室生犀星

 室生犀星の詩集を買った。氏は大正期に活躍した詩人であり、萩原朔太郎と共に日本近代詩の礎を成した人物である。私は以前から朔太郎の書く詩が好きであったため、犀星の詩も予々気になっていた。二週間ほど前、大阪の紀伊國屋で偶々この詩集を見つけたので、つい衝動買いをしてしまったのだ。しかし後悔などする筈もなく、彼の詩の豊潤な言葉はどれも美しかった。なるほど朔太郎の言葉に似た匂いがした。全く同じではない。

 ただ、一つ不満を言うならば印字の仕方である。一つの詩が見開きのページに収まらずに、残りの一行か二行だけが次のページに印刷されていることがとても多い。見開き一ページでは収まらないほどの長い詩なら仕方がないが、半ページで収まるような短い詩でもそうなのだから遣る瀬ない。こういう時、私は何だかとても冷めた心持がする。自分が蝶になって自由に飛び回る夢を見ている最中に叩き起こされるような、あるいは幻想的な映画を見ている時に、スクリーンの中央に「※これはフィクションです」といった文句が大きく映し出されて、否応なしにそれを見せられるような、そんな心持である。

 これは詩に限らず小説やエッセイにも言えることだが、本を読んでいる時、自分の意識は身体を離れて活字の海の中にある。活字によって描かれた世界の中に、自分の意識を置いている。しかし、ページをめくるという行為においては、逆に意識は活字から離れ、自分の身体へと戻ってくる。ページをめくる自分を発見せざるを得ない。つまり、自分の意識と仮象の世界という観念的な関係から、自分の身体と紙からなる本という物質的な関係へと引き戻されるのだ。それが何だか鬱陶しい。水を差された感じがする。

 そこで私は、文芸のよりよい媒体を考えてみた。まずは電子媒体。液晶を指でなぞるのなら解決にはならないが、昨今は目線を認知するものもあるらしい。読み進めていくうちに勝手に文字列がスライドしていくのはどうか。想像してみたけれど、何だか酔いそうだ。そもそも、これだって指が目に置き換わっただけではないのか。媒体がモノである以上、難しいらしい。ならば、技術的なことは一旦度外視して、脳内に直接文字情報を送り込めるシステムならどうか。いや、文芸は活字と向き合うからこそ文芸たりえるのだ。そんなシステム、イヤホンをして朗読を聞いているのと何ら変わりはない。ではVRみたいな装置を付けて、文字が浮ぶ広大な仮想空間を作るのは。想像して馬鹿らしくなった。B級のアミューズメントか。完全に行き詰まったので、一度原点に立ち返って、紙媒体のままどうにか出来ないかと考えた。ページをめくりたくないのなら、巻物みたいにして…。議論するまでもない。それが面倒だから本という形式が世に定着したのだろう。

 ここまで考えて、やはり本という媒体がベストではないにしろベターであるには違いないという結論に至った。下らない思考を文字にするのに小一時間も使ってしまったが、頭はやけにすっかりしている。今日はよく眠れそうだ。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る