第107話 ※薔子視点

***薔子視点***


災厄は、何の前触れもなくやってくるものだと薔子は知っていた。


だが、午後九時を過ぎたころ、クラブ『幸』の店先に彼の姿を見たときは、さすがに体が震えた。


今まで何度も何度も悪夢に見て、心の中でシュミレーションし、いつかこうなるのではないかと覚悟していたことだった。


それでもこんなにあっさりと起こってしまうと、最初の十秒ほどはいまいち感覚が麻痺して現実味を帯びてこない。


ようやく理解が追いつくと、急激な恐怖が全身を突き刺す。


とにかくこの場から逃げ出すことしか考えられず、悲鳴を押し殺すのに精いっぱいになる。


「いらっしゃいませ」


幸乃は落ちつき払って言った。


その視線を素通りし、男は薔子に一ミリの狂いもなく瞳の照準を合わせていた。


「会いたかったよ、由衣」


美しい音の響きが、薄い唇から流れ出す。


「また綺麗になったね」


ああ、この声――薔子は唇を噛みしめた――七年前と何も変わっていない。


――分かってた。いつかこんな日が来ると。


心の内で呟きながら、薔子は瞳に映るもの全てにさよならを告げる。


幸乃とヤスに微笑みかけたつもりだったが、うまくいったかどうかは分からなかった。


「言ったろ。由衣は必ず俺のところに戻ってくるって。また会えると思ってたよ」


彼が一歩足を踏み出すごとに、薔子は命の縮まる思いだった。


背が高く浅黒い肌をした、メランコリックな雰囲気の男性である。


切れ長の目は穏やかで、薄い唇から覗く歯は真珠の粒のように白く輝いている。


まだ三十代と思われたが、彼には不思議と周囲を圧倒するだけの威が備わっていた。


「お客様」


二人の間に割り込んだのはヤスだった。


「恐れ入りますが、当店は完全予約制になっております。予約のお済みでないお客様はご入店いただけません。ご容赦ください」


丁寧だが反論を許さない口調で彼は言い、骨格のしっかりとした体で薔子を覆い隠すように壁をつくった。


そのまま手で店の出口を示し、帰るよう促す。


彼は抵抗することもなく、気味が悪いほど素直に従った。


ねっとりと粘りつくような視線が体中にこびりついている。


ドアが閉まってからしばらくすると、薔子は床に崩れ落ちた。


「薔子」


駆け寄ってきた幸乃に、


「ママ……ごめんなさい」


蒼白な顔で薔子は無理に笑おうとした。


唇まで青ざめ、歯を鳴らして震えている薔子を、幸乃は強く抱きしめた。


「今日はもういいから帰りなさい。それで、しばらく店を休みなさい。いいね?」


「でも……」


力なく薔子は言いかけたが、その両頬を手で挟んで、


「いいから。私が何とかしてあげるから、心配せずに待ってなさい。ね。絶対大丈夫だから」


薔子はうつむいた。


唇を引き結んでいなければ、もう少しで泣き叫んでしまうところだった。


「ごめんなさい、ママ……」


細い肩から腕を回し、幸乃は薔子の背をさすった。


「大丈夫。大丈夫だからね」


そして幸乃は、こちらを見つめているヤスに向かって、小さく頷いてみせた。

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