第5話 めぐり逢い


 信じて貰えないかもしれないけど、俺は売れっ子だ。

 いきなり売れっ子と言われても意味不明だろう。

 慌てない、慌てない、今から説明をするからさ。


 俺の名は中山英吉、51歳。どこにでもいる普通のおやじだ。

 なのに売れっ子? そう、肝心なのは職業だ。俺の仕事は…… レンタルおじさんだ。


 えっ、どこにでもいる普通のおやじを誰がレンタルするって?

 あぁ、そうなんだよ。俺も最初は同じように考えてたよ。

 言っちゃ悪いが、身銭切っておやじをレンタルするなんて、そんな変わり者がこの世にいるのかねって話だ。

 しかし、これが意外と忙しい商売でさ、その中でも俺は売れっ子っていう訳さ。リピーターや新規の客からの指名も多く、会社で1番人気。まるで歌舞伎町のNo1ホスト様だよ…… なんてな。


 だげどさ、何度も説明している通り、俺は普通のおじさんだ。

 高級スーツを着こなし、オールバックにしてブランデーとハマキが似合う渋いニヒルなおやじでもない。どちらかというとブサメンさ。


 今回のお話はさ、最初は何を馬鹿な事をと思ったけど、百聞は一見に如かずってやつかな?

 学が無いものでさ、これがピッタリの言葉が分かんないけど、聞いてくれよ。



「中山さん」


「はい」


「お仕事の依頼です」


「はい」


「お客様のお名前は西森英治さん」


「西森えいじ……と」


「明後日の午後14時か17時までの3時間です」


「明後日…… はい」


「待ち合わせ場所は田園都市線の桜新町西口です」


「桜新町……西口ですね。はい、分かりました」


「料金は振り込まれておりますので」


「はい」


「では、お願いいたします」


「ありがとうございました」


 桜新町か……


 桜新町は俺の憧れの町だ。いつか住んでみたい。そんな風に思わせてくれる情緒のある町。

 気立ての良い奥さんでも出来たらこの町に引っ越そうかな……

 なんて無理な想像をしてみたりもする。

 何か深い思い出がある訳じゃないけど、桜新町の近くに、馬事公苑って所に馬がいるんだよ。


 え? 東京23区に馬がいるのかって? そんな馬鹿なって思ったりもするよな。

 実はこの馬事公苑ってのは日本中央競馬会 (JRA) が運営してるのさ。

 だから馬がいるって訳よ。

 俺はこの馬事公苑が好きでさ、春になると綺麗な桜の下を馬が歩いている姿が凄く絵になるんだよ。

 見ているだけで心が癒されるっていうか、ほんと俺の安息の場所なんだ。

 まぁ、特別馬を好きなわけでも無いけど、動物は全般好きかな。


 子供の頃に、実家で猫を2匹飼っていて、ニャンとブラって名前だったよ。

 名は二匹共かーちゃんが付けたんだけど、4つ年上の兄が拾って来たニャンは、うちに来て初めて鳴いた時、ニャンって聞こえたからニャンだってさ。実に単純シンプルな話だ。

 ブラは元々野良猫だったんだけど、いつからか家に勝手に住み着いてて、最初はニャンを虐めるのではないかと危惧して追っ払っていた。

 それでも全然居なくならなくて、ある雨の日に、うちの庭でブラが雨宿りをしていた。雨が強くて濡れていたブラを、見兼ねたかーちゃんが根負けして、それで家で飼うことになったんだよ。


 そのブラはどういう訳か、いつもかーちゃんのブラジャーを引っ張り出してきて、布団代わりにして寝ていた。

 だからブラという名前になったのさ。


 ニャンはオスでブラはメス、二匹は直ぐに仲良くなった。 まぁ、ニャンは尻に敷かれていたけどね。

 ブラは沢山子を産んだよ。子猫も可愛くてさ、貰われて行く度に、俺もかーちゃんも泣いてた。

 もしかすると、今も何処かで、ブラとニャンの子孫が生きているかも知れない。心からそう願うばかりだ……


 二匹の猫のうち、先にニャンが心臓の病気になって亡くなった…… 生後半年でうちにきて、それから10年、俺が東京に出てくる直前だった。


 ニャンは愉快な性格で、ブラや子猫にも優しく、俺とかーちゃんや、ブラの顔をペロペロといつも舐めて、毛繕けづくろいをしてくれていた。


 ある時、かーちゃんが言った。


「最近台所にゴキブリの足がよく落ちているけど、英吉は心当たりない?」


 そう聞いてきたが、俺は何も思い当たることが無くて、不思議だね~という結論になった。


 後日、ニャンが台所でバリバリと音を立てて何かを食べているのをかーちゃんと二人で偶然目撃したんだ。

 

 ニャンが食べていた物…… そう、それは…… ゴキブリだ! 

 つまりニャンは、ゴキブリを食べた口で、俺とかーちゃんを毛繕いしていたのである。

 その時俺達は、ゴキブリを食っているニャンを、ショックのあまり、ただ黙って見ている事しか出来なかった。


 無論その日からかーちゃんは、ニャンの毛繕いを拒否する様になったのは言うまでもない。


 ニャンは、俺たち家族が初めて飼った動物だ。

 それもあり、俺もかーちゃんもニャンには特別な思い入れがあって、亡くなった時は本当に悲しかった。

 ニャンが心臓発作を起こした時、そこには俺だけが居た。

 苦しんだ後、動かなくなったニャンに、心臓マッサージと、人工呼吸を何十分もし続けたけど、結局は駄目だった。

 ニャンは俺の目の前で、天に召されていったのだ……


 ブラが家に来た時、既に大きくて年齢不詳だったけど、家族の一員になってから12年間共に暮らした。

 最後の方は、歩くのもゆっくりになって頭もボケておかしな行動をとるようになってたらしいけど、それなりに元気だったよ。

 全く食事を取らなくなったけど、大好物のウナギの蒲焼きだけは、最後まで食べていた。

 ちょうど俺が帰省していた時、いつも布団代わりにしていたかーちゃんのブラジャーの上で、まるで眠るように、静かに亡くなっていた。

 その時の表情といったら、うっすらと微笑んでいたんだ。 俺は今でもハッキリと、その時のブラの表情を覚えている。


 あの時、かーちゃんが亡くなったブラに語りかけた。


「ブラ…… あんたはやっぱり賢いね。しんどかったのに、英吉が帰ってくるのが分かって、それまで頑張ったんだね。英吉に会いたかったんだよね。最後までえらかったねブラは……」


 実は俺も、もしかしたらそうではないかと思っていたんだ。だからかーちゃんのその言葉で、涙が止まらなくなったよ……


 今思い出しても、ブラは実に不思議で頭の良い猫だった。

 だいたい、エサをやっていた訳でもないのに、何故うちに住み着いたのか、今でも思い出して考える時がある。

 この家に住むことが出来たら、幸せになれるという直感でもあったのだろうか?


