【小説】蘭学医・松田玄紅の死

紀瀬川 沙

本文

「後藤殿、これをいかに見る?」

 暦の上ではもうすっかり春だというのにやけに冴え返ったある日、激しい風に砂ぼこりが舞う千住小塚原の刑場で、江戸の蘭学医・松田玄紅は目を丸くして傍らの同僚に聞いた。松田はここ半年ものあいだ病魔にさいなまれ続けていたが、今日はせっかくのこの機会を逃すまいと病を押してここまで来ていた。

 彼にこう問い掛けられた同じく蘭学医の後藤好庵は、眼下の凄惨たる景色をぼう然と眺め、答えるべき言葉を失っていた。しばらく沈黙した後、後藤は辛うじて

「むむ、それがしが昔長崎で見たのと、確かに同じ様子ではあるが、しかし」

と絞り出した。そして以後、何かを必死にこらえるように顔をこわばらせ、再び黙りこくった。

 体を縦にさばかれて彼らの眼下に横たわる罪人の死骸は、先の斬首によって人としての存在を否定され、今に至ってはこの開腹によって人である(あった)ことを証明されていた。彼は重罪人ではあったが人なれば当然のことながら、後藤好庵がかつて長崎で紅毛人の医師の執刀に立ち会って見た、屋根から落ちて死んだ大工の体内にあった臓物とまったく同じものを備えていた。

 後藤は以前に一度だけ人の腹中をのぞいたことがあるといえども、その時は紅毛人の医師が刃を握り、彼はその少し後ろで今にも卒倒しそうな気分のまま立ち竦んでいたのだった。

 だが今の彼は、同席する松田の手前、いかにも平静を装って、今にも嘔吐を催しそうな光景を痩せ我慢しつつ堪えていた。後ろでは、離れたあばら屋へと罪人の首を運び終えて戻ってきた同心が、どう見ても奇妙なことをしている彼ら二人とあえて距離を取って立っていた。同心が一つ大きく咳き込んだ。これは明らかに刻限を気にし、彼らを急かすためのものだった。

「ふう、ひとまずは図絵に写し終えましたぞ。さて、ここから」

 背後の同心の様子なぞ気に掛けることもなく、松田は衰弱して今や枯れ枝のように細くなっている腕を震わせながら、墨のかすれた筆を紙から上げて言った。

「うむ。あの本に書かれた臓物の位置図とだいたい同じでありますな。見ておいて良かった」

 後藤は、臓物の中でも最も特徴的な心臓や肺臓を指差しながら答えた。これを聞いた松田は、

「後藤殿、今、漢方の人体図をお持ちか?ちょっと見せていただきたい」と頼んだ。禁書とされた蘭書を携えて来ることはさすがに憚られたので懐に隠していたが、漢方に用いるこちらは特に差し支えもなかったので、後藤は一枚の古紙をおもむろに取り出した。お目付け役も兼ねる背後の同心は、禁書に関する知識はないと見え、特に二人が警戒すべき存在ではないようだった。

「こちらじゃ。やはり、大部分が違っておりますな。ターヘルアナトミアのほうが正確でござった。今日の成果はこれだけで十分ではござらんか?まだ何か?」

と言って、既に一刻も早く罪人の腹を閉じたいと思い始めていた後藤は、半ば文句を言いながら、ところどころ千切れかけている古紙を松田に手渡した。

「いや、まあまあ、しばしお待ちくだされ。せっかく腑分けのお許しが下りたのでござる。このような機会は今後二度あるかどうか分かりませぬぞ。この図絵における五臓とは、えっと、心、肺」

 こう言って松田は、最近になって食欲の減退が著しく極度に痩せた喉を引き、これもまた極度に近視の老眼を凝らして漢方の人体図を見た。後藤はこの遅々たる様子に業を煮やし、さらには松田が図絵を参照しながら指し示す臓器が先ほど自分のいちいち指し示したものであったことにもなおさら苛立って、

