第3節(その2)
「竜を支配しているのは怒りだ。まだ若い竜だ、有り余る魔力を秘めてはいるが、何故そのような力を持たされているのかが分からない、そんな苛立ちを抱えているのだ。あるいはこの私がその怒りを鎮める事が出来ればと思ったが、逆に取り込まれ、私の魔導のわざもまたこの竜の怒りの発露の手段に成り下がってしまったよ。……本当に気をつけた方がいい。出来うる事なら気づかれる前にこの場から逃げ去った方がいい」
オルガノフの言葉に誰も返事を返せなかった。魔法使いの言葉自体が、真摯な警句というよりはまるで仰々しい芝居の長台詞のように空疎な響きに聞こえた。
そのオルガノフがしかと見据えていたのは、やはりアドニスであった。彼女は助けを求めるようにベオナードを、そしてルーファスを見やるが、二人にしてもアドニスの挙動を固唾を呑んで見守るばかりだった。
やがて……オルガノフがそれこそ舞台上の役者のように天を仰いで両手を広げると、それに呼応するかのように、彼の背後にいた竜がゆっくりと首を持ち上げるのだった。
その場にいる誰しもが――オルガノフを除く全員が、はっと息をのんだ。
「……逃げて!」
アドニスが短く叫ぶ。ベオナードとルーファスはそれを受け、それぞれに配下の兵士に退却を指示するが、明らかに竜の動きの方が早かった。竜は大きく身を乗り出し、前足を伸ばす。逃げ遅れた兵士の一人が無残にもその下敷きとなった。
オルガノフの恍惚とした陶酔の表情の向こうに、アドニスは憤怒に荒れ狂う獣の眼を見た。彼女はただ恐れおののき、後ずさる事しか出来ずにいた。
その竜の、大きく開かれた口腔から炎が吹き荒れるに至って、士官である無しを問わず、探索隊の一同は総崩れになって闇雲に逃げて行くのだった。この世の終わりのような大音声の咆哮が響き渡ると、建屋そのものがぶるぶると震え、人々は恐れのみならず足をすくませざるを得なかった。その背後には炎が迫り、ある者は這うように逃れ、ある者は慌てて階段を転げ落ち、そしてある者は運悪くも灼熱に焼かれて消し炭になっていくのだった。
這々の体、とはまさにこの事だ。騎士としての矜持も兵士としての責務も関係なく、ただおのれが生き残りたいがために人々は走った。
それでも騎士ベオナードは他人をかばう余裕こそ無かったものの、自分よりも遅れを取っている部下がいないかと、周囲をぐるり仰ぎ見る機会が一度ならずはあった。アドニスが立ち止まって竜を……あるいはオルガノフを振り返ろうとしたのが見えて、ベオナードは強引に肘をつかんで思いとどまらせる。そんな彼らの背後すぐ近くまで灼熱の火炎が迫っているのが見えて、ベオナードはアドニスをおのが腕に庇いながら転げるように地面に伏せた。
「……ッ!」
その拍子にどこかぶつけでもしたのかアドニスが呻きをもらしたが、ベオナードはおかまいなしに彼女を階段の窪みに向かって突き飛ばした。そうやって二人がもつれるように階下へと転げ落ちたのが、敗走する隊列の最後尾だった。
さすがにはしご同然の階段を真っ逆さまに転げ落ちてはひとたまりもない。アドニスは反射的に腕を伸ばし、踏板を掴もうとする。手が滑ってその場にとどまる事は出来なかったが、直接階下の石畳に頭から激突するのは回避出来た。床にごろりと転がったアドニスが上体を起こしてあらためてふり仰ぎ見ると、竜はまるで勝ち誇ったかのように薄闇の空に向かって雄叫びを上げていた。
その時、アドニスは確かに見た。竜の傍らに仁王立ちになっていたオルガノフが、一歩足を引いて竜の方に身を寄せたかと思うと……そのまま、魔法使いの姿がすっと消えていくのが分かった。最初からそこにいたのは肉体を持った人間ではなく幽魂のたぐいだったようにも思えたし、物理的にオルガノフの肉体が竜の身体と何らかの形で同一のものへと吸い込まれていったようにも見えた。いずれにせよ、竜を前にしてオルガノフの姿はきれいさっぱりかき消えてしまったのだった。
そして再び、竜の咆哮が響いた。
その勝どきの声を聴く者はただ惨めに敗走する彼ら王国兵のみだった。この廃墟の街に、竜に……竜に取り込まれたオルガノフにひれ伏す者が果たして他にいたかどうか。先の調査団の行く末は何一つ明らかでは無かったが、楽観出来ない事だけは確かなようだった。
「さて、どうする?」
部隊がその場から引き下がってどうにか安全と思われる場所までたどり着いたところで、近衛騎士ルーファスがベオナードに問うた。
「どうするもこうするもあったものか。これ以上武勲にこだわっても仕方があるまい。竜は実在したし、友好的でも無かった。まずは竜がいたという第一報を王都に知らせる必要があるだろう。だからまずは、伝令を送る」
「それから?」
「それからの事は、それから考える。ヘンドリクス卿の返答を待つも良し、その間に出来ることがあれば考える」
「不甲斐ないとは思わんのか!?」
「近衛が何かしたいなら俺は止めはせんが、俺の判断としては、まずは村へ撤退だ」
ついてくるかどうか、それは好きにしろ……ベオナードはそう告げて、おのが配下の兵士達に撤収の指示を下した。苦虫を噛み潰したようなルーファスだったが、そのやり取りを傍目で見ていた魔道士アドニスにもベオナードの言い分の方がどう考えても真っ当に思えたから、それ以上何か言う気にもなれなかった。
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