 ブラは本当に頭が良くて、かーちゃんは家から1kmぐらい離れた職場に歩いて出勤してたんだけど、そこまで付いて来てたんだよ。


 ある日、かーちゃんが俺に聞いてきた。


「ねぇ、今日ブラ昼間居た?」


「ニャンもブラも家に居たよ」


 そう答えると、かーちゃんが何か深く考えているようだったので、不思議に思いどうしたのかと聞いてみた。


 かーちゃんが言うには、出勤途中にブラがずっと付いてくるものだから、こんなに遠くまで付いてきたら、迷子になるかもしれないとかーちゃんは心配して、「ついてきたらダメ!」って怒ると、ブラは居なくなったらしい。


 家に帰ったと思っていたが、ふと職場の窓から外を見ると、ブラが壁の上に座ってかーちゃんを見ていたと言うんだよ。


 その後ブラは、たぶんだけど、かーちゃんの居場所が分かったものだから、安心して一旦家に戻ってきていた。

 そして、かーちゃんの仕事が終わる頃にまた会社まで行き、かーちゃんが出てくると何処からともなくブラが現れて一緒に家に帰ってきてたんだ。


 百歩譲って犬なら分かる。けど、猫如きがって思うだろ? だけどさ、これは紛れもなく事実なんだ。


 俺もその話をかーちゃんから聞いた時は疑ってさ、確かに賢い猫だけど、そんな馬鹿なと思って信じなかったよ。

 当時俺は11、2歳ぐらいだったけど、かーちゃんの職場と家を一人で迷子になることなく往復出来るようになったのは6歳ぐらいだった。


 けど、ブラは確かにいつもかーちゃんと一緒に帰って来るもんだから、俺は検証したんだ。

 そしたらさ、間違いなくブラは朝かーちゃんと一緒に職場まで行っていた。

 そして、その時はかーちゃんの仕事が終わるまで何処で時間を潰していたか知らないが、かーちゃんが出てくると嬉しそうな鳴き声を出しながら現れるんだよ。

 

 そんな行動を1ヵ月ぐらいしてたけど、ブラはかーちゃんがいつも帰って来るので安心したのか、それともかーちゃんの行動を知って満足したのか、はたまた飽きたのかは知らないが、かーちゃんの職場に行かなくなった。


 他にも色々な逸話があるけど、本当にブラの賢さは猫の範疇はんちゅうを超えていると思った。


 俺は今でも、犬でも猫でも、どちらでもいいから、家族として迎え入れたいという気持ちはある。

 だけどアパート暮らしの今の状況では、それは叶うまい。


 それに、別れの時のあの悲しみを思いだすと、どうしても躊躇してしまうんだ。

 



 時刻は13時40分。


 

 ちょうどいい時間ぐらいだけど、お客様はまだ来ていない様だ。


 俺は、待ち合わせ場所には必ずお客様より先に着くように心がけている。

 まぁ、最低20分前には来ておかないと。


 俺はゆっくり大きく深呼吸しながら周囲を見回す。


 ……やっぱり良い町だよなここは。


 心休まる街並みが目に入って来る。

 何故こんなに雰囲気が良いのか、とても不思議である。

 

 いったい他の町と何が違うのだろう……


 そんな事を考えていたら、今日のお客様、西森さんが声を掛けて来た。


「中山さんでしょうか?」


「はい。西森さんですか?」


「そうです」


 かなり細身の人だな……


「今日は宜しくお願いします」


「こちらこそお願いします」


 西森さんの第一印象は、何処にでもいそうな好青年って感じだ。


 年齢はたぶん30歳前後かな?

 お客さんの中では若い方だ。


「今からどちらに行きますか?」


 俺は西森さんに聞いてみた。

 正直、馬事公苑なら嬉しいんだけど……


「今から私の家に行きましょう」


「分かりました」


 西森さんは、西口前にあるマクドナルドの角を北側に向け歩き出す。


 この辺りの住宅街も、本当に良い所なんだよな~。

 もしかして近所なのかな家は?


「この辺りは、本当に良い所ですね」


「えぇ」


「私、桜新町が大好きで、いつか機会があれば住んでみたいと思ってまして」


「……そう思うのなら、直ぐにでも引っ越した方が良いと思いますよ」


 あららら、ずいぶん棘がある物言いだな……


 勿論俺だって引っ越してきたいよ。だけど、先立つものがね、無いんだよね。


「僕もこの辺りが好きでね、東京に出てくるのなら絶対に桜新町に住もうと思っていました」


「うんうん、その気持ち分かります。本当に魅力的な町ですよね」


「そう思います」


 俺は、会話しながらも、住宅の観察をしていた。


 あー、あの家はりっぱな家だな…… こっちの家も良いな~。どんな人が住んでいるのかな? 

 幸せそうな家族が、俺の心に浮かぶ。


 自分の家でも友人の家でもないけど、近所にあのような家があるって感じるだけで満足してしまう。


 今のアパートに住んで、かれこれ二十数年。

 そう、実家に住んでいた年数の、倍近くにも及んでいる。 

 たぶんだけど、アパートを解体する話でもなければ、引っ越さないだろう……


「着きました。このマンションです」


 そこは桜新町駅から徒歩10分ぐらいの、鉄筋コンクリート3階建ての立派なマンション。


「ここの3階です。エレベーターはありませんので階段です」


 ……まだ若いのに、良いところに住んでいる。


 西森さんの後をついて階段を上る。


 ひぃひぃ。


 俺の住んでいる部屋は2階で、1階分の階段を多く上るだけでも息が切れる。

 いや~、歳は取りたくないね。


 そんな俺を見て、西森さんが心配して声を掛けてくれた。


「大丈夫ですか?」


「あ、はい。全然大丈夫です」


「すみませんエレベーターなくて」


 何故だか、その言葉は少し嫌味っぽく聞こえた。


「いえいえ、うちも階段なので全く問題ないです」


 3階まで階段を上り、廊下を奥へと進んでいく。


 ……1番奥の部屋か。


「どうぞお入りください」


「お邪魔します」


 西森さんがドアを抑えてくれたので、先に俺が玄関に入る。


「おぉー!」


 俺は室内を見て、思わず声を上げてしまった!


 こ、これは…… いったい何個あるんだ!?


「ははは、そんなに驚かなくても」


 西森さんは、少し喜んでいるように見えた。


 部屋の中には、ぱっと見ただけでも、7個の水槽が見えている。

 しかも、一個一個が大きい!