「こちらから、心、肺、肝、腎」と言っててきぱきと指差していったが、最後の脾にいたって突如として言葉に詰まった。両者が揃って見つめる先には、胃を真ん中にしてその後方左右に位置する大小二つの臓物があった。

「して、脾臓はいずれでござろう?こちらか?」

 松田は膵臓を指して後藤へ尋ねた。

「ううむ、いや、長崎ではあの異人は何とも言っておらなんだ」

 後藤は苦しそうに答えた。

 明言を避ける後藤にわずかに呆れるようにして松田は、

「それでは分からぬも無理はござらん。いかんせん、二つの区別が漢、蘭のいずれの書物においても記されておらぬゆえ、分かりかねる。こちらかもしれぬし、こちらかもしれぬ」

と言った。そう言って最後に松田が指差したものこそが脾臓であったことは、誰も知る由もない。


 日はだんだんと西へ傾き始めていた。その時、乾いた細かい砂を無数に巻き上げた風が、突然刑場を吹き抜けた。目を刺す砂塵と肌を刺す寒風に二人は身を縮めたが、二人の間に横たわる死骸は、身にしみる様子もなく依然石灯籠か何かのように硬く微動だにしなかった。

 すると、しばらく考え込んでいた松田は、背後にいる同心に気兼ねすることもなく、一冊のターヘルアナトミアを持っていた麻袋からぞんざいに引き出して、罪人の開かれた腹と蘭書とを交互に参照し始めた。もとより同心は臓物露わな亡骸及び彼らのほうを見ることもしていなかった。

「パン、ク、クリーア、ス、とか申すものが脾臓を表しておるようですな」

 松田は解さないオランダ語を、ついこのあいだ習得したアルファベットを頼りに読み上げた。

「うむ、おそらくそうでござろう。もっとも、松田殿は長崎へ遊学なさっておらぬからご存知ないかもしれぬが、この二つの区別など、異国ではとうについておるゆえ、今さらそれがし等が見分けたところで」

 後藤はいよいよ自らの不快を露骨に表すにいたった。かつて人体を解剖するところに立ち会った時に耐えることができた時間をはるかに超えており、後藤は松田の懲りずに遅い作業に腹を立てていた。そして、ついつい口調はとげのあるものへと変わっていった。

「松田殿、いくら罪人とはいえども人の亡骸にかようなことをして、貴殿は神仏のばちを」

 後藤は蘭学者には似つかわしくないことを言い掛けた。しかしこの時、かなたより走ってきた他の同心が、

「もしもし、もういい加減に刻限が。よければもうやめにしてください」と、後藤の言葉を遮るように呼び掛けた。

「はいはい、もうすぐ終わりますので」

 ここでようやく松田はターヘルアナトミアをもとの麻袋へと隠して応答した。

「とにかく、今日はなかなかの収穫でしたな。それではいったん帰って、また半月後の会合までにおのおの調べておくことと致しましょう」

 松田は満足げに後藤に言った。

「あ、ああ」

 後藤はつぶやくような小声で賛同した。もはや彼は視線を亡骸からそらして久しかった。ただ刑場を囲う木の柵のかなたを眺めていた。木の柵の向こうでは、物好きな町人達がこちらを見遣っていたが、この遠さである、向こうからはこちらが何をしているかなどうかがい知ることもできなかった。

 その日は二人ともこれで切り上げた。滅多に許諾の下りない腑分けに際して融通してくれた与力や同心に逐一礼を述べてから、二人は帰路についた。

 帰り際、後藤好庵の沈鬱な表情にくらべ、おそらくは彼よりも生い先短いであろう病躯の松田玄紅の、探求心をくすぐられて快感すら覚えているような表情が印象的であった。


 小塚原の刑場での腑分けから数日後、松田玄紅は自邸の書斎でひとり書を読みながら、更けゆく夜を過ごしていた。腑分けの日の嬉々とした表情から一転して、書を読んでいる時の彼の気難しい顔つきは、数日来の疑問がいっこうに解決していないことを容易にうかがわせた。

