第106話

「お姉ちゃんは鬼です。悪魔なんです。だから」


「でも、君にお金を積み立ててくれた。それは事実だろ」


わざと冷淡を装って、高遠は強い力で芽衣を引き剥がした。


芽衣の瞳がたじろいだように揺れる。


「それは」


息が詰まって、少し咳き込んでから言った。


「お父さんを殺した被害弁済のお金です。私は被害者ですから」


被害者。


その単語が高遠の脳裏を刺激して、遠い記憶を呼び覚ます。


地に倒れ伏した母と、夥しく流れる血。


ガソリンの匂いと、エンジンのうるささ、口の中で砂利と唾と血の混ざり合う味。


――母さんも俺も被害者だ。償うべき罪なんかない。


――なのに、どうしてこんなにも苦しいんだ?


「お姉ちゃんさえいなければ、お父さんは死なずにすんだ。お母さんだって、病気が悪くなって死ぬこともなかった。今ごろ私は、もっともっと幸せに暮らせてた。なのに、全部全部、お姉ちゃんが壊したんです」


その言葉を背後に聞きながら、高遠は鍵を開けて家の中に入った。


「薔子?」


綺麗に片づけられた室内、シンクまでぴかぴかに磨き上げられた台所、干された洗濯、髪一本落ちていない洗面所と風呂場。


おまけにトレードマークのボストンバッグは、ベッドの脇という定位置から姿を消していた。


動悸が激しくなり、胸が不安にむかつき始めた。


目の前にあったものがいきなり消えてなくなる、あの感覚。


どこまでも落ちてゆくような空虚と絶望感。


高遠は踵を返し、部屋を出ようとした。


そこに両手を広げて芽衣が立ち塞がる。


「行かないで」


彼女の形相は鬼気迫るものだった。


「もう二度と、お姉ちゃんと関わらないで」


「それはできない」


高遠は芽衣を押しのけた。


彼女は抵抗し、床に尻もちをつく格好になった。


「高遠さん!」


泣きじゃくりながら芽衣は叫んだ。


「高遠さん!!」


――薔子に会いたい。


――会って俺は、聞かなければいけない。


なぜ自分の父親を殺させたのか。


彼女が一体、何を望み、何を欲し、何を恐れ、何を拒み続けているのか。


彼女の言葉で、全部。


心臓は爆音を立てて鳴り響き、血管に猛烈な嵐が吹き荒れ、緊張と不安に胃が収縮している。


でも、まだ大丈夫だと、高遠は自分に言い聞かせる。


――あいつは生きている。


――捜し出して、母さんが俺を守ってくれたように、今度は俺があいつを守るから。


だから。


それまでは、頼むから死なないでくれ。














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