「いや~、水族館みたいですね~」


「そんな大げさな……」


 水槽の中には、様々な水草が生えており、水中というよりは、まるで草原の様であった。

 石を積み上げている水槽もあり、それは巨大な岩山の絶壁を見ているかのような錯覚を引き起こす。


「これは…… お見事ですね~」


「……そう言っていただけると、嬉しいです」


「素直な感想を言いました。本当に凄い」


「実は、あまり人に見せた事がないのですよ」 


「えっ!? そうなんですね。こんな見事な水槽を人に見せないって、もったいなくないですか?」


「はははは」


 西森さんは、謙遜しているように笑った。


 俺は、この見事な水槽を見ていて一つ不思議に思った事があった。

 それは…… 魚がいない。


 もしかしたら、水槽のレイアウトだけを楽しんでいるのかな。

 けど、水が動いているぞ。これは水草の為であって、魚の為では無いということか? ここは一つ、聞いてみるか。


「西森さん、魚が泳いでないようですけど……」


「いえ、いますよ」


 俺は正面にあった森林を再現してるような、見事な水槽に目を凝らすが、魚なんて見えない……

 

 もしかして、凄く小さな熱帯魚でもいるのかな…… 


 そう思って探していると、西森さんが不思議な事を言った。


「知らない人が来たので、隠れているのですよ」


 ……隠れている? 魚が俺を初めて見たから怖くて隠れてるって、そう言いたいのか?


 俺はその時、西森さんを少し変な人だと思った。


 西森さんは、俺が見ていた水槽に近づき、覗き込む。


「ほら、ここにいますよ」


 そう言われ、俺も水槽に顔を近づけて西森さんが指差した辺りを見てみると、水草に隠れた黒くて小さい魚が見えた。


「あっ、本当だ! いますね、います!」


 その言葉を聞き、西森さんは微笑んでいる。


 その黒くて小さい魚の数は3匹で、水草に身を隠し一塊になっている。 


 ……水槽の大きさは1mぐらいかな?

 たぶんもっと他にも魚が隠れているのだろうと思い、探してみたが3匹以外見当たらない。


「西森さん、この水槽には3匹だけですか?」


「ええ、そうですよ」


 俺は少し驚いた。

 それは、明らかに魚と水槽のサイズが、合っていないと思ったからだ。


「この熱帯魚は、何て名前ですか?」


「親分とうすとマガリです」


 ……はぁ!?


 見た所、3匹とも同じ種類の熱帯魚に見えるんだけどな。

 それなのに名前が違うって……

 もしかして、俺の聞き方がおかしかったのか……


 俺は表情に一切出さずに、続けて質問をした。


「熱帯魚の種類は何ですか?」


 たぶん最初から、こう聞けば良かったんだよな。


「この3人・・は、メダカですよ」


 えっ!?


「こ、これメダカなんですか!?」


「そうですよ」


「ちょっと待ってください。メダカって、あの田んぼとか用水路に居る奴ですよね?」


「はい、そのメダカですよ」


 俺は水槽のガラスに、鼻が付くほど近づいて3匹のメダカ・・・を凝視する。

 

 いや、明らかに俺の知っているメダカとは見た目が違うだろ。

 3匹を良く見ると、色が黒いだけではない。キラキラと光っている部分がある……

 

 その時、3匹のメダカを見入る俺を見て、西森さんは満足そうに微笑んでいた。


 うーん…… メダカって言われてもな、明らかに見た目が違うもんな~。

 たぶん外国のメダカなんだろうな……


「何処産のメダカですか?」


「どこさん?」


「あの~、えーと、生息地ですよ。例えば中国とか、東南アジアのメダカですかね?」


「っははは」


 西森さんは、少しだけ笑った。


「これは、日本のメダカですよ。ただし改良されたメダカでして、この3人はブラックダイヤと言います」


「ブラックダイヤ!?」


「はい」


 それはまた、御大層なお名前で……


 つまりこの3匹は、メダカ・・・でブラックダイヤという種類。そして名前が、親分とうすとマガリってことでいいよな。


「西森さん、マガリってどれですか?」


「マガリは身体のサイズが1番短い子です」


 こいつか。なるほど、他の2匹に比べると確かに短くて不格好だな……


 ふふふ、まるで俺みたいだ。


「一番大きいのが親分です。そして、普通体型の子がうすちゃんです」 


「へぇ~。名前の由来を教えて貰ってもいいですか?」


「はい。マガリの口をよく見て下さい」


 そう言われ、俺はマガリの口元を見てみた。


「曲がっているでしょ?」


「ほんとだ! 少し曲がっている」


「そうなんですよ、だからこの子はエサを食べるのが下手でね、ふふふ」


 メダカの話をしている西森さんは、本当に嬉しそうだ。


「あとの2匹は?」


「あとの2人もそのままでして、うすは親分やマガリと比べると、色が薄いですよね。なのでうすです」


 確かにうすは真っ黒というよりは、濃いグレーといった感じだ。


「親分は1番身体が大きくて強そうなので、親分と名付けました」


「へぇ~」


「ですが、親分はメスです」


「んふっ」


 西森さんの追記に、思わず笑ってしまった。


「ふふ、僕は名前をつけるセンスはなくて」


「そんなことないですよ。分かりやすくて良いじゃないですか」


「あはは、そうですかね?」


「ええ、そうですよ」


 俺は、3匹と西森さんを、交互に見ながら会話をしている。


「あっ、僕と楽しそうに話しているので3人が、中山さんへの警戒心を解いたみたいですよ」


 西森さんは、微笑みながらそう言った。


 俺は改めて3匹に目を向けた。


 確かに先ほどまでは水草の後ろに隠れていたが、広い水槽の中を自由に泳ぎ回っている。

 

 うーん…… まぁ、そう言われれば、確かにそうも見えなくはないけど、偶然だろ……


「3人のお気に入りの場所がありましてね」


「こんな見事な水槽なら、全部好きな場所なんじゃないですか?」


「いや、そこまで見事でも無いですよ。ははは」


 西森さんは、さっきから俺の言葉で素直に喜んでくれている。

 因みに俺は、西森さんの機嫌を取っている訳ではなく、本当に見事な水槽だったので、何度でも称えてあげたかっただけなんだ。


「ここを見て下さい」


 西森さんが、大きな水槽の一ヵ所を指差した。


「ここのソイルは、少しくぼんでいるでしょ?」

 

「……ソイル?」


「あー、えーと土です。ここの土が凹んでますよね」 


 へぇ~、土のことはソイルと言うのか……

 

 言われた場所を見てみると、確かにソイル・・・が一ヵ所窪んでいた。大きさは5百円玉ぐらいだろうか……


「3人はここが大好きなんですよ」


 それは少し、いやかなり意外だった。

 1mはあろうかという水槽の中は、石あり、流木あり、水草ありで、他に魚が好みそうな場所は腐るほどある。

 それなのに、この小さく窪んだ場所が好き?

