第119話 ※薔子視点

洗面台に頭を打ちつけるまで、由衣は何が起こったのか分からなかった。


思考が停止し、脳内が麻痺し、恐怖で体が動かなくなる。


倒れた由衣の頬に、父はもう一度平手打ちをした。


――怖ろしかった。


翌日、父が家を出ていったのを見計らって、由衣は泣きながら母に訴えた。


残り物のくず野菜で炒め物をしていた母は、振り返って泣きそうな顔をした。


「ごめんね。ごめんね由衣」


よく分からないまま抱きしめられて、由衣は事態がこれ以上好転する見込みはないと知った。


母は夜中に酔っぱらった父に暴力を受けている。


夜中まで起きていて、聞き耳を立てていると、ようやく事実が見えてきた。


「逃げよう、お母さん。私と芽衣と一緒に」


何度もそう訴えたが、母は悲しそうに首を横に振るだけだった。


「どうして?」


「仕方ないよ」


そう答えた、それは母の口癖だった。


苦しいことや辛いことが起きたとき、そう言ってやりすごすのが母のやり方らしかった。


「芽衣、行こう」


十歳の冬、妹の手を引いて家を出た。


親戚も知り合いもよすがはなく、あてどもなく町をさまよった。


歩き疲れて、芽衣は泣き出した。


「お母さんのところに帰りたい」


十歳の自分、七歳の芽衣。行く場所なんてどこにもない。


どうあがいても、保護者なしには生き延びられない。子供は無力だ。


家に帰ると、二人そろって父親に張り飛ばされた。


芽衣が机の角に頭を打ちつけて、額からシャワーのように血が噴き出した。


病院に連絡しようとする母を父は力ずくで押し留め、糸と針で縫合しろとわけの分からないことを言った。


止血しようと押さえたタオルは血で真っ赤に染まった。


矢も楯もたまらず父に懇願して、ようやく町の診療所の夜間救急に飛び込んだ。


縫合が済むまで芽衣の泣きじゃくる悲痛な声はとまらず、母は疲労の蓄積した横顔でうなだれていた。

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