第103話

高遠が美容室『ノアズ・アーク』に入店すると、辺りの空気がにわかに緊張感を帯びた。


「おはようございます」


挨拶して頭を下げると、おざなりな返事や気まずげに目を伏せる者、曖昧な笑顔が浮かべられる。


「小村君」


チーフの三船が、険しい表情でこちらに向かって手招きした。


「ちょっといい」


通されたのはスタッフルームの奥にある店長室で、中には三船だけでなく店長とマネージャーの姿もあった。


居並んだ彼らの顔を見ていれば、昨日の事件が伝わっていることは容易に窺い知ることができた。


「このたびは、ご迷惑をおかけして申しわけありませんでした」


高遠は深々と頭を下げたが、二人の視線は冷ややかなままだった。


「何があったか知らないけど、ああいう揉めごとは困るんだよ」


店長の男性が渋い顔で言う。


「こっちも客商売だからね。昨日のこともブログやツイッターで拡散されて、噂はあっという間に広がってる。小村、お前の手じゃ収束できないだろう」


「そこでだ」


と、口を入れたのはマネージャーだった。


「大きな問題になる前に、こちらとしても早急に手を打たなければならないと考えてる。君、相手と話はつけられそう?」


こちらの言い分を全く聞こうとしない二人の態度には腹が立ったが、隣で意気消沈している三船を見ていると胸が痛んだ。


くすぶっていた反抗心が小さくしぼんで消えていく。高遠は無言で首を振った。


「だったら今後は、相手方に接触の機会を与えないようにするほかないだろうね」


ごくシビアな表情でマネージャーは言った。


「辞めろということですか」


正面切って尋ねると、重々しい首肯が返ってくる。


「千崎さん。せめて、小村の話を聞いてからにしていただけませんか」


三船は目で懇願すると、高遠に向かって、


「何か事情があるなら説明しなさい」


高遠はこの店で五年働いてきた。


三船とは、彼女がチーフになる前からのつき合いだ。


一つ一つ積み上げてきた信頼を、こんな形で失いたくはなかった。


三船にしても、高遠に店を去ってほしくないという気持ちがあるのだろう。


彼女の切実な表情からは、それがひしひしと伝わってくる。


だが高遠は、弁解するすべを持たなかった。

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