 信じてない訳じゃないけど、うーんって感じだね。


「ほら、来ましたよ」


 そう言われ、俺がその窪みを見ていると、うすがやって来た。

 そして窪みに身体を置き、ヒレをバタつかせ窪みから離れない。


 あのヒレの動き…… もしかして喜んでいるのか?

 それなら、確かにお気に入りの場所のようだ。


 続いて同じ場所に、次は親分がやって来た。


 するとうすは、親分に対して威嚇を始め、親分はその場を離れる。


「あっ! 今うすが親分に体当たりするみたいな仕草をしましたよ」


「はい。特にうすはこの場所が好きで、他の子に渡したくないのですよ」


 へぇ~、メダカのこんな行動は初めて見たよ。

 って、当たり前か。

 そもそも飼った事も無いし、メダカを観察する機会など、今まで一度もないもんな。


「お気に入りの場所の為に、喧嘩するんですね?」


「……いえ、喧嘩と言うか、じゃれているだけですよ」


「そうなんですか?」


「ええ。この3人は最後の3人で、本当に仲良しなんです」


 ……最後の3人? 

 どういう意味なのだろ……


「ほら、次はマガリも来ましたよ」


 そう言われ再びうすのいる窪みに目を向けると、マガリがうすの隣に並んでいた。


 うすは先ほど親分にした様に、また体当たりをするかのような仕草をした。

 しかしマガリは、それを避けようともせずヒレを大きく動かしている。

 これは…… 威嚇を返しているのかな?


「どうですか、仲いいでしょう? ヒレを大きく動かして喜んでいるでしょ」


 このヒレを大きくパタパタと動かしている行動は、やっぱり喜んでいるのか?

 確かに、普通に泳いでいる姿とは違うようだけど、魚が、メダカが喜ぶだって!? 

 そんな感情が、このちっぽけなメダカにあるなんて、にわかに信じられないな……


 その時俺は、西森さんは、やっぱり少し変わった人だなと、そう思っていた。

 すると、俺の表情の変化で気づいたのか、西森さんが言葉を発した。


「やはり信じられませんよね?」


「えっ?」


「メダカに感情があるなんて、思いませんよね普通は」


「いや、えーと……」


 まいったな、さっきまで機嫌良く会話していたのに、西森さんの表情が険しくなってしまったぞ。


「お気持ちは分かります。僕も、最初はそうだったから……」


「え?」


「最初はメダカなんて、実家に帰ればそこら辺りにも居るし、深く考えた事なんてありませんでした」


「……」


「さっき僕はこの3人は最後の3人と言いましたけど、実は最初飼い始めた時は14匹居ました」


「14匹……」


「……はい。アクアリウムに無知な私のせいで、11匹は亡くなってしまいました」


「……」


「アクアリウムなんて、今までしたことが無かった僕は、ネットでたまたま見た趣味のサイトで、自分もやってみようかなんて、そんな軽い気持ちで始めました」


「そうなんですね」


「そしてセット売りの水槽を買って、中にどんな熱帯魚を入れようかと悩んでいると、ペットショップでブラックダイヤを見つけて、黒いメダカなんて初めて見たので興味を引かれ、14匹まとめて購入しました」


「……」


「メダカにそれほど大した気持ちを持っていなかったし、それに初めてでしたので、何をどうすれば良いのか、最初はまるで分からなかった。

 仕事が忙しくて、水槽の管理を怠り、僕のせいで1人、また1人と亡くなって行き、残ったのがこの3人なんですよ」


 この人は、自分のせいでメダカが亡くなった事を悔いている。

 恐らく、かなり繊細な心の持ち主なのだろう……


 だけど、言っちゃ悪いが、たかが・・・メダカだ。


 子供の頃、近所の田んぼや用水路にうじゃうじゃいて、網で捕まえて遊んでいたよ。かなりぞんざい・・・・に扱っていて、いちいちメダカの事を気にするなんて1度もない。


 もしかして、飼うことによって情が移ってしまったのかな……


「ある日、仕事から帰って来てふと水槽を見ると、この子達がエサを待っていて、僕の方に近づいて来て……

水替えもそうですけど、仕事に時間を取られてエサもあげたりあげなかったりでして、その時も何気なしにエサをあげていると、ヒレを大きくパタパタと動かしてうっすら微笑んでいたのですよ……」


 メダカが微笑む…… 仕事の疲れとストレスでそういう風に見えてしまったのかな?


「喜んでいるこの子達を見て思い返すと、ろくに世話もしないで、11人も死なせてしまい、本当に申し訳ないって後悔の気持ちが、急に押し寄せてきちゃって……

 それからはアクアリウムの勉強をして、水替えのタイミングや、水質の良し悪しなどにも気を使うようになって、そして水草を沢山植えたレイアウトもやってみて、最後の3人が少しでも快適に暮らせるようにと思い、この水槽を作りました」


 3匹にしては大きな水槽だと感じていたけど、後悔の念からだったのか……


 この時俺は、ハッキリ言って西森さんの話は大げさだと感じていた。

 しかし、生き物を大切にするのは良いことだ。それに関しては俺も大賛成なのは間違いない。

 

「西森さん、間違いや後悔は誰にでもあります。今はお仕事をしながらでも、この3匹の面倒をしっかりとみているじゃないですか。こんな素晴らしい水槽も作って」


「……」


 そう声をかけたが、西森さんの表情は晴れない。

 どうやら、こんなありきたりなフォローでは、駄目なようだ。

 この時俺は、西森さんからあの・・話をまだ聞かされておらず、それほど真剣に受け止めていなかった。

 だが、仮にどの様な素晴らしい言葉を伝えていても、西森さんの心の中にある深い苦悩を、取り除く事は出来なかっただろう。


 この何とも言えない雰囲気を打破してくれたのは、3匹のメダカだった。


「あ、親分がまた来ましたよ」


 俺がそう言うと、俯いていた西森さんも水槽に視線を向ける。


 うすとマガリがいた窪みに、親分も無理やり身体を入れた。

 すると、3匹でヒレをパタつかせ回転し始める。

 

「ほら、楽しそうに遊んでいるでしょ?」


 そう言った西森さんの表情は、実に晴れ晴れとしていた。


 それに、言われてみると確かに楽しそうに泳いでいる……

 その3匹を見ていたら、俺は他の水槽も気になってきたのだ。


「西森さん、あとの水槽には何の魚が入っているのですか?」


「……他も同じブラックダイヤですよ」


「新しいメダカを買って来たのですか?」


「いえ、他の水槽に居るのは、亡くなった11人か、この3人の子供達です」


 見て回ると、他の6個の水槽にも、全て同じようなブラックダイヤが泳いでいる。


 そうかぁ、子供かぁ……


「西森さん、亡くなった11匹は残念でしたけど、子供はしっかりと成長しているじゃないですか?」 

 

「ええ、今のところ、せめてもの救いになっています。出来ればこの子達の面倒を、最後まで見てあげたいのですが……」

 

 その言葉の意味は…… つまり、最後まで面倒を見る事ができない何かしらの問題を、今抱えているということだよな? 