 人の胃の後方左右にある、二つの臓物を区別するための記述が、和・漢・蘭どの書籍をひもといても見当たらなかった。目下の大きな謎が解明されないままでいることは彼にとって苦痛極まりなかった。一日や二日はまだ我慢できたが、今ではもう我慢も限界に達していた。と同時に、松田が自らの膨大な蔵書をかたっぱしから読んでなお、解決できないということは、腑分けに同席した他の者による解決は期待できないということをも意味していた。

 したがって、成果がなくとも次の会合では誰も松田を責める者はいないであろう。しかし彼自身が、謎を謎のままにするのを許すことができなかった。

 夕食を済ませてすぐに書斎へと引きこもり、もうずいぶんと長い間書に目を通し続けていた松田は、揺らめく蝋燭の明かりにふいに目の疲れを覚えた。遅くなってしまったが彼は今日の日記に、昨日と同様簡潔に、「目下の難題、いまだ分からず」と書き付けた。そこへ、床張りの廊下を足音うるさくこちらへと来て、書斎の外で一度立ち止まった者がいる。続いて発音に陸奥のなまりの残る女の声で、

「まだ起きてらっしゃいますか?」との声が掛かった。

「・・・・」

 日記をつけた後も、謎を解くための最後の抵抗としてオランダ語の辞書をにらみつけていた松田は、女の声が聞こえていたが邪魔だったので無視をした。次いで彼は、机のわきの、いまだ解読できていない文字の羅列が記された異国の医学書へと目を移した。すると、書斎の外では、

「もしもし、あのう、明日も早いですし、私はお先に」

という控えめな小声がした。そう言った女は恐る恐る松田の書斎をのぞき込んだ。その途端、彼は調べ物を妨害された怒りから、持っていたオランダ語の辞書の背を強く机のへりに叩きつけた。大きく発せられたその乾いた音と、続く彼の大げさに咳き込む音は、彼女を飛び上がらせて寝床へと退散させるには充分であった。生涯一度も妻を持たぬ彼は、今の田舎出の女中一人だけを自邸に置いて老年を過ごしていた。だがそれも必要最低限、家の用事をこなしてもらうためだけであった。

 松田は、彼女の代表されるような庶民の無知を軽蔑している。必死でオランダの医学を学ぼうとしている彼から見れば、ひとたび腹を開けば自分及び他者すべてに平等に備わっているはずの臓器さえ知らぬ人々は、どうしても愚かで劣ったものに見えた。頭脳を積極的に駆使せずに、ただ生きているだけのように見えた。無論これらは松田がでっち上げた偏った考えであったが、彼は誰にも反論、訂正されることなく今や老人となっていた。

 女中が去った後、松田はおもむろにめくった医学書のページの上に、なんと腑分け以来の疑問を解決する決定的な記述を見つけた。それは全文がオランダ語であったが、図絵による解説を見てもそれが胃と左右二つの臓器、つまりいずれかが脾臓とおぼしき二つの臓物を集中的に説明するものであることが見て取れた。にわかに彼は喜色満面となって、正座する腰がわずかに浮いた。

 一つ咳き込んで、松田が改めて辞書を頼りにそのページを読もうとした時、彼はそのページの上に付着している鮮やかな吐血を発見した。どうやら自らのものであるらしい。この時初めて、彼はここ最近少し病躯を酷使しすぎたかと思った。だがこれを読めば、過労の原因となっていた疑問も解決するのであるから、明日からは少しは休むことができるなとも思った。

 その直後、彼は今日何度目かの朦朧に襲われた。何か思おうとしたができず、そのまま彼は机に突っ伏して意識を失った。そして松田は永久に目覚めることはなかった。あくる朝あの女中が彼の定刻に起きてこないのを不審に思ってここへ来るまで、今しばらく彼はこのままであろう。

 それは典型的なすい臓がん患者の死であった。江戸をなめるように焼き尽くした大火の前年、彼はひっそりとこの世を去った。その日のものが、長年つけ続けてきた彼の日記における最後の記述となった。

 折から、どこからか夜更けをしらせる梵鐘の音が、うら寂しく聞こえてきた。


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