第5節(その3)
一面に広がる血だまりは月明りを照り返し、ただどす黒く広がっているのだった。何かに気づいたのか、ふいにアドニスは前方へ――血だまりのぬかるみの中に足を踏み入れていく。
「あっ……おい!」
ベオナードが慌てて呼び止めたが、彼女は膝までぬかるみにつかりながら、汚泥をかき分けて突き進んでいく。彼女の向かう先にあったのは、血だまりに沈んだひと振りの剣の、柄の部分だった。
ベオナードはそれに見覚えがあった。彼が竜の首に深々と突き刺し、そのまま根元から折れてしまった彼自身の剣だった。這々の体で帰途に付き、村に到着する手前で今更のように鞘の中身がない事に気づいた。愛用していた武具だから手元にないのは寂しかったが、翌日血だまりに沈むのを発見して、どうせ折れているのだし拾い上げる気にもならずそのまま置きざりにしてあったのだ。
それを、アドニスはわざわざ血だまりに踏み込んでまで拾い上げようというのだ。
何もベオナードのためにそうしたかったわけではないだろう。なぜ彼女がそれに興味を示したのか、彼女が拾い上げた次の瞬間ベオナードも理解した。
拾い上げた……というか、彼女はその柄を、血泥の中から引き抜くように持ち上げた。
ベオナードはおのが目を疑った。アドニスの手の中にある今、その切っ先はどこも折れてもいなければ欠けてすらいない。まっすぐなひと振りの刃がそこにはあった。
無論、ひとたびは折れた事実には間違いなかっただろう。月光を照り返すその切っ先は、元の通りとは言い難かった。
ベオナード自身愛着を持って丁寧に手入れをしてきたのは確かだが、元はと言えば軍からの支給品で、匠の手になる銘品というわけでもなかった。だが今アドニスの手にあるそれは、緋色の玉を磨き上げたような不思議な光沢を放ち、石とも金属ともつかない見たこともないような色に輝いていたのだ。
さらに、アドニスはベオナードの制止も聞かずに、自ら血だまりを渡って竜の前足にたどり着く。見れば握り締められた指の隙間から布切れのようなものがはみ出しているのが分かった。
「近衛騎士たちは爪を切り落とす時に、これに気づかなかったのかしら……?」
指の隙間をこじるようにして、布を手繰り寄せる。どうにか引きずり出したその布の内側に、小さな塊がくるまれていた。
「……まさか」
アドニスはその布の包の重みを慎重に確かめ、恐る恐る包みを解いてみる。中から出てきたのは……それはまさに、人間の赤子であった。
赤子は布のくるみを解かれたとたん、風が冷たかったのか、それとも呼吸が自由になったからか、ぐったりとしていたはずなのに急に小さな胸を上下させ、けたたましく泣き声をあげはじめた。アドニスはただ困惑し、血泥の上に先程の剣を思わず取り落し、腕に抱いた赤子をどうにかあやしつけようとぎこちない動きで揺さぶってみる。
「正騎士ベオナード、あなたに子供はいる?」
「子供どころか、まだ独り身だ」
「私も、妹夫婦のところにこの間子供が生まれたとは聞いてるけど、まじまじと近くで人間の赤子を見た機会など数えるほどしかない。けど、これはやっぱり人間の子供なのではないかしら。そうではない得体の知れない何かだなどと、どうやったら言い切れる……?」
そう……。
うまく頭が働かないが、今のアドニスの言葉がどのような懸念を示しているのかはベオナードにも分かった。わざわざ誰かが死せる竜の指の間に生まれたての赤子を捨て置いていったのだ、と考えるよりは、それが本当に人間の赤子なのかどうかを疑う方が自然だっただろう。
では、人間の赤子ではないとすれば、一体何物だというのか。
それ以上どのような想像をめぐらせたものかすらも、ベオナードには分からなかった。
「では、どうするのだ?」
「どうするって……」
アドニスはしばしの逡巡の末、答えた。
「連れて帰りましょう」
「正気か?」
「では、この子をこの廃墟に置き去りに出来る? 大人だってこんな荒野の真ん中に何も持たされずに放り出されれば、どうなるものか分かったものじゃない。いずれ死ぬかもと分かって、あなたなら置いていける?」
問われて、ベオナードは何も言い返せなかった。アドニスはいかにも慣れない手つきで赤子を抱き抱えたまま、血だまりのぬかるみを歩いて戻ってくる。
「一度村に戻ろう。その子の処遇はそれから考えても遅くはないだろう」
アドニスに返事はなかったが、無言はそのまま肯定と受け止めて差し支えなかっただろう。それ以上死せる竜の亡骸をぼんやり見ていたところで何も始まりはしない。ぬかるみからもう一度剣を拾い上げると、二人は再び馬上の人となり、村への道をとぼとぼと引き返していった。不慣れなアドニスが赤子を抱いたまま手綱を操るのには無理があると訴えたので、赤子はベオナードが小脇に抱え、かわりに紅い剣はアドニスが携えたまま持ち帰ることとなった。
すでに村人も部隊の者たちも寝静まる頃合いだっただろうか。だが村の様子はどこか騒がしかった。
村に宿があるわけでもなし、部隊は村はずれに野営地を設営していたので、決まり通りに歩哨の兵が立っていた。だが歩哨が焚いている松明以上に、村中のあちこちが煌々と照らされているのが分かる。
その明かりが動いていることから、誰かが松明を持って動き回っているのだということが見て取れた。
「何事だ?」
小走りにかけていた兵士をつかまえて、ベオナードが問う。
「用心してください。何者かが部隊の兵士を襲っています」
「村の者たちは?」
「住人に被害は出ていないようですが……念のため、戸締りをして一歩も出ないように触れ回ってはありますが」
ベオナードは抱えていた赤子をアドニスに託すと、その兵士を伴い村の中心部へと馬首を巡らせる。手綱を振るう前に一度振り返り、馬上からアドニスに告げた。
「アドニス、お前はその赤子と一緒に宿営に向かうのだ!」
そのままベオナードは一目散に駆け去っていく。残されたアドニスはと言えば、片手に赤子、片手に剣を抱えたまま、途方にくれてしまった。宿営に向かえと言われたが、村で起きている異変に知らんふりを決め込むわけにもいかない。やむなくベオナードが馬で駆けていった先をとぼとぼと追いかけていくが、正騎士の姿はあっという間に消えてしまっていた。
そんな折、通りの向こうから、叫び声――そう、叫び声としか形容できない異様な物音が響いてきて、彼女は思わずその場で足を止めた。
(第6節につづく)
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