そっち側とこっち側

 夏休みに、俺は生まれ変わった。なんと、身長が5センチも伸びたのだ。ここ最近の快挙に、俺の心は踊った。


「あれ? 湊くん、背、伸びたね」


 神様! ありがとう!!


 今ここに神様がいたら、俺は迷わずハグする。


「わかりますか?」

「うん。だって目線がね、違うから」

「紗衣先輩だけですよ、わかってくれたの」


 そうなんだよ。こんなに変わったのに、クラスのやつら、誰も気付かなかったんだよ!

 でも紗衣先輩がわかってくれるなら、いいや。


 それでも彼女との身長差はまだまだある。その事実に無理やり向き合わせられて、幸せな気分が台無しになった。


「そうなんだ。こんなに違うのにね。そういえば……、今日は湊くん、平気そうだね」

「ですよね、違いますよね……って、平気ってなにがですか?」

「いつもさ、慌ててたり、怪我したり、なにか落としたり、忙しそうだから」


 あー、神様、前言撤回します。

 上げて落とすの、やめてもらえませんかね?


 身長の事が頭から消え去り、紗衣先輩の記憶からもダメダメな俺がいなくなればいいと、本気で願う。


「だから、目が離せないのかな」

「……なにか言いましたか?」


 おい俺! なに紗衣先輩の言葉聞き逃してんの!?


 神頼みしていたアホな俺は、慌てて笑顔を作る。そんな俺をじっと見ながら、紗衣先輩がわずかに微笑んだ。


「湊くんは、いつも楽しそうだね」


 笑ってるはずの紗衣先輩の目が、俺を睨んだ気がした。


 ***


 今日はついてねーな。


 相変わらず担任の雑用係は続いていて、思い切ってどうして俺なのかを聞いた。


『青山は責任感あるから任せやすいんだよ。それにほら、可愛い青山と話せるの、俺も嬉しいからな!』


 笑いながら言うなよ。ふざけんな。いじられ慣れてるけど、先生がそれに参加しちゃだめだろ。


 昇降口で急な雨が止むを待ちながら、嫌な思いに心が塗りつぶされていく。

 そんな時、カタリと音がした。


 あ……、紗衣先輩?


 まさかの偶然に、俺の心が晴れる。

 けれどもよく見ると、紗衣先輩の顔は今まで見たどの顔よりも、冷たい表情を浮かべていた。


 なにかあったのかな?

 あ、傘、ないのか。


 紗衣先輩がカバンを探りため息をついたのを見て、俺は動いた。


「紗衣先輩も傘ないんですか?」

「……湊くんも?」


 一瞬驚いた顔をした紗衣先輩が、いつも通りの穏やかな表情になって、俺もほっとして。だからつい、口が滑った。


「そうなんですよ。今日はついてないなーって思ったら紗衣先輩と会えたんで、雨降っててよかったです」


 なに言ってんの、俺!?


 自分の言葉に動揺しながらも、社交辞令みたいなもんだろと、必死に言い聞かせる。

 すると、紗衣先輩の顔が曇った。その事実に、バクバクしていた俺の心臓が、今度は痛みを訴えた。


 なんでそんな顔……。


 好きな人が笑わないだけでこんなにも悲しい気持ちになる事を知った俺に、紗衣先輩の小さな声が届く。


「私なんかと会えなくても、湊くんの世界は変わらないでしょ?」


 えっと……、どういう事だ?


 意味を理解できず言葉に詰まる俺に、紗衣先輩が続けて呟く。


「みんな、そっち側。私は、こっち側」


 あ、これ、最初に紗衣先輩と会話した時、言ってたやつだ。


 この言葉にどんな意味があるのか知りたくて、また話し出そうとする彼女の口を見つめた。


「どうしてみんな、そんなに楽しそうなの?」

「紗衣先輩は、楽しくないんですか?」


 もっとちゃんと考えてからものを言えばいいのに、彼女の心細そうな声をどうにかしてあげたくて、俺は思わず口を開いた。


「うん。だって私には、なにもないから」


 なにもない? なに言ってんだ?

 身長もあって、綺麗で優しくて、ふとした瞬間に可愛くなって。

 これ以上、なにが欲しいんだ?


 俺が好きになった紗衣先輩を彼女自身に否定された気がして、腹が立った。


「なにもないって思ってるのは、紗衣先輩だけじゃないですか?」

「……友達みたく、好きな人もいない。勉強だって、そんなにできるわけじゃない。夢だって、なにもない。みんなが当たり前に持ってるもの、私はなにも持ってない」


 雨音にかき消されてしまいそうな、初めて知る彼女の本音に、胸が苦しくなる。


「だからね、私が取り残された世界は、毎日退屈で、ちっとも、楽しくない」


 紗衣先輩が言ってたそっち側って……。


 ようやく俺が意味を理解した時、彼女の口からも答えが出た。


「どうしたら私も、みんなみたく、キラキラしたそっち側の世界に行けるのかな?」


 涙は出てないはずなのに、まるで泣いてるような顔に見えて、俺は思わず手を取った。


「なに?」

「じゃあ今から紗衣先輩の言う、キラキラした世界に行こう」


 今日の俺、最高についてる。


 そう思って、紗衣先輩の手を引く。

 驚いた彼女の肩からカバンが滑り落ち、俺もその近くに自分のカバンを放り投げた。

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