第162話 ※薔子視点

「ほい」


暗くなったロビーで一臣に缶コーヒーを差し出され、由衣は素直に「ありがとう」と受け取った。


「頭を強く打った後、一時的に記憶が混乱するのは、よくあることなんだってさ」


「うん」


一臣の説明に、由衣は力なく頷いた。


「入院の手続もしといたから、今日はもう帰ろう。どっちにしろ部屋に戻って、あいつの着替えとか持ってきてやらなきゃ」


鍵は持ってる?と聞かれ、由衣は代わりにこう言った。


「前田さん。あなたに頼みたいことがあります」


一臣は苦笑とも微笑ともとれる複雑な表情をした。


「何かその台詞、前に聞いたな。俺があんたに言ったんだっけ」


「こんなこと私に頼まれる筋合いもないし、迷惑なのは分かってます。お礼も何もできないし。でも、もう、あなたしか頼む人がいないから」


「いいよ。何?言ってみて」


促されて、由衣は切実な目で言った。


「高遠のそばにいてあげて。それと……高遠と二人で、芽衣を守ってあげて。お願い」


「芽衣っていうのは、俺が知ってる清瀬芽衣さんのこと?」


由衣が頷くと、一臣は重ねて問うた。


「どうして君が俺に芽衣さんのことを頼むの」


「妹なの」


言った途端、堪えていた涙がこぼれて、ひとしずく床に落ちた。


「大好きなの……守ってあげて。私の代わりに。高遠と一緒に」


「愛してるんだな」


一臣は静かに言った。


「高遠のことも、妹のことも」


由衣はもう一度頷いた。


言葉にするつもりはなかった。


今までたくさんの嘘をついてきた、この唇は汚れているから。


「分かった、約束する」


一臣が請け合うと、由衣は消え入るような声で言った。


「ありがとう……」


そして完璧な美しさで一礼すると、踵を返して廊下を歩いていく。


「止めてやるべきなんだろうな、親友のためには」


一臣が呟くが、由衣は振り返らなかった。


「……でも、あんたのために、俺は止めない」


どれだけあいつに恨まれようとも。


一臣がそう言ったのか、心の声だったのかは分からない。


ただ、由衣は顔を上げ、真っすぐに歩いていった。


――自分に用意された、ただ一つの道を。



















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