第141話
係員に声をかけられて出口まで誘導され、建物を出ると、名残惜しそうに由衣は水族館を振り返った。
「初めてだったの、こういう場所に来たの」
「水族館?」
キーのボタンを押して車のロックを解除しながら高遠が尋ねると、薔子は「うん」と頷いた。
「水族館も美術館も博物館も遊園地も、子どもが行きそうなところ全部。親も連れていってくれなかったし、修学旅行も行けなかったし」
ドアを閉めると、薔子は高遠のほうを見て言った。
「だから、ありがとね。本当に楽しかった」
「うん」
高遠は素っ気なく応じる。
そのままエンジンをかけず静まり返った車内で、何事か考え込む。
「……あのさ」
不自然なほど長い沈黙の後、ようやく切り出すと、
「ん?」
「俺さ……」
言いにくそうに口ごもり、無駄な咳払いを繰り返す。
いつもの由衣なら茶化してくるところだったが、なぜか彼女は黙って高遠の言葉を待っていた。
「俺の母親、六歳のときに目の前で死んだんだ。俺をかばって、トラックにはねられた」
「高遠のせいじゃない」
由衣は即座に言って、高遠の手を両手で握った。
高遠は驚いて目を丸くしたが、ややあって軽く笑った。
「いや、そういうことじゃないんだけどな。ただ、六歳って、もう物心ついて記憶もしっかりしてるから、倒れてる母親の姿とか、死にかけていくときの呼吸とか目の色とか、流れた血が絵の具みたいにべっとりしてたこととか、そういうの、かなり詳細に覚えてるんだよ。忘れようと思っても多分、一生忘れられないと思う」
そんな境遇自体を憎んだこともあった。
あのとき自分も死んでいれば、どんなに楽だっただろうと。
助けてくれた母親にさえ、何て重い荷物を背負わせてくれたんだと心の中で責めた。
でも高遠は生き残ってしまった。
どうせ忘れることができないのなら、だましだまし記憶と折り合いをつけてやっていくしかない。
諦めだけを瞳の奥に蓄えて、妥協するすべを覚えた。
「悲劇に浸りたいわけじゃないんだ。でも、起こったことは事実だから。それがずっと俺の心の根元にあって、今も。だから、誰かがいなくなるのが無性に怖いんだ」
いつしか由衣が握っていた手を、高遠は握り返していた。恐ろしいくらいの強さで。
「怖いんだ。怖くてたまらないんだよ。だったら最初から誰とも深くつき合わなきゃいいと思ったけど、人とつながらなくても生きていけるって自分に言い聞かせてきたけど、もう限界で。駄目なんだ。もう逃げられない。
だって、そんなの無理だから。みんなと薄くゆるくつき合っても、ますます怖くなるだけだった。ずっとひとりで、一生ひとりきりなんじゃないかって、俺には誰もいないんじゃないかって思うと気が狂いそうになる」
由衣は助手席から身を乗り出して、高遠を抱きしめた。
彼の全身が震えているのが伝わってくる。
「大丈夫。私がいるよ」
耳元で由衣はささやき、高遠の頭をなでた。
「ずっとそばにいる」
高遠はいきなり顔を上げて、由衣に口づけた。
由衣は抵抗せずに目を閉じて身を委ねる。
二人の頭上には満天の星空、きらびやかな光が祈りのように大地に降り注ぐ。
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