第9話
「ハリエッタ殿。あなたには申し訳ないが私はこのまま一度荘園に引き返した方がよいように思う」
「なんですって?」
「正直、私は父があれほど律儀な忠義ものだったというのが実に意外でして。命令が下った以上は兵を出さざるを得ないゆえ、ここまで来ましたが、砦が迂闊に足を踏み入れる場所ではないことは父にしてもよく承知しているはず。手勢の者たちに、わざわざ危ない目にあえと命令を下すのもためらわれるところです」
「では、姉を見捨てろと?」
「むろん手をこまねいているばかりではない。ここから早馬を飛ばして、ファンドゥーサの駐留部隊に救援を願い出るのです。これまでは真面目に取りあってもらえませんでしたが、クリム家の令嬢が消息不明とあれば重い腰を上げてくれるでしょう」
ガレオン・ラガンの言い分にはどうにも納得しかねたが、彼がそのように言うのも仕方がないところだった。もともとクリム家が領主であると言っても、実態は文無しになって転がりこんだ厄介者であるから、必ずしも歓迎されないであろうことはあらかじめ覚悟していたことだった。救援を願い出た時点で、そもそも突っぱねられていてもおかしくはなかったのだ。
その上でガレオンの提案について思案を巡らせる。仮に彼の言う通り早馬を送ったとして、それがファンドゥーサに到着し、王国軍がこちらの言い分を聞き入れて出兵を即断してもらえたとしても、実際に砦に救援部隊がやってくるまで何日かかるのか分かったものではなかった。出兵の可否を決めるのにぐずぐずと日数を要することも想定できたし、ましてや出兵しないと結論が出たり、そもそも最初から門前払いを食う恐れもある。その場合はやはりこの場にいる面々で砦に乗り込んでいくしかないのではあるまいか。
だったら、ここで二の足を踏んでいるガレオンが、王国軍の救援が出る出ないの結論が出たあとで快く手を貸してくれるかどうかも怪しかった。そうこうしている間に、姉の身に何が起きるか分かったものでもなく、何も起きなかったとしてもあの呪われた骸骨どもが虜囚にいちいち水や食料を与えてくれるとも思えなかった。
「……分かりました。そういうことでしたら、致し方ない」
「では、荘園に戻りましょう」
「いえ。ここまでの同道には感謝します。ここからは私一人で行きます」
そう言ってハリエッタはすっくと立ちあがり、愛馬ミューゼルの元に向かった。
「おやめなさい、あなた一人で行ってどうにかなるものでもありますまい」
「ひとたびは無事逃げ出してこられたのです。あの時は老いた父も一緒でしたが、まだ私一人の方が身軽やもしれません」
「あなたの身に何事かあれば私が父コルドバに顔向け出来ません。砦行きに関してはああ申し上げたが、だからといって好きにしろとは到底言えるものではない」
ガレオンは部下たちに、ハリエッタを引き留めるように促した。手下の兵士たちは寄ってたかって、馬上にまたがろうとするハリエッタに手を伸ばし身柄を無理やりに取り押さえようとする。
その時だった。
ハリエッタは向こう側の木立の奥、茂みの向こう側に、ふとこちらをじっと見ている視線があることに気づいた。
誰……というか、何者?
彼女の注意がそちらにとられたのにつられて、兵士たちも思わず木立の向こうの闇を見やる。一同がじっと見守る中、その場にのっそりと進み出てきたのは、一匹の狼だった。
その場の一同が息をのんだのは何もそれが牙と爪をもった獣であったという一点だけではなかった。無論ただの狼であってもそれは十分に警戒すべきだったのだが、その場に現れたのは本当に狼かどうか目を疑うほどに、通常のそれよりもゆうに一回りは大きな体躯をしたいかにも恐ろし気な猛獣だったからだった。
これに襲われでもしようものならばひとたまりもない、と誰しもが身の危険を覚えたことだろう。ハリエッタもそうだったし他の兵士達もそうだっただろうが、どうもガレオンだけは少し違った所見を抱いたようだった。
「そうか。やはり、そういうことなのか」
何かを達観したかのように乾いた高笑いを響かせたかと思うと、ガレオンはおもむろに、配下の者に命じたのだった。
「その狼を殺せ。仕留めるのだ!」
さすがに手下達もそれには面食らった。土地柄狼などまったく見た事もないとは言わないが、そのような猟師の真似事に必ずしも通じている者ばかりではなかったのだった。
それでも命じられるままに、部下達は剣を抜いて狼を取り囲んだ。
とは言え一斉に踊りかかればよいというものでもなく、互いに顔を見合わせて機を掴みあぐねているうちに、誰かがハリエッタに向けて語りかけてくるのだった。
「おい、そこの娘。この窮地を脱したくば、おれに掴まれ」
そう――誰かとは、まさに目の前の狼自身だったのだ。
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