかと思案を巡らせているうちに、いつの間にか狼はハリエッタのすぐ傍らにあり、そんな狼を包囲する兵士達に、ハリエッタもまたすっかり一緒に取り囲まれてしまっていたのだった。

 狼のいう、窮地というような状況が、ここに来て狼のおかげで成立してしまったようであった。

 何より……狼を殺せと言ったガレオンが、狼を見る険しい眼差しで、ハリエッタの事も一緒に睨み付けていたのだ。彼女に下がれとも言わないし、兵士達に彼女の身を助けろとも言わなかった。

「ガレオン殿……?」

「仕留めるのだ」

 ガレオンが冷徹に命令を繰り返す。あくまで狼だけのことを言っているのかどうか、命ぜられた兵士達の側にも少なからず疑問符が浮かんでいるようでもあった。

 となれば、もはや迷ったり戸惑ったりという猶予も彼女にはなかったのかも知れない。

 だから、ええいと覚悟を決めて、促されるまま狼の首すじにしがみついて、その背中に揺られるままに身を預けたハリエッタだった。

 ……が、わずか三秒後にはその判断を後悔していた。

 狼は一目散に森の茂みに飛び込んでいくと、そこから先は彼女にしてみれば飛び降りるも同然の急斜面だった。狼は器用に足場を飛び伝って駆け下りていくが、ハリエッタは生きた心地がしなかった。

 狼なりに道を選んではいたのだろうが、背に揺られる身にはやみくもに駆け通していただけにしか思えなかった。

 一息ついて狼が足を止めるころにはうっすらと霧に似た細かい雨で森はけぶっていた。

 空気が恐ろしく冷たく感じられて、ハリエッタは思わず狼の背のふさふさした毛並みに身を預ける。

「それで、これからどうするんだ」

「どうする、というのは……?」

「さっきの男らとの話、立ち聞きするのもなんだが少し聞かせてもらった。お前はあのヴェルナー砦に行きたいんだな? このまま一人で砦に行くつもりか?」

「他にどうするあてがあるとでも? ……そもそもあの状況であなたに助けてもらう道理が分からない。どうして姿を見せたりしたの」

「通りすがりに困っているように見えたから助けようとしただけだが、迷惑だったか?」

「別に、引き留められていただけで無理やり捕らえられてたわけじゃない。それよりあなたが姿を見せたせいで、あのガレオンはすっかり私があなたの仲間だと思い込んじゃったみたい。おかげさまで余計に話がこじれてしまったわ」

「ふむ。だったら、あいつらはこのままこの森でお前や俺を探しに来るかな……?」

「さて、ここまでくれば、猟師でもない限りは容易に足を踏み入れられないような場所に来てしまったように思うけど。それより、彼らはいったん荘園の方に戻るんじゃないかしら。私がいないのに砦に行く理由がないし……」

 ハリエッタはそこまで思案して、そもそも一番先にしなければならない質問があるのに気づいた。

「それより、そもそもあなたはいったい何者なの? どうして狼のくせにしゃべっているのよ」

「失礼な。おれはただの狼じゃない」

 そういって、狼はハリエッタから少し距離を置く。すっく、と後ろ足で器用に立ち上がったかと思うと、その姿には少しずつ変化が。

 やがて狼は、一人の青年に姿を変えた。

「……人狼!?」

 ハリエッタは思わず息をのんだ。

 怪異はそもそもあの砦で死せる兵隊たちに遭遇していたから、今更何が出てきてもおかしくはなかったかもしれない。狼がしゃべることも、それが人狼だったことも驚くには値するだろうが、その時のハリエッタが激しく動揺していたのはそれだけのせいではなかった。

 狼が人間に姿を変えるのはまだいい。

 その狼がそもそも服を着ていたわけでないのなら、姿が人間に転じたところで一糸まとわぬままであってもやむを得ないところだった。

 つまりは、目の前にいる青年はうら若きハリエッタの目の前で、まさに全裸で立ち尽くしていたのだった。

 怒りとも恥ずかしさともつかない動揺で全身がわなわなと震えるのが自分でもはっきりと分かった。何も包み隠さないその裸身に、その目が釘付けになればよいのかそれとも慌てて目を背けるべきか、それすら正しい判断が下せずにいた。

 あまつさえ、先ほどまで彼女は毛並みを撫で顔をうずめたりまでしていたのだ。

 恥ずかしくて死にたい、とはまさにこのことだった。むしろ彼女はその場で、年頃の乙女らしく悲鳴の一つでもあげていればよかったのに、それを無駄に我慢するからこそ逆に動揺とも後悔とも、何とも説明のつかない憤怒に似た情感がこみあげてくるのを止められないのだった。

 やれやれ、と短くこぼして、人狼はふたたび狼の姿に戻った。

「おれもこっちの方が楽と言えば楽だ。おまえもこの方がいいだろう」

「と、とにかく! 私はいったん荘園の方に戻る! 屋敷で待ってる父さまと妹のことが気にかかるわ」

「道はわかるか?」

「分かるわけないでしょう!」

 思わずけんか腰に叫んでしまった。狼は、それは結構、と豪快に笑ったかと思うと、また先ほどのように背に乗るように彼女を促すのだった。ハリエッタの脳裏に先ほどの裸身がよみがえったが、ぶんぶんと首を横に振って、またその背中にしがみついた。

 しとしとと雨の降る中、二人は――一人と一頭は、山道を伝ってクレムルフトの荘園にまで戻っていくのだった。



(第3節につづく)

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