第44話

今の薔子は迷惑な闖入者ちんにゅうしゃ、得体の知れない危険人物ではなく、一人の客として彼の前に立っていた。


そのことによって突然、光が差したように見えてくるものがあった。


「今日の夕ご飯、キーマカレーにしようと思うのー。おいしく作るから、帰ったらあっためて食べてね」


入口まで見送ったとき、薔子は少し背伸びをして高遠にそう耳打ちした。


「じゃあねー」


顔の横で手を左右に振ると、彼女は颯爽さっそうと歩き出した。


名残も感じさせない潔さだった。


「薔子」


やむにやまれぬ気持ちに駆られ、思わず高遠は呼びとめていた。


店外まで走って出ていき、二、三歩歩いたところで大きな漆黒の瞳と出くわす。


「なあに?高遠」


まるでずっと前からそんなふうに親しく呼び合っていたかのように、自然な口調で彼女は高遠の名前を口にした。


胸の奥には激情に近いほど鮮やかな感情が渦巻いているのに、喉がつかえて言葉が出てこない。


昼下がりの街並み、道行く人の間をすり抜けて青い風が吹いた。


「……夕飯、サンキュな」


全くもって的外れな台詞だったが、薔子は心得たように頷いた。


胸に手を当てると軽く膝をかがめ、姫君のように優雅に会釈する。


「どういたしましてー」


見送る彼女の後姿は羽がついたように軽く、今にも消えてしまいそうなほど儚かった。














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