 言葉の真意を聞くべきか悩んでいると、西森さんは俺を隣の部屋に招いた。


「こちらに来てください」


「あ、はい」


 隣の部屋に行くと、そこにも1個の水槽があり、中には掌サイズの魚が1匹だけ泳いでいた。


 ん…… ずいぶんさっきまで見ていた水槽とは違うな。水草も石もソイルも無いし。

 あれ、この魚は見た事あるぞ。俺も知っている魚だ。


「西森さん、俺この魚知ってますよ!」


「え、ほんとうですか?」


「ええ、これってチヌですよねチヌ!」


「ち、チヌ?」


「はい、クロダイでしょこれ?」


「……ぶっ!」


 西森さんは、吹き出して笑い始めた。


「フフフン、フッ、フフッ」


 その笑い方は、明らかに俺に遠慮していた。


「ち、違っちゃいましたか。すみません」


「ふふ、いえ、こちらこそ笑ってしまってすみません」


「いえいえ、ぜんぜん。しかしチヌに似てますね~」


 西森さんは、水槽の方を見ながら説明をしてくれた。


「この子はフラワーホーンっていう種類なんですよ」


「フラワーホーン?」


「はい。フラワーホーンのタイシルクと言います」


「タイシルク?」


「はい。この子は女の子で、男の子の方はこんな感じです」


 そう言ってスマホの画像を俺に見せてくれた。


 そこには、頭に大きな大きなコブのついた何とも表現しがたい魚が!?

 

 なんじゃこれ!? 気持ち悪い!


「な、なんですかこの魚!? 病気ですか?」


「いえ、男の子はこれが普通なんですよ。うちの子を見て頂いたら分かりますが、女の子は少しだけ盛り上がっているだけです」


「へぇ~」


 確かに、表現は悪いが、誰かに殴られたようなコブがある……


「このフラワーホーンは自然界には存在してません。品種改良で人間の手によって作られた子なんですよ」


 ……いったいどういう目的で作られたんだろ。

 やっぱ、商売の為なのかな?


「メダカのエサを買いにペットショップに行った時、ずっと僕を見てくるので気になってしまって」


「それで買っちゃったんですか?」


「ええ、そうなんですよ。飼ってみると思いのほか頭の良い子で、いつも怒られています」


 ……その言葉の意味が分からない。魚に怒られる?


 西森さんは、俺の方を見て少し微笑んだ。

 その微笑みに対して、俺も作り笑いを返す。


「見ててくださいよ」


 そう言うと、西森さんは水槽の中にある、ぶくぶくと空気の出ている投げ込み式フィルターという物を、元の位置から20cmほど動かした。


 ……それを動かしたからって、いったいどうなると言うんだろ?


 言われた通り、俺はその水槽の中にいる、チヌに似たフラワーホーンを見ていた。

 すると、そのフラワーホーンの動きが次第に荒々しくなってきているのに直ぐに気付く。


 そしてなんと!? さっき西森さんが動かした投げ込み式フィルターに体当たりをして、元の位置に近い場所まで戻してしまったのだ!


 ええ、嘘だろ!? 場所を変えられて、怒ったっていうのか? それで体当たりして、自分で戻したのか!?

 そんな馬鹿な! ただの魚だろ!? 

 

 さっき品種改良とか言っていたけど、まさか人間の遺伝子を組み込んだ新しい生物とか言わないよな?


「見ましたか?」


「え…… ええ。こ、これは……」


「この子はレイアウトに凄く拘りがあるみたいで、水草を植えてあげても全部引っこ抜いちゃうんですよ。だからソイルもないし投げ込み式フィルターと水温計だけしか入れていません」


「自分の水槽に拘っているんですか?」


「ええ、上部フィルターをつけていますので、本当は投げ込み式は要らないのですが、色々試してみて、今の形に落ち着きました。これが1番ストレスが無いみたいでして」


 もしかして、今のは偶然なんじゃなかろうか……

 俺は自分の目で見たものの、西森さんの話を信じられなかった。


「西森さん」


「はい」


「もう一度、同じことをしてもらってもいいですか?」


「ええ、かまいませんよ。けどたぶん……」


 西森さんは何かを言いかけて、その言葉を止めた。

 そして、投げ込み式フィルターをもう一度動かしてくれた。


 すると、頭を振り、明らかにイライラしているような泳ぎ方をし始めるフラワーホーン。

 そして今度は、動かした投げ込み式フィルターではなく、水温計の先をくわえて弾き飛ばした。


 水温計は激しく水槽のガラスにぶつかり、カーンという大きな音が響く。

 俺はその音に驚き、とっさに水槽に近付けていた顔を、身体ごとのけぞらした。


「短時間で二度も動かしたから、かなり怒ってますよ。今みたいに機嫌が悪い時は、水温計を噛んで引っ張り、ガラスに当てて音を鳴らすんですよ」


 そう言うと西森さんは、動かした投げ込み式フィルターを元の位置に戻した。 

 すると、攻撃的な泳ぎをしていたフラワーホーンは、徐々に落ち着きを取り戻し、ゆっくりと泳ぎ始める。


 俺はその行動を見て、思い出したことがあった。

 それは、飼っていた猫のブラだ。


 ブラはかーちゃんのブラジャーが好きで、敷布団代わりにしていつも寝ていた。

 俺は遊びのつもりで、そのブラジャーを取り上げた事があった。

 するとブラは、俺の手に爪を立てて、引っかいたのだ!

 びっくりした俺は、直ぐにブラにブラジャーを返した。


 懐いていたブラに引っかかれたことがショックだったのと、猫にも大切な物を取られたら怒る気持ちがあるのだと、その時俺は知った。


 今は、ある意味あの時より驚いている。


 魚が、こんな掌サイズのちっぽけな魚に、ここまでの感情と知能があるだなんて!?

