第6節(その2)
「押し包め! あやかしの化け物だ、遠慮などするな!」
悪鬼の方が膂力に勝るとは言え数では人間の兵士の方が勝る。ルーファスの一閃が表面的とは言え鱗を切り裂いたのであれば、剣や槍が効かぬ相手でもなさそうだった。
兵士たちに包囲され、三体の悪鬼たちはみるみるうちに追い詰められてしまった。
無論、その鋭い牙や爪で暴れまわろうものなら兵士たちも無傷ではいられないだろう。果たしてこの場はどのように収まろうというのか……あるいは収まらぬままになってしまうのか。アドニスは呆然としながら見ているしかなかった。無論、竜を倒したときのように彼女が魔導の技で加勢してはならぬという事はないのだが、赤子と剣を抱えたままでは呪文の詠唱もろくにできない。
そうやって呆然と立ち尽くすアドニスの存在に、悪鬼たちもそこでようやく気づいたようだった。何も遠巻きに見守っていたわけではない。ルーファスが悪鬼に斬りかかるその瞬間をアドニスは割合にすぐ間近で見ていたのだ。
「いかん、魔導士を守れ!」
ベオナードの声が飛び、兵士たちが武器を手にアドニスと悪鬼の間に割って入るが、そのうちの先頭の一人が、悪鬼が豪腕を振るうとあっという間に弾き飛ばされてしまったので、続く者たちの間に動揺が走った。
アドニス自身、文字通り血の気が引くのが分かった。兵士たちを突き飛ばして、悪鬼どもは着実に彼女の方を目指しているのだ。魔導を使わねば敵ではないとその場で一番侮られていたのか?
いや、そうではなかった。その時アドニスは初めて気づいたが、赤子とは反対の手で握りしめていた例の緋色の剣が、ほのかに光を放っていたのだった。
「――!?」
アドニスは息を呑んだ。その輝きを見て、悪鬼もまた慌てて彼女に向かってくる。間合いが近づくにつれて光はその輝きを増していく。
アドニスは魔導士だ。剣など扱ったことなど一度もない。だが紅い切っ先は彼女の細腕でも持ち上がらぬほどに重いというわけではない。いやむしろ、輝きを増すごとにその負担が軽くなっていくようにすら思える。そしてアドニスがその切っ先を高々と掲げると、それを見た悪鬼たちが急に怯え出すのが分かった。
彼らはこの剣を恐れている――。
アドニスは左腕に赤子を抱えたまま、右手で剣を振り上げると、高々と掲げたまま一歩、二歩と悪鬼たちに向かっていく。彼女がその間合いを詰めるにつれ、悪鬼たちは態度を変え情けなくも後ずさりを始める。そのままどこかへ逃げていくのでは、と思われたが、剣の輝きが目の前に迫るにつれ、彼らはひれ伏すようにしてその場にうずくまってしまう。
どうすればよいのか確信があったわけではないが、アドニスは剣をすっと振り下ろすと――力任せではない、あくまでも切っ先を軽く触れさせるようにして、ひれ伏す悪鬼の肩をそっと叩いた。
ごく簡単に触れただけだったにも関わらず、悪鬼は途端に苦悶のうめき声を上げ始め、剣が触れた肩口から順に、背中、腕、腰から下へ、つま先に向かって……みるみるうちに灰色の塊になって、ぼろぼろと崩れていく。
それを目の当たりにして残る二体も命乞いをするかのように両手を振り、おのが身を庇うように地面に縮こまる。アドニスはその二体にも切っ先を軽く突くようにして触れさせると、彼らもまた一同が見守る前でみるみるうちに灰になっていく。
その灰の塊が悪鬼の姿をかたどっていられたのもごく僅かな時間で、あとは夜風に吹かれるままにさらさらと跡形もなく崩れ落ちていくのだった。
「一体、何が起きたんだ……?」
ぽつりと呟いた正騎士ベオナードの声に、呆然自失の状態から我に返ったルーファスが、やり場のない憤りをぶつけるように怒鳴った。
「何がというのなら、そもそもこの悪鬼どもは一体何だというのだ! こやつらはどこからやってきた? なぜ我々を襲ったのだ!?」
「怒鳴っても仕方がなかろう。……このような折に村を離れて申し訳なかったとは思うが」
「そもそもその剣は一体何なのだ。どこで見つけてきたというのだ。いや――」
そこまでまくし立てて、近衛騎士ルーファスは初めて、アドニスの左腕に抱きかかえられている赤子の存在に気づいた。彼の怒鳴り声に怯えたのか、包んだ布越しに、赤子がむずかるような泣き声を上げ始めて、それが周りの兵士たちの耳にも届いたのだった。
ルーファスのみならず、兵士たちの目がアドニスに注がれる。大勢の視線にさらされて、アドニスはいかにも気まずそうにぼそぼそと答えた。
「……廃墟で見つけて、持ち帰った」
「それはどっちの話だ。その剣か、赤子か」
「両方とも。剣は竜が流した血溜まりの中に落ちていた。赤子は――」
アドニスはちらりとベオナードの表情を窺ってから、先を続けた。
「赤子は……ルーファス、あなたが爪を切り落とした竜の、その残りの指の間に握られていた」
その言葉に、近衛騎士は鼻白んだ。言ったアドニスにどこまでの意図があったものか、言外に近衛騎士がその赤子の存在に気付かなかった事を非難しているようにも聞こえて、あまり愉快な思いはしなかっただろう。だがそこにいちいち噛みつくような大人げない罵倒をルーファスはどうにかしてぐっと飲み込むと、恐る恐る赤子に近づいてみるのだった。
不慣れなアドニスの腕に抱きかかえられたその赤子は、近衛騎士の目にはまさしく人間の赤子のように見えた。
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