第6節
第6節(その1)
6
それは果たして、一体何の音だったか――。
正体が気にならない訳ではなかったが、近寄るべきではない、それは得策ではない、という思いも脳裏に去来する。抱えた赤子の事もあるし、ここはベオナードに言われたとおりに宿営に急ぐべきだ……そう思い直したが、もう一度足を動かそうとしたときには、時すでに遅し、であった。
すぐそばの路地から、王国軍の兵士たちが三名ほど、姿を見せる。何かから逃れるように後ずさりながら、這々の体で開けた通りに向かって……つまりアドニスが立ち尽くしているその場所へと転げるようにして這い出してきたのだ。
細い路地裏からある程度開けた場所に出たと知って、兵士たちは体勢を立て直し逃れてきた何かとあらためて対峙する。そう、彼らが剣を手に向き直った先に、彼らを襲った襲撃者の姿があった。
廃墟と化した城塞が国境を防衛していたのは百数十年も昔の事だという。隣国の兵や蛮族の民が侵犯するであろう国境線は今現在ではここからは遥かに遠く、組織だった夜盗の群れが王国軍と知って襲撃をかけてきたりという事も考えにくかった。となれば、肝心の襲撃者は一体何者だというのだろうか。
人のように二足歩行はしていた。だが相対する兵士たちを睨み据える眼が爛々と真っ赤に光っているのを見て、それが通常の人間であろうとはだれも考えなかったに違いない。
月明かりを受けて暗がりにわずかに浮かび上がるその影は、おおよそ人外のものにしか見えなかった。全身が鱗のようなもので覆われていて、両手の指の先は鋭いかぎ爪になっており、手首からひじにかけて魚の胸びれのような板状の突起物が見受けられるがそれも鋭利に尖って、ともすれば相手を傷つけるためにあるようにも見えた。何より、首から上が大蛇の頭部そのままで、子供くらいであれば丸のみに出来そうなくらいに大きく開けた口元には、やはり獲物を引き裂くための鋭い牙が光っていた。
そんな悪鬼のような化け物が三匹、同じ頭数の兵士たちと相対していたのである。
三体並ぶうち、真ん中の一体が金切り声を上げながら相対する兵士に襲い掛かる。迎え討つ三人の兵士のうちやはり真ん中で剣を構える一人が、闇雲に振るった剣をあっさりと弾き飛ばされ、次の瞬間にはものすごい膂力で組み伏せられていた。左肩を押さえつけられ、右腕が喉元をぐいと締め上げる。両脇の二名が仲間を助けようと悪鬼を引き剥がそうとするが、残る二体の悪鬼が一歩、二歩とにじり寄り、彼らの行動を牽制するのだった。
「いたぞ、こっちだ!」
そうやって一組が揉み合っている周りで兵士と悪鬼が睨み合っているさなか、往来の向こうから息せき切って別の兵士の一団が駆けつけてきた。先頭に立つのは、近衛騎士のルーファスであった。
「おのれ、化け物め!」
彼は抜刀すると、恐れもせずにまっすぐに悪鬼の群れに向かっていく。それは蛮勇に近かったかも知れないが、つい今しがたまでベオナードがアドニスとともに廃墟へ赴き村を空けていた事を思えば、その留守を預かるという自負もあっただろうし、何よりも近衛騎士という肩書きからしてそもそもが選りすぐりの武人でなければ名乗れはしないはずだった。
アドニスの前で兵士たちと睨み合っていた二体の悪鬼は、目の前の怯えきった兵士よりも、勢いよく向かってくる近衛騎士の方が脅威であると見て取ったのか、すぐさまそちらに向き直る。両者とも軽く身を屈めたかと思うと、その両足で地面を力強く蹴り――次の瞬間にはあっという間に仰ぎ見る高さまで跳躍し、まるで猛禽が上空から獲物を狙うがごときに、鋭い爪を振り上げてほぼ同時にルーファスに挑みかかっていくのだった。
通常、剣を持った相手と向き合ったさいにはそのような高みからの斬撃などあり得はしない。通りいっぺんの剣技の稽古の中では想定されていない攻撃だ。だが近衛騎士はその肩書が伊達ではないことに、定石を外した相手の動きにすぐさま対応した。一足とびにおのれから見て右側に飛び退って、悪鬼が狙う着地点から間合いを置いた。
さすがの悪鬼も空中で身を転じることは出来ない。ルーファスは向かって右側の悪鬼に狙いを定め、分厚い手甲で横っ面を力任せに殴った。よろめきながら着地した悪鬼に対し、同じ横っ面を今度は剣の柄尻で容赦なく殴打し、苦痛に身をよじったところを一思いに袈裟懸けに両断する。切っ先は分厚い鱗をざりざりと滑っただけのように思えたが、後ずさって立ち上がった悪鬼の胸部には刀傷が斜めにありありと残されていた。
もう一体はどうしたかと言えば、ルーファスに続く兵士たち――これは近衛ではなく王国軍の兵士たちだったが、律儀に剣で相対するようなことはせず、そのような怪物が出現したと聞き及んだ時点で最初から長槍を手にその場に駆けつけていた。悪鬼のうち残る一体を複数の兵士で取り囲み、誰かしらの号令で一斉に突きかかる。
その一体が劣勢と見るや、先に兵士を組み伏せていた方の悪鬼も立ち上がってルーファスが連れてきた一団の方に挑みかかっていくが、そのタイミングで、先程アドニスをその場において一人駆けていったはずのベオナードが、他の兵士たちをぞろぞろと引き連れてその場に引き返してきたのだった。
「押し包め! あやかしの化け物だ、遠慮などするな!」
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