 俺は当然知らなかったし、実際に目の前で見た今でもまだ100%信じた訳ではない。


「ごめんねフル、怒らないでくれよ。今日のエサは、スーパーで買って来た大好きなエビをあげるからさ」


 フルって名前なのか……


 西森さんは、水面に指を入れている。


 すると、フルは水中から指をジッと見つめ、突進してきて噛みつこうとしてきた。

  西森さんは寸前の所で指を引き上げ、フルの攻撃をかわす。

 そしてまた指を水面に入れると、フルが近寄って来て同じような事を3度やると、フルは普通に泳ぎ出した。


 どうやら遊んであげる事で、フルのイライラを解消してあげたようだ……


 俺はそれを見終わると、もう一度フィルターを動かして下さいと言いかけたが、その言葉を引っ込めた。


「意外でしたでしょ?」


「え、ええ」


「僕はあの3人と子供達、そしてこのフルと長い時間を過ごすようになってから、本当に死なせてしまった子達の事を後悔しています」


「……」


「知識は増えましたが、今もまだ失敗だらけです。病気の子が出ちゃって、それが原因で亡くなった子もいて…… 水槽がいくつもあるのは、健康の良し悪しで分けてるのです」


 なるほど…… だからメダカの数の割に、水槽が多いのか。


「こんなちっぽけな魚にも。人のような感情があるんだって気づいてからは、出来るだけ大きな水槽を用意して快適に暮らさせてあげようと」  


 うちのかーちゃんもそうだった。ニャンとブラには、出来るだけ美味しい物を食べて欲しいと言って、区別していなかった。

 俺達が夕食で刺身を食べている時は、ニャンとブラにも刺身を食べさせていた。



「……その気持ち、凄く分かります」


 そう言うと、西森さんは微笑む。


「中山さん、残り時間は、まだまだ僕のウンチクを聞いて貰いますよ」


 上機嫌でそう言ってきた。


「……分かりました。もっと色々教えて下さい! お願いします!」


 残りの時間、西森さんはずっと楽しそうに、アクアリウムのウンチクを俺に聞かせてくれた。

 その知識量は凄まじく、俺はいつの間にか、真剣に耳を傾けていた。

 そして、余った時間は再び、フルやメダカ達を一緒に観察していた。

 最後に、親分、うす、マガリのエサやりを俺にしてみるかと、問いかけてきたので、俺は是非と直ぐに返事した。

 西森さんは、耳掻き程の小さなスプーンに、エサを入れた物を俺に渡してきた。

 それを3匹の水槽に近づけると、エサが来ることが分かっているようで、俺の方に近づいてくる。

 そして、窪みで遊んでいた時と同じ様に、ヒレをパタパタとさせて喜んでいた。


 俺は西森さんの合図を待ってエサを水面に落とす。

 すると、3匹は一心不乱に食べ始めた。

 それを見ていると、何故か安堵感に似た感情が俺の中に湧き始める。

 

 時間になり、俺は西森さんと別れのあいさつを交わし、一人駅へと歩く。


 俺は西森さんの話を聞いて、アクアリウムに魅力を感じていた。

 そして、あのメダカ達が西森さんの言う通り、感情を持っていると、そう信じかけていた。

 

 ははは、毎日会えないと思うと、少しペットロスのような気分になっているよ今。

 

 ……あいつら、可愛かったな。


 今日は本当に貴重な体験をさせて貰ったよ。

 俺の価値観が変わった、そんな時間だった。


 また西森さんにも、そしてフル、親分、うす、マガリ、そして子供達とも会いたいな。


 俺は後ろ髪を引かれる思いで、帰宅した。



 西森さんは、それから月に1度程度の割合で俺を呼んでくれた。それにより、俺のアクアリウムの知識はどんどんと増えていく。

 そしてフルもメダカ達も、俺に良く懐いていた。

 西森さんに呼ばれるのが楽しみで、次はいつなのだろうかと期待していたが、合計で6回呼ばれた後、西森さんからの依頼は止まる。



 それから半年後……



「中山さんお仕事の依頼です」


「はい」


「お客様は西森英治さんです。前に中山さんが何度かお受けしていますが、覚えておりますか?」


 勿論覚えている! アクアリウムの西森さんだ!


「はい、覚えています!」


「それは良かったです。今回は明後日の14時に、前回と同じように直接家に来て欲しいとのことですが、宜しいでしょうか?」


「はい、勿論です」


「お時間は1時間で、料金は明日中に振り込まれますので」


「分かりました」


「あっ、すみません。伝え忘れる所でした。家は同じマンションですけど、1階に引っ越したそうですので」


「同じマンションの1階?」


「はい、101号室だそうです」


「分かりました……」


「それでは、宜しくお願いします」


「はい」


 どうして同じマンションの1階に引っ越したのか、とても不思議に思ったが、西森さんの事だ、きっと新しい水槽が増えて、部屋が広い1階にでも引っ越したのではないかと、そんな理由だと思い、この時はあまり気にしていなかった。

 

 そんなことよりも、俺は嬉しくてたまらない。

 また西森さんに会えて、アクアリウムの話を聞ける。

 そして、フルは、親分は、うすは、マガリは、子供達は元気なのだろうか?

 気になって気になって、明後日が待ち遠しかった。



 当日、俺は13時半には西森さん宅のインターホンを押していた。


 えーと、101号室だから、ここで良いんだよな。

 30分も早いけど大丈夫かな?


「はい」


「西森さんですか? 中山です」


 ドアが開き、半年ぶりの西森さんが現れた。


 ……あれ、前に合った時も細身だったけど、更に痩せているような。


「中山さん、ご無沙汰しております」


「こちらこそ、ご無沙汰です」


「僕が依頼しないと会えないので、中山さんからご無沙汰って言われると何かちょっと……」


「あはははは」 「ふふふふ」


 半年ぶりの再会だったけど、俺達の間には何の垣根も無く、直ぐに笑い合った。


「あのー……」


「ええ、フルも、親分もうすもマガリも、子供達も元気ですよ。どうぞどうぞ」


「本当ですか! それは良かった」


 喜ぶ俺を見て、西森さんは二度三度と頷いた。


 部屋に入ると、俺の予想とは違い、3階の部屋と間取りは同じだ。


 あれ、広くもないな……

 それに前と同じ間取りなのに、水槽の位置が変わっている。


 まぁ、そんな事よりも、まずは親分とうすとマガリに挨拶を……

 

