【小説】夜の湖

紀瀬川 沙

本文

 山中湖の夜空に星が流れたから捕まえてみたら白桃の匂いがした。

 この匂いには近しい覚えがある。昨夜のベッドでも同じ匂いがこの腕のなかにあった。そして今、それが涼やかな夜風に吹き上げられた豊かな黒髪のものであると気づくのにさして時間はかからなかった。ふと、もう夏も行きかけているのに白桃とは季節遅れだなとの思いが頭をよぎったのだが、あえて何も言わないでいた。

「何かひらめいたことでもあるの?」

 私のすぐ隣でずっと天の川を仰いでいた女性が、夜目にもわかる澄んだ瞳をこちらへ向けて、優しく問うた。この純真な何気ない一言に、この無邪気に希望を含んだ一言に、私は突然強引な力で現実に引き戻されたような気がした。そして現実に引き戻された私の前には、美しい女性が私だけを見つめて微笑んでいた。彼女を前にして夢か現かといった心持ちの私は、

「いや、何もない。ただ目の前の君に触れてみたいと感じただけ。単純な男だからね」

と言ってわざとらしい笑顔をつくってごまかした。そんな私の小細工を見破っていることを知らせるかのように、姿見えぬ魚が一度黒い湖面を鳴らした。

「そう、まぁゆっくり考えて。あなたならきっと、何でも描くことができるから」

 妻はあるが子はない私の手を取って、その人は冷酷なほど真剣に言った。

 私が今夏ここ山中湖へと来て逗留している目的の一つに、私は私自身の生業である小説を一作書き上げなくてはならないということがあった。いや、もとへ、目的の一つではなかった。関係の冷え切った妻に隠すこともせずに公然とここで女性と過ごすなどということは、もとより目的に数えられるべきではなかった。私の逗留の目的はひとえに小説執筆の義務遂行のみであった。落ちぶれたといえど、そうしておかなければ卑小な私には一縷の望みさえも残らない。

 心服か願望か慰藉か、私にはまったくもって見分けることのできない女性の言葉を聞いて、私は再び口を開いた。

「だといいね。いや、そうであってくれなくては、事態は破局してしまう・・」

 私はいかめしい語を選んで用い、ことさらに自分の窮地を強調してから、彼女の頬に手を触れた。これは功を奏したようで、私の口から発せらえた「破局」の語を聞いて女性の顔にこの夜の暗さよりも深い翳りが宿るのを、私は見た。

 原稿用紙を前にしてはペンが一向に進まない私も、この美人の瞳を前にすれば、往時の輝きそのままに言葉を操縦する力を取り戻すことができた。そのためなのか、私は心のどこかでこの人とまだ一緒にいたいと願い、それを今実行に移しているのであろうか。女性がたとえ、その昔自分が恋い焦がれた人、親友に嫁いだのち今は若き未亡人の身だとしても。

 言葉を操る力が私に復元されるのはあくまで愛するこの美人の前においてのみであり、栄光の時を過ぎてなお紙とペンを触り続ける今の私にそんな霊力は宿っていない。かつて筆名は高まり仕事は増えた挙句、ある時を境に私の言葉の泉は枯れ果てた。ペンは紙の上を滑らなくなり、原稿用紙と向かい合っているのはこの上ない苦痛となった。

 そしてついに、ノルマだけを肩にのせ、都会の暑さを避ける名目で担当編集者から命からがら逃げ、世にいわゆる愛人を連れて湖に留まっていた。無論、ここに着いてからまだ一枚どころか、一文字も私からは生まれていなかった。

「あっ、見えた?今、流れ星が。オリオン座の右のほう。ああ、惜しいわ」

 この急な声はいっときのあいだ夜の湖面に浮かんでいたが、私が答える前には黒い水中へと消えていった。私は機械的に、

「ああ、見逃してしまった。何か願ったのかい?」

と聞いた。

 その人は、

「あなたが何か書けるように、と願おうと思ったの。でも、間に合わなかったわ。ごめんなさい」

と言って、私にとってはあまりにも酷な、無垢な心を見せてくれた。

「そうか、ありがとう」

 この時の私には、ただこう答えるほか方法はなかった。以降、夜の湖に長い沈黙が続いた。とうとう私は愛する人の前でも言葉を失くしてしまったのかもしれなかった。私にもっと誠があれば、と思った。その場の私は少し経ってから、普段ペンを持つほうの手に心なしか力を込めて、新しい言葉を言いかけてやめた。ようやく口にできた言葉は、

「いずれ、美しい物語を。そしたら、君とも」

という途切れた言葉だった。私のこんな中途半端な言葉を聞いて、それでも女性は幸せそうにうなずき、ゆうべの疲労がまだ少しにじむ顔を伏せた。

 私たちの上の星空はいつしか山あいの流れのはやい雲に隠されていたが、富士の頂き近くには一等星が一つ、薄雲におおわれながらも力強く光明を放っていた。


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