「お前達、元気だったかぁ!? 俺の事を覚えているか?」


 西森さんは、そうやって挨拶する俺を優しく見ていた。


「ふふふ、見て下さい。3人共ヒレをパタパタしていますよ」


「本当だ! 俺の事を覚えてくれていたのかな?」


「ええ、この子達も賢いので、そうだと思います」


 次に、同じリビングに移動していたフルにも挨拶をした。


「元気か、このわんぱく坊主め。相変わらず俺の部屋と同じ殺風景なレイアウトだな」


「中山さん、フルは女の子ですよ」


「あっ、そうだった。あははは。坊主だなんて言ってごめんなフル~」


「ふふふふ」


 この後、全ての水槽のメダカ達に挨拶を終えると、西森さんの笑顔が徐々に薄らいでいく。


「中山さん、どうぞ座って下さい」


「ありがとうございます」


 水槽が良く見えるリビングの真ん中にテーブルセットがあり、そこの椅子に座った。


「コーヒーで宜しいですか?」


「はい。ありがとうございます」


 コーヒーを淹れようと、キッチンに向かっている西森さんを見て、その時初めておかしい事に気付いたんだ。


「……」


 そして、5分ぐらいで西森さんはマグカップを二つ持って戻って来た。


 どうしたんだろ…… ま、まさか…… 


「に、にし」


「中山さん」


「は、はい」


 西森さんは、俺の呼びかけに、言葉を被せて来た。


「実は折り入ってお願いがありまして……」


「はい、何でしょうか?」


 その時の西森さんは、初めて見る真剣な表情をしていた。


「僕に代わって、この子達の面倒を見て貰えませんでしょうか?」


「……え?」


「……」


「この子達って、親分とかフルとかの事ですよね?」


 西森さんは目を伏せるとだんだんと下を向き、首が折れるかのようにガクっと頷いた。


「はい、そうです……」


「ど、どうしちゃったんですか? こんなにも可愛がっているのに、どうして急に?」


「……僕にとっては、急ではないのです」


 顔を上げて、俺の目を見つめてそう言った。


「え? ど、どういう意味ですか?」


「実は中山さんを初めて呼ぶ以前から、この子達を任せられる人を探しておりました」


 うつろな目で、西森さんは話を続ける。


「僕は、この子達の世話を、もう直ぐしたら出来なくなるのですよ」


 ……西森さんの痩せ具合といい、さっき感じた違和感。

 そう、明らかに動きが遅く、まるで老人の動作を見ているかのようだった。


「……もしかして、ご病気ですか?」


「……はい」


 大きく頷いて返事をした。


「中山さん…… ALSってご存じですか?」


 ……ALS。どこかで聞いた事あるような……


「すいません、分からないです」


「筋肉がだんだんと時間をかけて痩せていき、動けなくなる病気で、筋萎縮性側索硬化症きんいしゅくせいそくさくこうかしょうと言います……」


 俺は病気の説明を聞き、テレビでその病気のドキュメンタリーを見たのを思い出した。


「確か、難病の……」


「はい、そうです。今の医学では、病気の進行を遅らせる事しかできません。そして、病気のスピードには個人差があって……」


 前に会った時も確かに細い人だとは思っていたけど、まだ元気だったのに、たった半年でここまで……


「病気の宣告を受けたのは1年以上前です。来月に胃ろうの手術を受けることになりました」


「い、胃ろう……」


「はい、口から食事をとることが出来なくなるので、胃にチューブを通して直接食べ物を送るんですよ。勿論入院することになるので…… この子達の事が心配で……」


 俺は思わず、水槽をゆっくりと見回した……


「世話と言いましても、この子達を俺の家でって事ですか?」


「いえ。1階に引っ越したのは、病気のせいで階段の上り下りがきつくなったのと、隣に両親が引っ越してくることになりまして、その両親が階段の上り下りをしなくて良いようにと。そして、水槽はこのままここに置いておきます」


「俺が週に何度かこの家に来て、この子達の世話をするって事ですか?」


「はい。エサやりぐらいなら両親にもできますが、以前にもお話をお聞かせしましたが、アクアリウムはかなり繊細なもので、うちの両親には難しいと思います。

 それに、動けなくなる僕の世話もしながらだと、どうしても無理なのではないかと……」


 確かにそうだ。これから本人とご両親には、過酷な日々が待っていると思われる。

 水槽の水替えや水質の検査など、1、2個の水槽なら兎も角、この数だと…… 

 だけど、だけど、どうして俺を……


「西森さん」


「はい」


「どうして俺に……」


「私は元々人付き合いが苦手でして、この子達の為にネットやアクアリウムショップ、それにペットショップで気の合う人を見つけては家に招待して、この子達の話をしていたのですが……」


「はい」


「表面上話しが合っても、この子達への思いと言いますか、考えが、同じと感じ取れる人が居なくて……」


 そう言うと、西森さんは1つ1つの水槽に、ゆっくりと目を向けた。


「1番の理由は、この子達が中山さんを好きだって事なんです」


「この子達が……」


「えぇ。こんな小さな魚ですけど、感情はあります。一緒に生活していると、分かるんですよ。色々な人に水槽を見せましたが、中山さんが家に来てくれた時、この子達が1番喜んでいました」


 ……確かに、俺もこの子達が懐いてくれていると思っている。


「勿論、お礼は致します。そんなに沢山払う事は出来ませんが、欲しい金額を言って頂ければ……」


 俺は俯いて、考え込んでしまった。


 別に金の事を考えていた訳ではない。俺に西森さんが納得出来るほど、この子達のお世話をする事が出来るのだろうか? 

 これから病気で大変になる、西森さんに、余計なストレスを与えることなく……


 西森さんのように、この子達に情が移ってしまうのも時間の問題、いや既に移っていると言っても過言ではない。

 たまに数時間一緒に居ただけで、愛おしく感じているし、西森さんの、この子達の力になってあげたいと思う気持ちはある。


 だけど、この子達が俺のせいで病気になったり、死んでしまったら俺は…… 俺は……


 この時、ニャンとブラが去った時の悲しみを、俺は思いだしていた。


 あの悲しみは、正直もう味わいたくない……

 

 俺の頭の中で、様々な感情や考えが渦巻いていた。


「な……な、なんで……」


「え?」


 俺は西森さんに、目を向けた。


「どうして僕は、こんな病気になってしまったのでしょうね……」


 西森さんは俯いて、大粒の悔し涙を流していた。


「僕のここまでの人生、何もこれといって良いことはなくて、何かが大当たりしたこともないのに、こんな病気の当たりを引くなんて……

 何も、何も悪いことをしていないのに…… どうして…… どうして……

 正直、この病気が恐ろしくて、眠れないことも度々ありました。怖いですが、動けなくなる事への心構えは、出来つつあります。

 だけど、だけど、この子達の事が心残りで、それだけが…… それだけが……」


 ……全部では無いが、俺にも西森さんの気持ちが分かる。


 俺はこの時、西森さんと初めて会った時、機会があればこの町に住んでみたいと俺が言ったのに対しての、西森さんの返答を思い出していた。


(そう思うのなら、直ぐにでも引っ越した方が良いと思いますよ)


 あれはつまり、生きている間に、健康な間に好きな事をしておいた方が良いという意味だったのだろう。


 そうなんだよ…… 俺はその気持ちを、この仕事を始めた原点を忘れかけていたようだ。


「西森さん……」


 西森さんは、俺の呼びかけに答えられないほど、涙を流している。


「俺でよろしければ、是非お願いします。この子達が快適に暮らせるための知識を、もっともっと教えて下さい」


 西森さんはその言葉を聞くと、涙を溜めた目で俺を見つめてから頷いた。


 だけど俺には、どうしても西森さんに伝えないといけないことがあった。


「西森さん、実は俺……」


 正直に、自分の身体の事を伝えた。


「そうだったのですか……」


「えぇ、それでも宜しいでしょうか?」


「……はい。中山さんが宜しいのであれば僕は是非!」


 こうして俺は、この子達のお世話をすることになった。


 西森さん宅に呼ばれる時は、今まで通り会社を通して、レンタルおじさんとして来ることに、二人で話し合って決めた。



 それからすぐに、俺はある事を相談しに会社に赴いた。



「中山さん、今日はどうされました?」


 そう声を掛けて来たのは、俺達レンタルおじさんのコーディネーターの白石さん。

 この会社には似合わないと言ってもいいほど、気品のある美しい女性だ。


 白石さんは、お客さまからの依頼にそった斡旋あっせんや、レンタルおじさんのスケジュール管理や伝達、その他全てをしてくれている。

 そして、この会社の他の業務もこなしており、凄く優秀で、会社にとっては不可欠な存在だ。


「えぇ、ちょっとご相談がありまして……」


「こちらへどうぞ」


 案内された部屋は、まるでフルの水槽のような殺風景な部屋だった。


「コーヒーをお持ちしますね」


「いえいえ、お構いなく」


 そう言って遠慮したが、白石さんはコーヒーを淹れて来てくれた。


「どうぞ」


「すいません、いただきます」


「さっそくですけど、ご相談というのは?」


「えぇ、実はお客様の西森さんの事なんですが……」



 西森さんの病気の事を、簡単に他人に話して良い訳が無い。

 なので俺は、事前に西森さんから会社に話す許可を頂いていた。



「そうなんですか……」


「はい……」


 白石さんは時折、遠くを見るような表情をしていた。

 たぶん、真剣に向き合ってくれている。


「俺の……」


「えっ?」


「俺の取り分は無しでもかまいませんので、何とか、何とか認めて貰えないでしょうか?」



 取り分……



 白石さんは目を伏せた。

 どうやら、かなり困らせている様だ。申し訳ない……


「分かりました。この件は、私の方から議題に取り上げておきます」


「ありがとうございます白石さん。すいません急にこんな話をして……」


「いいえ、レンタルおじさんが快適に働ける環境を作るのも、私の仕事ですから」 


 今までどの女性からも向けられたことのない、素敵な笑顔でそう答えてくれた。




 そして2日後。


 会社からの電話だ……


「はい、中山です」


「中山さん、白石です」


「はい、お世話になっております」


「こちらこそ、いつもありがとうございます。この前の件ですけど……」


「……はい」


「会社の方で検討した結果、中山さんのご希望通りにと決定しました」


「本当ですか!?」


「えぇ、ですので西森さんからのご依頼の時は、料金は1時間1000円になります」


「あー、ありがとうございます」


「ただしですが、会社と中山さんの取り分は・・・・、5対5になります」


「えっ!? 俺も頂けるんですか?」


「えぇ、当然です」


「ありがとうございます」


「中山さん」


「はい」


「今回は特例中の特例と言う事ですので、他言無用でお願いします」


「はい」


「次に同じようなお話がありましても、同じように対処は出来るか分かりませんので、そのつもりでお願いします」 

 

「はい、分かりました」


「それでは失礼します」


「はい、ありがとうございました」


 はぁー、良かったぁ~。


 これで西森さんの負担が少なくなる。本当に良かった……


 この件は、白石さんがその日のうちに、会議の議題として取り上げてくれた。 

 会社としてそういう特例を設ける訳には行かない、という意見が当たり前の様に出たらしいが、白石さんは対抗した。

 そして最終的に、社長の鶴の一声によって決着したらしい。

 後日、仲が良い社員の浜口さんが、こっそり教えてくれた。

 本当に、白石さんに感謝しないといけない…… 今度、俺の田舎の名物でも、包んで持って行こう。


 それから数カ月の間、俺は必死になって西森さんの知識を受け継いだ。

 そして、西森さんは徐々に筋肉を動かすことができなくなり、ベッドで寝たきりの状態になって、人工呼吸器を装着する事になった。


 同じマンションに引っ越してきたご両親と、雇った介護士の方が西森さんを介護して、俺は週に1、2度呼ばれ、あの子達の世話をしている。

 西森さんの寝室からは、全ての水槽が見える様に配置されており、毎日、皆の様子を見ながら病気と戦っていた。

 そして、それから数年のうちに、寿命が2~5年のメダカ達は、一人、また一人とその寿命を全うして天国へと旅立って行った。


 悲しいこともあったけど、嬉しいこともあった。


 新しくレンタルおじさんとして仲間になった甲藤かっとうさんは、自称だが水槽王と名乗るほど、アクアリウムのプロフェッショナルな方で、色々な人にアクアリウムの話を聞かせるのが好きだった。


 西森さんのあの子達に対する愛情と同じような事を、話してきたので、俺は少し驚いた。

 その話を西森さんに聞かせると、甲藤さんに是非会ってみたいと言ってくれた。


 会社の許可を得て、甲藤さんを西森さん宅に招いた。


 涙を流しながら熱弁する甲藤さんの話を聞いている時、西森さんは、確かに微笑んでいた。

 その後、甲藤さんのフラワーホーンと、フルで繁殖をしてみないか、と甲藤さんが提案した。


 西森さんはまだ微かに動くまぶたを使い、お願いしますと俺達に伝えてきた。


 フラワーホーンの繁殖は難しく、フルは特に攻撃的なので、半ば諦めていたが、流石自称でも水槽王と名乗るほどの人だ。その知識により、見事にフルは産卵した。

 そして、フルの子供たちは、甲藤さん経由で沢山巣立って行った。無論、甲藤さんの目にかかったアクアリウム仲間で、大切に育ててくれる人達の元へ。


 あのメダカ達の子供も、甲藤さんが卵を貰ってくれて、ふ化させて育ててくれている。

 西森さんが愛情を持って育てた子供達の子孫は、こうして受け継がれていったのだ。


 そして数年後、最後に残ったフルを見届けた西森さんは、後を追う様に天国へと旅立って行った。


 遺言通り、あの子達と一緒に、安らかに眠っている……


 西森さんは、両親に俺への手紙を託していた。


 中山さんへ

 あなたのお陰で、僕もあの子達も良い余生が送れました。

 あなたと甲藤さん、そして、あの子達に出会えたことが、人生の最大の喜びです。

 本当にありがとうございました。



 西森さん…… 俺の方こそ、あなたとあの子達から……

 大切な事を学びました。

 

 本当に…… ありがとうございました。



 俺の名前は中山英吉。職業は、レンタルおじさんだ。


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